9月30日、雨。台風が南から関東に近づいている。妻も子供も出掛けて静かな午前中だ。久し振りにターンテーブルを回して古いジムークローチのレコードをかけた。
 どういうわけか南アフリカの景色が次々と目の前に浮かびなかなか消えてくれない。多感な少年時代を過ごした時代への郷愁からだろうか。
 いろいろ思いを巡らすうちに来年は正海を連れてケープタウンまで行きたいと考えた。
そういえば正海は小学校1年生。われわれが南アフリカへ行った時の弟、幸衛の年齢に達している。
 行くならジャカランダの紫の花が咲き乱れる春がいい。まずAlexander Fungに会いたい。5年前のクリスマスカードではヨハネスブルグで写真館を開いているはずだ。そして2年間通ったSt Albans Collegeを訪れる。
 マレー校長はいるだろうか。可愛がってもらった科学のバーゼル先生、名前を忘れたが人種を超えて日本人や中国人の世話をやいてくれた寄宿舎ノール・ハウスの主任、よく尻をたたかれたナッピシャー・ハウスの主任。
 学校へ行けば、友人の動静も分かるだろう。喧嘩ばかりしたファニケーク。一緒に通学したギャバン・ワットソン、ファンロイヤン。言葉も分からない私を始めから陰になり日向になり支えてくれたジェイソン・デハベラント。
 みんなそれぞれ偉くなっているのだろう。25年たった彼らは何を考え、今何をしているのか。急に知りたくなった。
 そうだ、ベンにも会いたい。ユリさんにも会いたい。運転手であり、お手伝いさんだった日常しか知らなかったけれど、そのときどういうことを考えていたのか。家族はどう暮らしていたのかも闘いてきたい。
 アレックスには1週間ぐらいは休暇をとってもらって、一緒に旅行がしたい。カルー砂漠を車で走って、ポートエリザベスに抜け、20年前と同じように丘陵地帯を越えてケープタウンに出たい。
 カルー砂漠では地平線まで真っ直ぐな舗装道路が続き、ときおり羊の群れが横切る。突然訪れた町のホテルは日本人を受け入れるようになっただろうか。オレンジ・フリースデートの州都、ブルムフォンテンではまだ午後九時になると不気味なサイレンが鳴り響き、黒人たちが町から一斉に姿を消すのだろうか。
 ポートエリザベス後背の丘陵ではジョージ・ガールが聞こえ、葡萄畑の脇を突っ走れぱほのかにワインの薫りがするはずだ。
 ヨハネスブルグ郊外の黒人居留区ソエトは黒人同士の対立で流血事件のない日はないと聞く。ようやくアパトヘイトから脱却の道を探り出した南アフリカをいまもう一度、大人の目で見てみたい。
 南アフリカへの旅は決して郷愁だけではない。自分自身の原点をもう一度探る旅でもあるのだ。若千十四歳。父の赴任について当然のように訪れ、2年間を過ごした。冬と夏が北半球と逆転する南半球。人種差別を日々、黄色人種である自分への敵意として感じつつ、半年間は全く言葉の分からない状態が続いた。父は「試練」といい『将来への糧』と言った。
 当時、日本ではベトナム反戦ブーム。社会主義的思想が国内を蔓延し、人種問題すら階級史観としてしか捕らえられなかった時代だ。「こんな不正義が南半球の片隅で公然と行われていいのか」と自問した。将来は技術者になる夢しかもだなかったラジオ少年が社会問題に目覚めた強烈な二年間だった。
 『アパルトヘイトは人類最後の砦である』と当時思った。ローデシアは白人が20万人しかいなかったため人種差別体制がすぐ崩壊してジンバブエという新しい国家が生まれた。しかし、南アフリカには400万人もの白人がいる。黒人が1600万人とはいえ、南アフリカの白人は一般にいうマイノリティーではなかった。
 昨年の秋以降、ソ連・東欧を中心とした社会主義が崩壊し、戦後の冷戦構造も解消した。
世界の目が南半球のアフリカに注がれている。