宗教への迫害の歴史
 “敗北する共産主義”の諭説で(1989.9.26)サンヶイ新聞論説委員、鈴木肇氏は、ロシアの未来への救いは“正教と道徳革命”であると力説して、共産主義の敗北の一つは、ロシア革命(1917)以来、宗教禁止の失政の結末であると論じている。
 また、世界日報小川特派員の取材報適(1990.10.28)で、ソ連白ロシア共和国ロシア正教のフィラレッド府主教に、この度ソ連最高会議が採択した「宗教法」についての評価を問い、その笞えを記載している。
 「同法を、われわれは、長い期間を待ちに待っていた。同法を獲得するために、ソ連の宗教家は大変な犠牲を払って来た。これまで弾圧されて来た宗数が公式に法人として公認されたことは歴史的なことで、ソ連の民主化プロセスにとっても、大きな前進であると言わなければならない」と感激を表明していると伝えている。
 宗教に対する禁止と迫害の歴史は、かつての日本の歴史でもあった。
 1549年(天文18年)フランシスコ・ザビエルが日本の南端鹿児島に上陸、キリスト教伝逍をはじめて以来、多くの殉教者を出している。その弾圧、迫害はソ連国の惨事よりはるかにきびしいものであった。
 1587年(天正15年)、キリスト教禁止令が出されてからの殉教者は数え切れない。1596
年(慶長1年)には今もその像を残す“26聖人”の殉教があり、1621年(元和7年)には「元
和の大殉教」で55人が処刑されている。
 日本の神は、天照大神より外にないとするキリスト教禁止令は、死罪のつきまとう過酷なものであった。
 こうした国情の中でロシア正教が伝えられてから100年、東京・神田のニコライ堂は今も朝夕の祈りの鐘の音を絶やすことなく、東京の名所として残っている。
 このニコライ堂建設の歴史を知る人は少ない。その歴史の中に、坂本龍馬の存在が刻まれていることを知る人は更に少ない。
 偉業につながる逃亡
 明治24年(1891)八年間の歳月をかけて落成したニコライ堂埋設の発起人は、坂本龍馬の
父方の従兄山本代七の畏男、山本数馬である。数馬は龍馬より10ヶ月年上の父親似の強気で、父に叱られた反抗で小砂利を手に一杯投げつけた。父の顔から血が流れた。父親の怒りは大きく、両手をしぼり歯の中へ閉じ込めた。夜になって父親は心配して倉を開けて見ると、いびきをかいて眠っている数馬にあきれて「これは、俺の負けじゃあ」と、その豪
胆な少年数馬に屈したという。
 この御し難い息子を妻(数馬の母)の姪である富の夫、武市半平太にあずけて江戸修行に出した。道場は違うが龍馬もそのとき二度目の江戸修行で、常に交流があった。
 後の土佐勤王党の盟主・武市半平一の尊王攘夷の薫陶を受けた2人は、若い血潮をたぎらせていた。
 数馬は豪気が災いして悪友にさそわれ酒を飲み通行人をおどかした。驚いて逃げた通行人が落として行った時針を拾って質に入れ、また酒代にした。その時計は当時としては珍しい外国製のもので、すぐ持ち主が判った。この事件は土佐藩の恥辱として武市を通して数馬に切腹の極刑が申し渡された。これは塾生でしかも身内の者をあずかる塾長・武市の大きい責任であった。
 「潔く罪に伏して切腹する」という数馬を「21歳やそこらで殺してたまるか、逃げろ」と言う龍馬の言葉に武市も共に旅金を作って江戸脱出をさせた。この龍馬の計らいがなかったなら数馬のやがてのニコライ堂建設は成立しなかった。武士として逃亡をためらう数馬に「東方を視察して勤王党の状勢をさぐり、やがての大挙に備えよう、禍を転じて福としよう」
との龍馬の励ましに応えた後の東京神田ニコライ堂の建設は、数馬の偉業となった。
 江戸脱出後、あてもない逃亡の旅であったが、やがて函館に渡り、ニコライ神父に出会うまでのドラマは、人の計らいを越えたものであった。

 日本最初の受礼者
 会津での御前試合に勝ちをゆずった折柄、後の日本国郵政の創始者、前島密と出会う。数馬は前島密から函館ヘー緒に行くよう誘われ、松前船で新潟港から函館へ向かった。函館の船宿での強盗退治が縁となって、神明社(現山上大神宮)の七代宮司として見込まれ、縁組、入籍で山本数馬は、沢辺琢馬と改名した。思わぬ神前に仕えることになったが、龍馬との約東の勤王攘夷への道を深めてゆく。
 その神明社の函館山に朝夕の鐘を鳴らしてニコライ堂が建っていた。キリスト教禁止の国是のどまん中で琢馬の心中はおだやかでなかった。そのニコライ堂の中に後の京都同志社大学創始者、新島襄が出国の時を待って潜伏していることを知った。長崎、下田に次ぐ開港地、函館からの国を思う出国であった。神明社の宮司沢辺琢馬の力を借りたいとの申し入れに、死罪を覚悟で手を貸し無事に出国させたことは、今も同志社大学の中の歴史として残っている。
 新島襄出国の後で琢馬はニコライ神父に切り込みをかけた。キリスト教禁止の日本に布教の殿堂建てた真意を殺意を込めて問うた。南からのフランシスコ・ザビエル、北からのニコライと言われる伝教の使者は、邦訳の聖書一巻を与えて「読破の上で話そう」との意を示した。禁教のきぴしい日本での聖書読破は生と死の対決を意味するものであった。
 神はニコライの祈りに応給うて、琢馬は「天父の存在」に開眼した。明冶1年(1868)4月
禁示令以降、日本での最初の受礼者となり、続いて明治8年、日本最初の司祭となった。
 日本への神の警告
 また、同4年潜行に潜行を重ねる布教の中、不便な函館から東京へ本部を移すようニコライ神父に進言して止まなかった。しかし琢馬は遂に投獄された。龍馬は暗殺、武市は獄死していた。獄死を覚悟の琢馬はニコライへの遺書として獄中からニコライ堂建設をすすめていた。明治6年、天父は助け給うて禁止令は解かれた。ニコライ神父は東京に聖堂建立の資金を集めにロシアへ帰った。国民はよろこんで神への献金として多額の資金をニコライ堂建設に充ててくれた。
 1990年2月、高知新聞に「黒いソフト帽」というタイトルで、西武ライオンズ根本睦夫管理部長の“話題”が掲載された。根本氏はアメリカから日本を眺めて「経済大国日本は精神界で逆行、退行している」と述べ、国家民族観の否定、大家族制度(家)の崩壊による教育機能の喪失、そして宗教心の喪失を憂えておられる。そして、「オレは神田ニコライ堂の正教会信徒である」と誇り高く胸を張っておられた。
 “悩めるソ連”“飢えの不安にさらされるソ連”という報道タイトルを見る度に心が痛む。そ
れは、将来の日本への神の警告ではあるまいか。
 神田ニコライ堂の鐘は、病めるソ連へ、飢えるソ連へ、日本が手を貸すべき時を知らせているのではあるまいか。(作家)

 中野文枝(なかの・ふみえ)明治38年、高知県土佐市生まれ。高知県師範学校卒。教員を経て文学活動へ。昭和27年月刊「女性高知」創刊主宰。著書「ひいらぎ」「栄女記」「坂本龍馬の後裔たち」など。