国立大洲青年の家主催青年団体指導者研修(第4日)

昭和62年6月4日

 ただいまご紹介頂いた伴正一です。今日は大洲青年の家に招かれ、四国・山陽方面で青年運動のリーダーをなさっている皆さんに「現代社会と青年」というテーマでこれから2時間半お話をすることになりましたが、始めにちょっと自分のことを申し上げますと、私は今までにいろいろやりました。私の生きた時代そのものが非常に激動の時代でして、5分か10分位私がたどって来た人生とその背景であった時代というもののお話をしてみたいと思います。

 もの心ついた頃に日本が満州事変というものを起こしました。私は小学校一年生で、学校の掃除の時間に窓ガラスを拭きながら、兵隊さんが満州に向って出征してゆくのを『兵隊さあーん』とこう送ったのを幼な心に憶えております。

 日本がまだ貧しい貧しい時代で、私の小学校の同級生など今で云えば栄養失調なんでしょうね。一人忘れもしない同級生の死顔をみました。小学校の2年か3年の時でした。その子は学校へ来る時に弁当箱にですね、おかずが全然入ってないんですよ。ほとんどが麦でそこへごまがかかっているだけなんです。当時はまだ男の子でも5分の1くらい洋服でなくて着物を着てね、ぞうりはいてましたけれどその同級生の子の弁当とそれから着物姿とそれから死に顔。貧しい農家のね、そういうのが今でもよく思い出されるんです。そして豊かになった今と、たった50何年の間にこんな違いが出来たんだなあと空恐ろしいような気もする訳です。

 中学校へ入りましてから、2年の時に昭和12年ですねもうちょうど50年、半世紀前、今度は日支事変というのが起こります。北京の郊外の蘆溝橋で日本軍と国民政府軍とそれから共産軍と三ツ巴で戦争が始まるんです。それが大きくなって大東亜戦争になり、松山も焼け、高知も焼けるというところまでいく訳ですが、その発端の頃やっぱり兵隊さんを送った。中学校二年の時、昭和二一年であります。私は戦後北京の日本大使館で3年間外交官として勤務しましたけれども、いろんな出張の時には極力飛行機にのらないで汽車にのりました。なぜかというと当時中国で新聞といえば人民日報というのが一般紙としては唯一の新聞で、たった四、五ページしかないのですが、本当の中国の姿というのは人民日報だけみていても解らない。本当の中国に接しようと思うけれども、友達も出来るんだけれど、そういう友達がどこに住んで居るか分らない。家の電話も分らない。そんなことで北京に住みながら、街ゆく人々はみる事は出来るし、向こうの外務省の人とかお役人さんとはしょっちゅう接触するが、どうも本当の中国というのがみえないんです。で、私は汽車の旅を大切にした。せめても窓からみえる景色をよく見ておこう。変哲もない大平原。揚子江を越えると日本みたいな起伏のある丘陵地帯、その自分の視界の中にある中国こそはこれは偽りのないまちがいのない中国だ!と思って。夜はみえませんから仕方ありませんけれども昼間は窓から目を話さないで、ジイーっとこの外の景色をながめていました。

 で、私がそんな生活をしている中で非常に感じたのは、ちょうど私が中学校へ入ったばかりの頃の日本というのは今の中国と大体同じなんですね、生活水準が。

 だからちょっと汽車で郊外へ出ますと若い娘さんが、番茶の出花の18とか20歳くらいのお嬢さんが畦を天秤棒をかついでいそがしく動いている。皆さんみた事ないでしょう、もうそんな姿、映画でしか。うら若き女性がですね、日本だったら皆ハイヒールはいて歩いているようなそんな年頃の女性が、野良着で天秤棒かついで畦をこう働いている。その姿をみるとですね、私、歴史の時計を50何年元へ戻したような、非常になつかしい。幼少の頃を思い出した訳です。

 で、色んな事を感じましたねえ。貧しいなあと思う。そりゃ確かにね。中国のいわゆるお百姓をやっているような人はさっき云った私の友達の家と同じような貧しさですねえ。家の中にロクに物もないような、それがまあ汽車の窓からちょっと垣間みえる。

 しかしその、貧しいなとも思うけれども、野良で若い女性がかいがいしくこうやって働いているのをみると健康だなあとも思うんですねえ。健康だなあと。これは理由は何もない。只思うだけなんですけどね。

 そういう事はやっぱり、今の日本社会がすべて良いんであって、私の幼少の頃の日本がすべて悪いという訳でもないんだなあというような事を連想さしてしまう訳ですね。まあ、それが中学時代の思い出話ですけれども。

 それから私は海軍。中学を卒業して海軍経理学校というところへ行って昭和18年から本当に南太平洋で軍艦にのる訳ですが。今の若い方にとって多少ヒントになるような事を申し上げると、二つある訳です。一つは生と死という事です。私は駆逐艦にのった事もありましたが、駆逐艦なんていうのは本当に1センチか2センチの鉄板の外は魔の海ですからね。魚雷が当りどころが悪かったら一瞬で撃沈、バアーンと、大音響がして、それっきりシューッと沈むんですね。だからその、夜ねる時にですね、ウトロウトロとこう蚕棚でねる時にですね、待てよ、これであたりどころが悪かったら、オレはどうなるんだ。バアーンときた時一瞬目がさめるだろう。目がさめても1分と生きてないだろうとね。目がさめた途端にもう死でしょうな、多分。というと俺は今その30秒位の余命はあるにしても、これ今寝入りつつあるんだけども、これ死につつあるのと同じじやないかなあと思うんだなあ。自分がものすごく切ないですよ。始めのうちはね。そのうちに段々図々しくなってそんなこと、もう思わなくなるんだけども、環境に慣れて。眠りつつある時、これが即、死と同じかなあと思うっていうのは本当にまあ、本当に当時の駆逐艦乗りでもなけりやちょっと感じる事のない死ですよね。死のうらは生ですが。だからまあ皆さんは生というものを、切実な思いで生を、残る人生を思い、秒単位とか時間単位でそれをはかった事はないでしょう。まあそういう点では生というものを天は二物を与えずと云いますけれども、その厳しい生死の境の中で生を実感し得たという事は、これは私はやっぱりそれ以後の人生にとって大事な事だったと思います。で、生というもの、生命というものを大事にするというのはただ頭の中で生命を大事にするんじゃなくて、もっと切実に自分の命、自分の人生、自分の今日、自分の今、という様な感じでとらえる工夫は、こういう平和な時代には特別なさる方がよろしい。

 戦時中は工夫などしなくとも、否応なしに極限状態を境遇がつくってくれる訳です。ま、それが一つの海軍時代の原体験であります。もう一つは何かといいますと、私五つの艦にのりまして四つ沈みましたけどね、私ののった艦は。それで最後が松山の吉田浜海軍航空隊副官というのだったんですけども、当時私の同期が偵察機にのっておりました。彩雲という非常に優秀な偵察機だったんでサイパンまで偵察で行っていたんです。それが府瀬川という男なんですが、自分で帝国海軍の至宝だというんですね。まだ21歳、22歳になっとったかも知れないが。今、日本の至宝だなんて云えるのは、20歳台ではオリンピックの水泳選手、とかでこの次の1500mではあれが本命だ、優勝候補だというような人くらいのものじゃないですかねえ。非常に特殊な場合でないと20歳とか21歳の人が日本の至る宝、国宝みたいなもんとは言えませんですね。ところが、その府瀬川というのが、オレが帝国海軍の至宝だなんていってるのは本当にそうだったんで、先輩がどんどん、どんどん戦死していって、

偵察の将校としてはですね、21歳の府瀬川海軍大尉、本当にこの人一人失うとサイパン偵察は出来なくなるかも知れない。という位の事があった訳です。これを一般化するとね、とにかくあの時代というのは20歳そこそこの人が日本の国家の運命を背おってたということ、それが事実だったんですね。だからその20歳そこそこの人がどんなに国の中で大事にされたか。それは鍛えられたり、殴られたりした事もあったけれどもどんなに、大事な存在だとして認められたかということが今思って印象的なんです。

 ところで、皆さん成年式や若ものの集りの時に国会議員が挨拶に立ったり、県会議員が挨拶に立ったり。知事が挨拶に立って、日本の将来は皆さんの双肩にかかっているというような事を云う。皆さんを励ましていると思うだろうけれど、それはね、日本の将来が皆さんの肩にかかっておるのは当り前で、二〇才の人だってやがて五〇になる。会社でいえば重役になり社長になる。それはもう、先々の事は皆さんが背おうに決まってんだ。そうでなくて今、あなた方に何してくれという事を云ってますか。いろんな挨拶、ようこれからもきいていって下さい。先のあなた方じゃなくて今のあなた方、今のその若さをこういう事にひとつ思い切ってぶつけて下さい、なんていう挨拶はあまりきかんじゃないですかな。

 青年をありのままの青年として現代社会が尊重しているかといえば全然してないように思いますね。これは非常にどぎつい事で格好いい言葉ではありません。けれども若い方々はですね。そういう自分の境遇というのを大人たちにけっこう言葉だけでうまい事いわれてだまされてはいけないと思うんで、自分達の今は、まず、自分の為にどう用いるか、次に世の中の為にどう用いるか。今でなくては出来ない事は何かと、人にまどわされずに自分自身の胸に手を当てて考えてみられた方がいいんじゃないかと思います。

 この二つが海軍時代の事を振り返って思うことです。こんな事を云っていたら思い出話だけで済んでしまうんですけども……。それから、私は戦争が負けてからですが。正直に云うとやっぱり虚脱でしたね。あれだけある事に生きがいを感じつづけた。戦争に勝つことにですね、その当時は。その一つの事に本当に自分を投入した後で、それがすべてむなしかったと思った時にはですね、今頃の作家や文化人が戦争負けて良かったと思ったとかこれでホッとしたなんていうけれどそんな単純なもんじゃない。今までの柱がガガガ~ともう倒れてしまう感じでしたよ。もう何も、考える意欲もない、そんな虚脱の1年を過ごしましたよ。

 そんな状況は、一つの極限状況なんですが、やっぱり私の世代から若い皆さんにお伝えしたいと思う。今からさかのぼってつくり直したようなカッコイイ事を云いたくない。正直な事はそうなんです。 戦争が終って、結局のところ私はまた、勉強し直そうと思って大学へ行くんですけども、当時は皆さんと同じ位の年なんだけども、海軍の軍人であったがためにですね、日本の為に好ましからざる人物、日本軍国主義を支える毒素、有害な人物であると認定されるんですよ。公務員試験なんて受けられないんだから。有害な人物として排除するという訳ですよ。殺しはしないけれどそれから6年間排除されるんですよ。マッカーサー占領軍から。マッカーサーも、「何だ、国が戦争している時にその国民が戦って何が悪いんだ」と私は思ったけれども、あとで外交官になってアメリカへ行って益々その感を深くした。というのは、アメリカではね、国のために戦った人達というのは排除されるどころか優遇されて大学もタダですよ。いろんな、私と同じ位の年の人がタダで大学、ゆうゆうとしてベテランといって優遇され、尊敬されている。日本が悪かったからといわれるんだけども、一般の兵士とか、若い20歳そこそこの将校がねえ、負けた方では有害な人物として排除され、勝った方ではとてつもない優遇をされる。何か矛盾を感じましたなあ。

 これはちょっと余談になりますけれど教科諸問題というのが去年もありました。中国と韓国が文句を言ってきましたねえ。あれの事なんですけども、泥棒にも三分の理という諺があるんだけど、戦争なんていうものがですねえ、一方が絶対正しくて一方が絶対に悪いなんていう、そんなことはやっぱりないんですよ。世の中ケンカでも大体片っ方が完全に良くて片っ方が完全に悪いというようなケンカはめったにないんですわ。やっぱり悪い方には悪い方なりの云い分があるんです。世の中というものはそんな単純に出来上がってないんだ。ところが私があのマッカーサーのパージを受けた時の論理はもう日本が100%悪い。アメリカとかソ連は100%正しいという論理であった。で、東京裁判というものも行われる訳です。

 ここで脱線ぎみになりますけれども、一体日本の歴史というのは。維新この方の日本の歴史は、世界の歴史の中で何だったんだろう。このことはですね、十分に議論されておりません。

 日本のインテリはほとんど日本が全部悪いように言いますよ。で、私はあえてこう云います。世の中の議論というものはね、あんまり一方的な、一方の議諭ばかりで反対諭がないというのは良くないんですよとね。やっぱり議論というものは、人間の顔が一つ一つが違うでしょうが。20人でもね20対0なんていう状況はおかしいんです。1対19とか2対18とか、くらいならわかるんだけれども0対20という事はどこかおかしいんです。今の日本の歴史の見方もちょっと日本を悪者視しすぎているように思う。私はこう思うんですよね。今から120年前の世界史っていうのはいわゆるヨーロッパ系の国々が世界制覇をほとんどなしとげてヨーロッパ以外の国でまともに独立国の体を成しているという国はどんどんなくなってきていました。極端に云えばまあ日本だけだったんじやないかな。その日本が、これがイギリスとフランスに分割されてとられていたら、そりやあもうヨーロッパ時代というのが今でも続いているでしょうね、多分。

 皆さんあたりのところは英語を喋べらされる、東北の人はフランス膳を喋べらされる。白いガバナー(知事)が今でも君臨しとったでしょう。ところがあの時にやっぱり明治維新というものを成し遂げた。あれは本当にまぐれみたいにうまくいったんですけど、よくもあんな事が出来たと思うんだけども、成しとげた。それで、世界の潮流というのは変っていくんであってね。最後は侵略戦争といわれても仕方ないあんまり良くない戦争をやりました。確かにね。しかし、明治維新でやっと独立を守り通した。それでヨーロッパが絶対じゃない、ヨーロッパ人が絶対じゃないという実証をした訳で。それからアジアの目覚めなんていうのは進んでいったんだろうと思います。

 そういう事を考えると日本という国が世界史の中でどんな役割を果してきたか。何も日本が外に向って今のように技術援助をした訳ではない。青年協力隊がいった訳でもない。円借款で金を貸してあげたのでもないが、そんな事を何もしない前に明治維新そのものがすごい世界史への布石、貢献だったと言える、有色人種の国々にとって日本の明治維新というのは、これがなければもう今日はないといっていいぐらい、逆算していえばですよ、大事なものであったんです。その意味では日本の歴史の1コマ、明治維新はですね、全く世界のためだなんて思わないで自分逮を守るという壮絶な気持ちでやったことなんですけれども、その明治維新がそれだけの意味を持ったんです。

 その日本の後姿がアジアやアフリカを自覚させる効果を持つたんだという事は、これは聞違いなくいえるでしょう。

 そういう事を考えてみるとやっぱりこの100年、150年の日本の歩んで来た道のりは皆さんもう一回ですね、教科書問題なんかでガタガタいろんな問題が出てますが、ああいうのを新聞でもうちょっと注意深く読まれてこの150年、日本の歩んできた道は世界にとって何だったのか。我々にとって何だったのか。アジアにとって何だったのか、というようなことを考えていただきたいと思います。

 自分の経歴を語っているうちに、とうとう本論の一つの部分にさしかかったんですけども、こうここまで来たらついでにその事を、脱線したままで申し上げますと、去年の施政方針演説で中曽根総理がこんなことを云いました。今までの日本は世界から受益する、利益を得ることにほとんど手いっぱいであった。しかしこれだけのもう大きな力を持った国になった以上、これからは世界に貢献する国にならなくてはならない。貢献するんだと。

 21世紀を展望して世界に貢献する日本国家のイメージが皆さん浮びますか。世界に貢献する日本っていうのはまだリップサービス、頭の中だけ。いってみりゃ虚像でしかないんだよな。実像がまだ浮ばない。中曽根さんは貢献と云うけれどもどんなに貢献するのかの実像がデザインとして浮ばないということではないでしょうかね。

 やっぱり、その実像を浮び上がらせるためにはですね。ここがまあさっきでいう明治維新としますかな。ここが昭和62年としますかな。これから先の実像を本当に描こうとすればやっぱり過去が何であったかということをもう一回みなければならんと思います。

 私が青年海外協力隊に居た頃非常におもしろい人と出あいました。皆さんは安田講堂でわかりますか。あの全学連とか安田講堂というのは。もう物心はついておられたのかなあ、あの頃。小学生ぐらい? あの学生運動の頃。小学生ですか。あの大学紛争の時にね、安田砦に立てこもって全国11万か12万の大学生に向って号命をしとった男がいるんですよ。

それで彼が監獄に入った後、歌手の加藤登紀子がですね、獄での接見を通じてそこで結婚してしまうんですね。そしてあの加藤登紀子のハズバンドになるんだけども、そのハズバンドというのが藤本君というんです。「もう私もしがないヒモになってしまいましたよ。」といいながら藤本君が直接私に述懐した言葉の中に非常におもしろいことがあるんです。そりゃもう、全学連が暴れ回った最盛期のトップですからね。それが意外なことを云うんだなあ。彼はねえ、太平洋戦争とも大東亜戦争ともいう、僕らの世代の云い方は大東亜戦争というんだけれど、これが何であったかと。良いも悪いもない本当に何であったかと徹底的につきとめる事なしに、日本の将来のデザインはかけないと言うんですよ。こちらはびっくり仰天して、どうしてそんな事云うんだって……。それから、三〇分予定で彼は私の所に来たんだけれども協力隊の局長室で2時間余り話し込んでしまった。それでその時始めて私はね、世代の断絶なんていうけれどもそんなことはない。フワフワ、フワフワして暮してる熟年とフワフワフ、ワフワしている青年とは少し違うんだけど、本当に人生を考え、自分を考え、そして又国も考えるとなったら日本翁が通じ合う仲間じやないか。年が20歳やそこら違ったってそんな断絶なんかあり得るはずがないと。今はそう思ってるんです。そう思わしてくれたのは藤本君なんですよ。

 今日は私は歯に衣きせずに、おべっかもいわない。そらぞらしい事はいっさいいわないつもりでおります。皆さんの気にさわる事は多分あるだろうと思います。何いってやがるんだ、と思うようなことはあるだろうとおもいます。が、これはあえていう方が、そして実像と実像で理解をしようとする方が、はるかに、意味のない空々しい美辞麗句を並べていうよりいいと思います。そのつもりで、お聞き頂きたいと思います。

 現代社会のとらえ方ですけれども、現代の日本社会をとらえるとですね。これは私なんかよりももっと他の講師の方がはるかに向いている。私はたまたま私の経験から、外国と、ある時は戦争という形でかみ合い、ある時は外交という形でかみ合い、ある時は青年協力隊を通じてかみ合った。

 いろんな外国及び外国人とのかみ合いがあった、そういう経験があるのが、私のとりえだから現代社会というのは、広く世界を見渡した感じでとらえてゆきたいと思います。その中に青年の役割とかいうのがどんなものになるかということを皆さんと一緒に考えてゆきたいと思います。

 さき程の自己紹介の続きはもう止めます。外交官になってからのことは止めます。それで今、お届けした文章ですけれどこれはですね、皆さんにお話しする為に書いたものじゃ実はないんですけども、今、私にとっても最大の課題を、協力隊、青年協力隊というものに託して書いたものですので、便宜これを読むような格好をしながら、現代社会と青年という本題の話しをしてゆきたいと思います。

 で、ちょっと講義みたいになりますけれども最初の方、半ページ程、読んでみます。「一、若者達を孤立させているもの。今の協力隊、青年海外協力隊ですね、今の協力隊を21世紀に於ける日本の進路と深いところで関連づけることは出来ないものであろうか。新人類といわれる世代から協力隊の応募者が絶えないで出ている。若い時にしか出来ない事を! 何か役に立つ事があるのではないか。そんなロマンや使命感を彼らは一個の人間として持っているようである。マンネリ化した職場や生活から心機一転しようとする気持ちが働いていることもあるだろう。挫折がきっかけの応募だってなくはなかろう」。ここの下りなんですけれども、ここでロマンと使命感という言葉をこれは私書きましたけれども、実は私はですねえ、協力隊のOBや皆さんみたいに若い人にこんなことを云うんです。

 ロマンというと全く自分だけの幸せに直結するような響きがありはせんだろうか。必ずしもそうではないけれども自己中心の感じが出すぎる感じがすると。使命感というと今度は自己を犠牲にしすぎた、世の中のためばっかりの様な利他の感じが出すぎてしまうと思う。もうちょっと真ん中位にいい言葉はないのかなあ。と問い続けてるんだけれどもまだこれはという言葉を出してくれない誰、も。で。今私が仮にこれはどうだろうか、この言

葉はどうだろかと、言葉遊びみたいになるんだけども、思ってるのが「志」という字なんですね。この言葉の欠点は若い皆さんにはちょっとまだなじみがないこと、ないけど全く無い訳じゃないと思います。「志」というとき、私共が若い時に志したというときに、金を儲ける志なんていう云い方はなかったですね。金持ちになる志なんていうのはなかった。で一番多かったのは学問に志すとか、お金を貯めてそのお金でシュバイツァーみたいなことをするとか。シュバイツァーつてご存じでしょ、あのアフリカへ行ったお医者さん。だからその「志」という言葉は私達の世代にとっては利益を追う、利益追及型の言葉ではないんですなあ。さればとて全く奉仕的かといえばそうでもないんですねこれ。適宜に世の中の為になりながら自分も生かす。自分を生かす、というところにかなりの比重を置きながらその背景に世の中の為にというのがチラチラする言葉ですからね。まあこういう言葉というのは始めからピタリということはないんで、まあこれからそういう意味の使命感でもないロマンでもない、両方の要素を包含したちょうどいい言葉としてこれからはやらせる。もう一回りパイプさせてはやらせてゆくのはどうかというように思っています。

 そうすると、青年協力隊なんかの場合もどうして青年協力隊へ行くのかという時に、志という言葉があれば非常に適確に表現出来ることがある。志というのは単一型のものでは全くないんでね。私達が幼少の頃、あえて皆さん以前の時代の事を語るけれども、私達の幼少の頃は立志伝というのがよく子供の読み物にありました。それから西国立志編、こんな本もあったなあ。確かこれは少年用に書いた本で読みやすくて、次におもしろくて、血沸き肉躍るような少年読み物なんですね。ここに書かれている群像は非常に多彩なんですよ。もちろん政治家もあれば軍人もあれば学者もあればあの陶工柿右衛門的な、焼物に打ち込んだ人生とかね。それから演劇に打ち込んだ人生とか、非常に多彩なんだ。だから今の教育基本法に書いてある様な文化的で、平和的で、民主的な人間なんてそんな抽象的な表し方じゃないんだなあ。メニューがいっぱい出てるんだ。この立志伝というものにはね。いろんな人が。メニューはもうそれこそ何拾何百とあるから小学校5、6年頃の子はね、俺はこんな人間になるぞ、オレはこんな人間じゃ、お前はこんな人間を志向したらいいとかね、もう各種類の、顔の違う各人にそれぞれ向いたようなメニューが提示されていた訳です。

 そういうところに全部「志」という字が出てくるんだな。志という字が。今のロマンなんていう言葉よりもっとずっと多様性を包含したいい言葉じゃないかというように思います。で、さき程いったように今の大人ですね、いい加減な事ばっかりいう。本当に私はそう思う。日本の将来は皆さんの双肩にかかっておる。そんな抽象的なうつろな事ばっかり云ってだね、あいつは何に向いてるぞとか、君の展望はこういうところにありゃせんかと思うがねえとか、それは今始めな出来ないよとかね。そんなアドバイスではなくて、日本の将来は皆さんの双肩にかかっておる、若ものよ、ヤングよ、とおだてるばっかり。そういう意味で私は志という言葉を一つ皆さんへのヒントとして提示してみた訳であります。

 まあ、その志を立ててそれに向かって、努力していくというのにもね、いろいろあるんですよ。その群像のそれぞれの特徴があって。例えば非常にひたむきな、例えばトーマスーエジソンという世界の発明王の場合に、本当だろうと思うんだけれど何かの時に奥さんの名前を書かないかん時にフッと奥さんの名前をド忘れしとったというんだなあ。それ位極端に、ものすごくひたむきに、自分の研究に打ち込んでいた訳ですね、今でいえば、モーレツ社員……とはちょっと性質違うんですけれども。おっとりして大器晩成で成長してゆくタイプもあるし、賢いお母さんが居るというような事もありますね。中江藤樹というの、皆さん、今度大洲へ来られたんでその賢いお母さんの話を聞かれたんじやないでしょうか。中江藤樹先生は近江聖人と呼ばれた人なんです。陽明学のね、この人は近江で生れてそれからおじさんかお父さんに連れられて大洲の殿様に仕えてここに遺跡があるんだそうですね。それから又近江へ戻られる。それで近江聖人と呼ばれて41歳で亡くなるんだな。41歳で亡くなるんだけども、その人が勉強修業中にね、皆さん笑わないで。古いのが悪いとは限ってないんだから。新しいのが良いとは限ってないんだから。雪の中をですね、理由は忘れたけどもお母さんに逢いたくなって、ホームシックになってその家へ帰って来たのね。その時にお母さんが玄関先で『何という事ですか。それで男ですか。』といって心を鬼にして追いだした。で少年中江藤樹は雪の中を又、帰っていった。そういうところあたり、賢い母というのが、志を立てて一つの目標をもって人生を歩む時に、その周辺にいた例ですよ。そんな厳しい母ばかりではないですよ。いろんなタイプが出て来るんだ。それでも中江藤樹の場合はそういうお母さんのお陰で途中で挫折しなくて志をとげる訳ですね。

 まあねえ、一見とりとめなくなるかも知れませんけれど、さっきから思ってるんですが、こういう多様性のあるモデル設定を、教育基本法の世界と見較べてジイーと眺めてますとね、こっちは多神教の世界という感じがするなあ。一神教というのはキリスト教とか、マホメット教とか。仏教は私、今だによく解らないんだが、どうも仏教は多神教的ですね。お大師さんがおったり、アミダさんがおったり、お地蔵さんがおったりですね。本当の哲理をきわめてないけれども日本人というのはやっぱり多神教に馴染むんじゃなかろうか。あっちは、抽象的なんですよ。一神教というのは。戦後の日本ではこの教育基本法に象徴される様に、一神教的な発想がね、抽象名詞が氾濫する訳。例えば、自由とか平等とか民主とか平和とか、毎日の生活にはね、そういう基本的な事を云われても、それが実際にはどんなことなのか自分が判断しなきやいかん。非常にしんどいなあ。僕なんかこっちのいろんな群像の物語が、解りやすいんだなあ、生きた人間が実際にやったことの物語だから。

 ここは私が一生懸命に考えている最中の事を皆さんと一緒に考えたいと思うんだけれども。今のね、会社の社長、新日鉄の社長だとか三菱電機の社長なんていう連中がね、旧制高等学校で「ああ玉杯」なんて歌をうたいながら習った事はあっちなんだね。カントだとかヘーゲルとか。ところが結局彼らの頭には昔の寮歌しか残ってない。極端に云えば。彼らが経営をやっている時に為になると思って読むのは山岡壮八の「徳川家康」とか司馬遼太郎の「龍馬がゆく」とかなんですよね。総理大臣でも大会社の社長でも今、経済大国の日本を牛耳る人々はカントやヘーゲルを読んでないもん。カントやヘーゲルを読んでおった時代の寮歌で酒を飲んで、そりゃ昔を懐かしむ事はありますよ。けれども、今、彼らの指針になっているのは、やっぱりあの司馬遼太郎の書いたものとか山岡壮八の書いたような物語なんでしよう。だから日本人はもう少しアッサリと多神教的手法に回帰すりゃいいんじゃないか、そのような気がするんです。えらい脱線を致しましたけれども、まあそういう多彩な中で志という概念を捉えていく事が可能だと思う訳であります。

 山口からみえている方もありますが、立志のくだりの話をもう少しやらして貰うとですね、堅い中江藤樹的な話もあるんだが、堅苦しくないのもあるんです。例えば、幕末の群像ですねえ。第一、私の郷里の坂本龍馬など、堅いこと全然ないんですよ。手紙で、お姉さんにエヘンエヘンとか、偉いだろう俺は、だとか、まるで子供みたいなことを口語体の俗語を交えて書いてるんですね。それから長州の高杉晋作の辞世のうた。ご存知の方もあると思うんですが、28歳で彼はこの世を去るんですね。維新回天の事業、それこそ高杉晋作がいなかったら今日の日本は絶対にない、といえる高杉晋作。山口以外の人のために申し上げると、日本中で勤皇党が弾圧されて、佐幕派一色になる。長州藩も幕府に恭順の意を表して家老が3人切腹してそれでやっとこらえてもらった。で、もう長州藩もあげて佐幕派になっているその時、功山寺、今の下関で高杉晋作が兵をあげる訳です。反乱する訳ですよ。その時だからまだ24、5歳だろうな。その反乱がまたふるってんだねえ、ついてくるのは27名だが、侍といえるのは、伊藤俊輔、後の伊藤博文だけなんだ。

 それからどんどん小説みたいなストーリーが始まるんだけれども、その功山寺挙兵がなかったら武家政治はそのままで、恐らく日本はイギリスとフランスに分割されたでしょう。その高杉晋作が28歳で世を去るんです。皆さんよりちょっと上くらいでこの世を去る訳ですね。

 さっきの命の問題じゃないけどその時に筆をどう持って、寝ていてどう書いたか知らんけど辞世の歌をこう書いた。

  面白く

   ありもせぬ世を

    面白く

 とね。こうこまで書いた時にもう生命力が尽きる寸前で筆を取り続ける力もなくなった。筆をポンと落すんです。傍で見守っていた野村望東尼という福岡の尼さんなんですが、恋人だったかも知れません。その望東尼が後へつけてね、どんな漢字つかってるか知らんけど。

  住みなすものは

   心なりけり

 とつけた。そしてそれを見せたら、高杉晋作はうなずいて、それでこときれたというお話になってるんです。

 これなんか、さっきの高杉晋作の壮挙なんか、私の子供の頃は一つの立志伝の最高峰だったんですね。

 こういうふざけたね(一見ふざけとるんだ)よく云えばおおらかな若き短い人生もあった訳です。おもしろくありもせぬ世をおもしろくI。この世なんてつまらない。つかの間の命じやないか。えらそうな事云ってるけど………、という訳で随分ニヒルだと思うんです。高杉晋作、女遊びもしたのね。人間の本能は簡単にいくかいなと思ったんでしょう、随分奔放な生活もしています。彼に云わせれば、本来は人の一生なんて大した事はない。それを自分の意志で、自分の思いで、或いは自分が一つの志を立てて、おもしろいものにして行くのだ。それがロマンだ。だがこのロマンなんて元からあるもんじゃないよ。おもしろくするのは

自分。自分の住みこなす技なんだ。この歌はそういう意味なんですよね。

 これなんか大変おもしろい、もう一回光を当ててこれからの若い人に見てもらいたいと思うことであります。それに関連してもう一つ思うことでありますけれども、私の若き日が戦争であった。高杉晋作もそれに似た様なこと、革命戦争であったんですね。今はもう日本の中ではそういう状況はない訳です。それゆえに若い人はある意味では非常にしあわせな時代、神武天皇以来最もしあわせな時代に生きているんだけれども、天は二物を与えず、やっぱり良い事ばかりはない、と思いますね。何の為に生きているんだかはっきりしない。おもしろくありもせぬ、くらいのところで止っている。そういう事が多いんじやないかな。そう思わないで結構楽しんでいる人もいるにはいるんでしょう。いるんだろうけれどもちょっと志のある人というか、ガッツのある人はやっぱり、毎日おいしい物食べて楽しい思いするだけでこれでいいのか、と思うでしょうなあ。ここら辺でこれから先どうしようかと。

 世界を見渡してみますとですね、今の世界、国内とはすっかり様相が違っています。私いつも思うんだけども、カンボディアのポルポット政権の兵隊ですが、皆さんよりもっと下の少年兵遵が今でも銃を持って敵をねらってダダダダダと撃っている。向こうから弾丸が飛んでくる。横の奴が倒れる。

 私カンボディアの場合特に哀れに思うのは、私が協力隊に行くちょっと前、外務省時代にアンコールワットというところの遺跡ですね、素晴しい大遺跡ですが出張のついでに行った事があるんです。そしたらこのくらいの子がね「おじさん、20リエルな。20リエル、安い。おじさん20リエル」なんてワアーツと寄って来てね。写し絵みたいな絵を持って。「おじさん安いよ。」と日本語使うのね、カタコトの。こうしておじさん、おじさんと寄ってきよった子、ぼうや達ね。

 「ちょっとまけとけ。15リエルでええやないか」なんて言うと「おじさん人が悪いなあ」とか何とかいいながらマケてくれる。こういう出会いですわ。その子たちが今こうやって戦っとるだろうかと思うでしょう。そしてある者はこの世を去ってるんだろうかと。高杉晋作よりもっと早く、ベトナム軍との戦いで、と思うと非常に切ない思いがするんです。それであのぼうや連、家が貧しいからああやってモノを売ってたんだろうなあなどなど、そのぼうや達のことがどうしても頭から去らないんです。

 しかしそれにしてもどうして彼らは逃げ出さないんだろう。ポルポットの陣営を。国を守るっていう事は人を殺すということですよ、攻めてくる奴を。今、案外そのことが分ってないんだなあ”国を守る気概”とかいうと人によっては何かこう男らしいりっぱな言葉、きれいな言葉に聞えますが。国を守るったってあなた、ドライブしながら国を守る事なんか出来っこない。国を守るというのは、攻めてくる奴もおる訳だし、それと撃ち合いをして殺す訳でしょ。人の生命を。殺人行為である訳です。 国をまもるという中にはそういう行動が当然に含まれるんで、うんとこっちが強かったら殺さなくても、こっちが鉄砲を繋つ前に向こうが降伏するから一人も殺さずに国を守れますよ。こっちがものすごい、強大なアメリカ以上の武力を持った時には、一兵も殺さずに、敵も味方も殺さずに国を守る事が出来る。しかし、そんな事、今出来っこないじゃやないですか。国を守るといったらやっぱり撃ち合いをやると、ま、こういう事ですよ……。この殺し合いというのをあのかわいい物売りのぼうや遠が、今、20歳過ぎでやっとるんかなと思うとね、非常に切ない思いがすると同時に、しかしそれにもまして、彼らがどういう思いで、20代の彼らが今、どういう思いであのベトナム軍や、ベトナム軍の方へついた同胞達に筒先を向けているんだろうと思う。

 カンボディアだけじゃありませんよ。アフガニスタンね、アフガニスタンで同じ年頃の人がソ連軍数万を迎え挙って、これでもう何年も頑張っていますね。恐らく初めの兵隊さん遠の半分はもうあの世へ行ってんですよね。

 わたしはむかしパキスタンへ在勤しまして、隣がアフガンでしたから日曜日にはアフガンヘドライブで遊びに行きよった。荒涼たる砂漠でね、あんな所でゲリラ戦なんかやったって火炎放射器なんかでダーツとやられたらいちころ。あんな所では1月も持たんだろうと思ったんです。ところがそのアフガンの住民が強大なるソ連軍数万を迎え撃つ。機関銃やロクでもない兵器でね。あんまり強そうにも思わなかった、テレテレして歩きよったアフガン人がね、どういう思いでソ連軍と戦い続けているんだろうか。

 現代社会にはこんな局面があるんですよね。だがそういう局面についてもう今の日本人は全く理解出来ませんね。

 世界のために何かする、というけれど、やっぱり、世界の為に貢献するならその前に世界の人の心を理解せんといかん訳。けれども、世界の人の心にもいろんな局面があります。

 協力隊の人々が出会うネパール人やタンザニア人もおる。しかし、いま言ったいつ果てるともない戦いで若き青春を燃やしている人もいる。いろんな人達、そういう人達の思いを理解、半分でも三分の一でも理解できるようにならんと、本当の意味で日本は世界に貢献なんか出来っこない。自分勝手の一人よがりの事をやっていい気になる。向こうの人のためにならん事をやって一人よがりを決め込む可能性がある訳です。

 そんな事を考えますといよいよ、今皆さんが指導されている若い人達に、どんな『志』を立てさせたらいいんだろうか。志という言葉がまずかったら、素質ある人にはどんなロマンが向いているんだろうか、ということを考え込まされますね。

 一回ずっと世界中を見渡して考えていただきたい。日本社会だけじゃなくて、世界の人々。要するに世界の若者をみていただきたいと思うのであります。

 ここでちょっと休憩しますけど、その前に忘れぬうちに云っとく事は、日本へやってくる若者というのはね、先進国ヨーロッパやアメリカから来る人達はまあまあ普通の人が来ます。しかし、開発途上国、アジア、アフリカから日本へ来ている人逮、皆さんがその、親睦パーティなんかをいろいろ献立てで下さる、そういう人たちはねえ、悪いけど特権階級の人なんですよ。その人たちと歌うたって、「若者は行く」とこうやってそれで国際親善が出来たと思ったらそりゃ間違いです。そりゃ序の口なんだよ。私はパキスタンにいる頃、総理府派遣の、皇太子さまご成婚記念事業の勤労青年グループを迎えました。本省から大使館への指示としてあったのは、パキスタンの勤労青年と接触させてくれという事。これぐらいメチヤな東京からの訓令はないんでね。私パキスタンに二年いたから分るんだけれど、この国に中間はいないんですよ。ま、全然いないはずはないけども。そして上の方はですね、一握りの、これは又、オックスフォードや、ケンブリッジ大学を出たような、女子も教養がものすごく高い層なんですね。日本の高校出の人がこんな相手と話してたらバカにされるに決っている。そんな世界一流の大学なんか出てたら人間が生意気になる。それを鼻にかける。いろんなむずかしい言葉使ったり、詩人の名前とかを出したり。プラトンとかアリストテレスくらいなら誰でも知ってるけど。もうちょっとむずかしい奴をね。そんな事をギラギラさせちれたらこっちは勤労青年、とっても歯が立ちませんよ。

 ところで下の方となるとずっと底辺に、本当に嘘じゃない乞食小屋に毛が生えたくらいの家に住んでいる。それでねまきみたいなパジヤみたいなのを着ていてね、そういう人たちの中には英語はおろか、ウルドウ語も喋べれないのがかなりいます。ウルドウ語というのはパキスタンの国語だけどそれもできなくて、その下の部族語しか喋べれないんだな。もうこれにはほとほと困り果てました。

 だから人間交流という場合、日本と開発途上国の場合はですよ、よおく、こんなことがあるということを覚えとって下さい。

 皆さん英語は会話の方になるとちょっと困ったねえということになるが、言葉で参るのは日本人だけではない。フィリピンとマレーシアは違いますよ。これはアメリカやイギリスに支配されとったんだから、英語使わなきゃ生きていけない。けれどもインド大陸になるとイギリス領ではあったがあれだけ図体が大きいと下の方は今お話したようにわからなくなるんです。タイだったら普通の農村青年あたりはタイ語しか出来ませんよ。

 人間交流の道は障害物だらけでしてね。

これから皆さんがいろんな事をなさる時に、本当はまだ序の口をいきよるんだとか、かなりいいとこへ突っ込んで来たなあとか、そこら辺の自分達御自身のやっておられる事を段階的に評価できるようでなくてはなりませんね。また交流の相手を見る場合に、皆さんと同じ階層。立場の人だと思ったら大間違いになることが少なくありません。それじゃここで40分まで休憩します。

(休  憩)

 これからは、お配りしたペーパーをもとにして話を進めさせて頂きます。

 後半のページー見無気力にみえるというところから読んでみます。ここはね、皆さんの意見ききたいところなんだ。僕はこんなに思うんだけれどね。私がみている20歳台というものは、ひょっとするととんでもない思い違いを私がしているかも知れませんしね。じゃ読んでみますよ。

『一見無気力に見える、そして接してみてもどうも白けている、しかしよく言えば以前の世代よりは素直で大らかな、そんな新人類世代の心も、その外殻や内壁を透視して中を覗いてみると、そこに‘何かを求めている”いのちの水のようなもの、何かの衝動で燃えだす火種のようなものを見る思いがしてハッとさせられることがある。今の大人は、年上の世代は、個人のしあわせ、ひいき目に見てもせいぜい家庭の幸せしか追っていない、しかも利を追う局面にしか生き甲斐を感じない人間だらけである。そんな”光源体”から真新しい世代に訴える、彼らの深層心理に届くような強烈なもの、赤外線のような強い光線が出る筈はない。どんなにきれいごとを言っていても、その虚なることを若い世代からきれいに見抜かれているのだ。自分たちの内なる光源体の透徹力の弱いことを棚にあげて、子や孫に当る世代を白けの世代呼ばわりしているのが今の大人ではないか。』ということなんですが、前半のところ、20歳台、世に云う新人類の世代に対して私はこの様に見たんだけど、これは見当はずれかな。どうですかなあ。当っている部分も中にはあるかどうか。どこら辺がちょっとあやしいとか………。何かもっている。ここが潜在意識としますか。ここいら辺にはあるのだが、ここまで来ていて□から出しては云えない。そんなことなのかどうか、そこら辺どうでしょうかなあ。

 もう一度言いますと、何かあるんだけど自分自身でまだ捉えきってないということなのかそれとももう潜在意識のようなものではない、ちゃんと意識の中ではっきりしてるんだけどもそれが言葉にならんということなのか。

 (受講者より発言あり)

 20歳台の人はこんなに思わないのかなあ。僕なんかはこんな年しいても時々思うんですが、さき程の高杉晋作の、面白くもありはせぬ世じゃないけど、こんなルールだらけの、がんじがらめの世の中。なんで世の中こんなルールばっかりでがんじがらめになっとるんだ、という思いはないですかな、若い世代には。あるんですよねえ。そしたら一昔前の人よりはもっと素直にポツと出ていいんでしようになあ。

 (受講者より発言あり)

 ストレートに出ないと? それが私遂なんかからみれば、良く云えば大人しい、悪く云えば無気力にみえるのかなあ。白けているともね。そうすると私の観察もそうトンチンカンでもないか。まあ合格か。

 (聴取不良)

 例えば、ある人は誰が好きといった形で、自然にそっちの方へ、自分なりに自分が思う人の中に人生のモデルを持つ。志といっても堅く考えない、何となくモデルを持つ。違った形のもの、例えば「若い根っこの会」の雑誌がありますね。あれなど僕らが読んでも時々シーンとくる部分があるんだけどもそういうところにひかれていく人もあると……。

 大体日本人てのは討論に向かないと思うんだ私は。ディスカッションをして理解を深めるとか、いうことはいうけどね。アングロサクソンだったらそれが持ち前の天性なんですわ。討論の中で理解を深め合意の幅を拡げていくというのは、ひょっとするとアンゴロサクソンだけの持っている特技かも知れません。ディベイトともなればなおさらそうじゃないのかな。

 それと対照的なのがわれわれ日本人で、日本人というのは面と向ってよう云わないんですね。だから恋だって手紙に托して伝えようとする。アメリカ人のようにドゥユーラブミー? イエスアイドウ。なんてそんな殺風景な! 日本人から考えたらそんな取引みたいなこと云えますかいな。日本だったらやっぱりこうもじもじしとってね、そしてこっそりラブレターというのかなあ。切ない思い、面と向って云えない事を一生懸命筆にたくすんでしような。こんなのは日本人だけでなくてですね、フィリピンの山奥に、今、アイヌみたいに衰えつつあるマンギャン族というのがあるんですよ。それなんかの恋は平安時代さながらで、竹に詩を刻んで軒先に下げる。マンギャン語には全く独特の字がありましてね。上から読んでも下から読んでもどっちからでも同じ様に読める。不思議な字があるんですねえ。それを軒先へかけとくんです。……

 脱線しましたけれど、日本人同志でも真に世代間の接点を求めようとすればアメリカ式、イギリス式の議論、討論、討議に全部依存するなんてとんでもないこと。そういう話合以外にもっと手法を開発せんといけないんじゃないですかなあ。

 会合にしてもこういう会合と、昔の幕末流。というのはこういう会合じゃなくて、一対一とかせいぜい三人位。時には酔うて。これは昭和になっても旧制高校時代まではあるんだなあ。下宿へ行ってよくなけなしの酒をちびりちびり飲みながら恋愛論やってね。ゲーテがどうだとかニーチェがどうだとか、キザな事も随分言い合ってですね。夜明けまで語り明かす。そういう式で数は少くても色んなタイプの人間と心を触れ合わすことがあった。

 戦後はアメリカのパターンになってしまっているのかも知れません。せいぜいそのバリエーション位しか今はないのかも知れません。でももっと広く世界を、古今東西をみつめて、その中から心の触れ合いの手法を再開発する必要がありはしないでしょうか。

 つづいて、協力隊ペーパーの第二です。異民族との2年というのですが、これもちょっと先に読んでみますと、

 『協力隊に集まってくる真新しい世代の多くは、まだ、一個の人間としてのロマンしか持ち合わせていないように見える。彼等にとっての協力隊参加は、一人一人の生き甲斐、自分一個の青春の夢でしかまだないように思われる。しかし、動機づけがどうであろうと、彼等が実践型の間であり、行動派であることに間違いはない。ここに、まがいもなく「夢があって行動的な」若人がいる。

 こういう若者たちを、青年海外協力隊という、日本全体からみれば各論の一部でしかない枠組の中だけで見ていていいのか。日本の、しかも21世紀のグランド・デザインという壮大な展望の中で把えて初めて、”こういう若者の存在”の意味を探ることができるのではないか。

 2年間の行動目標は協力の実を挙げることである。しかし、考えれば考えるほど、その実践の中に、底知れぬ可能性がひそんでいるとの感を深くする。個人の幸せ、家庭の幸せ、グループや地域社会の幸せ、といった既成概念や言い古され通念化した価値観の枠組に留まらず、超えてより大いなるもの、国と世界に「開眼」するキッカケがこの実践の中に転がっているのではないか。

 異民族と住み、(この住むというのが大事なんですが)彼らと共に頭と体を使う二年の日々が、日本列島に意識革命を呼ぶ原体験、呼び水になる可能性なきや否や』

 と。まあ協力隊にはこんな感じを私は持っている。協力隊の意味、意義ということについてですがね。今までの派遣数がトータルで5千になったとか1万を突破したとか、そんな事は何の意味もない。こんな事を協力隊が云ってるようじゃ仕様がない。私は協力隊20周年だって祝うのはまだ早いっていっている。これからじゃないか、山登りだと一合目半位のものじゃないかとね。祝うのならせめて五号目でひと休みしながら、といっておる訳ですけどもね。

 それはそれとして、協力隊を知って頂くためにちょっとおもしろそうなことを二、三実例でお話してみます。

 ベトナムの隣にラオスという国がある。もう近頃あんまり新聞にでてこないんだけども、インドシナ半島にある国です。松本清張が世界の最後の楽園なんてかつて云ったことのある国です。又、協力隊の隊員が一番現地の娘さんと結婚するのもラオスなんです。で。ラオスというのは、もっと昔は広い国だったんだけど、タイに攻め込まれてドンドン、ドンドン取られて、メコンという川が元はといえばラオスの真中を流れておったのが今やラオスの国境になっている。タイとのね。それが最近はベトナムの支配下になっているんです。ベトナム軍が制圧しています。ちょうどソ連が東ドイツを武力で抑えていると同じようにベトナムの武力に抑えられているのが今のラオスです。

 私はラオス哀れという思いが心を去らない。哀れっていう言葉は平家物語の「哀れ」なんです。本当に。ラオスはどうして、あんな純粋で人を疑う事を知らない人達がどうして、あんな不幸な目にあわなきゃいけないんだろうと思いましてね。

 そのラオスがまだ共産政権になる前、ベトナム軍にやられる前、今から十五年程前ですけど、王様が居られまして北の方にその都がありました。ビエンチャンが首府だけど王都って王様の都は別にルアンプラバンというところにあったのです。当時もう左翼系、共産系の反乱軍が北の方にたくさんいました。パテトラオ、ラオス愛国戦線といいまして、しょっちゅう大砲の音とか銃声がきこえてくる訳です。

 その中日本政府は北の方に配属されている隊員に万一のことがあったら大変だというので、南の方まで下って来るようにいろいろ説得するんですが、隊員がガンとして下って来ないんですよ。で、私は外務省から何とか説得してくれといわれてラオスに行きました。そしてルアンプラバンに乗り込んだはいいけれど、ミイラ取りがミイラになってしまってね、それからは隊員の側に立って政府の考え方を変えてくれという事を要望するようになったんです。ルアンプラバンにのり込んでの会話はこういう事なんです。

 まず、隊員進がですね、「ぜんたい大使館なんて解っちやいないですよ」というんです。「危険だっていうけど、その危険っていうのは新聞に出ている様に北部の左翼系ゲリラが出没して弾丸がとぶということなんですね。弾丸が飛ぶっていうと日本人は必ず、こう、向い合って撃つような日本人の戦争を思う。そういう風に頭ができているんです。しかしラオスの戦争なんて上向いててポンポンと弾丸を撃っている。戦争もここでは全然違うんですよ」「では、私らが危険だと考える時はどういう時かというと、ルアンプラバンのお寺から1日に出る棺が異常に多くなったときなんです。日にどの位出よるか見ているんです。日に一つとか出ない日もあるとか、そういう状態なら平常なんです。日本の交通事故の危険と同じなんです。日に五つも六つもそのお寺から棺が出る様になるとこれは様子がおかしいぞという事になる。今はですね、棺が一つ出るか出んかなんで、そりゃ毎晩大砲の音はきこえますよ。しかし、それを危険と判断すべきかどうかは。現地に居る私らの方がずっとよく解ってますよ。」という訳です。その頃でもやっぱり今と同じ様に、その隊員たちの世代は”新人類”みたいな世代だといわれとった。命は地球より重い、とかいわれて育ってきた若者達なんです。その若者たちが命を的に戦った経験のあるわしらに向ってですね、まるで逆に説教する訳だ。

 云われてみりゃなるほど、戦争というものも言葉から言葉へ訳しやいいというもんじゃなくて、土地によって全然意味が違う。それで参ったのが一つであります。

 それともう一つ参ったことがある。隊員はここで、野菜なら野菜。五人位おりましたが、それぞれ野菜とか稲作とか特技で派遣されていた訳です。それで隊員たちはここまで一年余り一生懸命やってきた。ようよう土地の人と信頼関係が出来て、これからという時じゃないですかという。「今これで引き上げたら何の為に来たのやら解りません。全く来なかったのよりまだ悪い。」ともね。「一年余りの間、伴さんが訓練所で云われていた様に『ちゃんと信頼関係を築け。それがまず第一だ。』というので、一生懸命やって信頼関係がやっと出来たところじゃないですか。その時にあなた帰れというんですか。講義でいいよった事と違うじゃないですか。」と………。こうやられては私の方の完敗ですわ。

 隊員は更に続ける。

 「万が一、命が危なくなった時、ビエンチャンまでの交通路が敵に包囲されて遮断されてしまっても、今まで出来てきた信頼関係で、私らをちゃんとかばって共産系反乱軍から守ってくれる友達は出来てます。」

 これにはもうこちらは脱帽最敬礼だなあ。それを強いて帰れなんていえるかね、これ。

 そこまでやっとったんか………。僕はもう何も云わんとね。もう一年程温かい風呂にも入った事ないだろうから、オレの泊っているこのホテルで皆温いシャワーを一浴びして帰れといって別れたことでした。まあそのまま帰らなくて地酒で飲み明したけどねえ。

 ここら辺からいろんな事を感じ取れますよね。今の生の問題だけど、ラオスへ何しに来たっていう志とでもいうべきものが彼らにあって、ある意味で命ということと対比しながら、そうむつかしい理屈は云わないけどさ、語られていた面がある訳ですよ。国際理解だ何だいうけども、普通のパーティなんかで歌うたった位でこんなこと出来るもんですか。

 自分の命が危ないという時にかくまってくれる………。そりゃもう日本人同志でも中々ないことだ。本当にそんな理解の深さというところまでいく訳ね。私は協力隊時代、本当に隊員に教えられることの方が多かったなあ。いい年をしてだ、若い人に教えられることの連続でしたけども、ルアンプラバン物語とはそんな事です。そんな様な事はたくさんあるんだなあ。しかしまあ、あと一つ二つだけにしときましよう。

 隊員というのは2年間、開発途上国の山奥で働いて帰ってくる訳だ。山奥とは限らん首都におる隊員も居ますけど、帰って来てから局長面接があって私が会う訳です。一人一人ね。どうやった? って2年間。中には3年の人もあり4年に延長した人もいるんだけども。2年間のことを1時間位で話するわけですが、そういう中で「さっきデパートへ行って私恐ろしくなりました」というのがいたんだなあ、女性隊員で。「同じ地球でこんな豊かさっていうのが許されるんだろうか」という訳。帰ったばかりの感じで……。

 この「恐ろしい」という言葉、本当に、恐ろしくなったというこの言葉ぐらい恐ろしい言葉はないんで、それこそ地球サイズの何とかですわ。地球サイズといううつろな言葉があるけれども。地球サイズで、全人類の暮しの中での今の日本の暮しを位置づけている訳ですよ。日本列島というのは皆こんな、上の方の暮しをしているんで、もっともっと貧しい人が世界中にいっぱいいるわけでしょう。それなのに日本の国内にいる人はね、苦しいとか食えねえとかいっている訳だ。こんな暮しをしとってね。そんな中へ舞い戻って来て、いいのこれで? 日本人ばかりこんなに食べられていていいの?という理屈抜きの直感に襲われる。この感度のあるなしこそが中曽根さんが云った”世界に貢献する”というそんな日本の国になれるかなれんかの境みたいなもんだ。

 こんな気持ち、さっきの女子隊員のこんな気持ちが国民共通のものになればですね、これはえらいことになる。日本というのは史上、本当に初めての、世界人類の為に生きる、世界がりっぱになることを生きがいとする1億2千万もの人間集団というものになる。こういう、集団共有のロマン、そんなものがあって悪いですか。私はこんな素晴しいことはない。日本の富はこれでこそ本当に生かされることになると思うんですが………。

 時間がないんでこれ位にしときましょうと言いたいところですが、あともう一つ。

 首狩族というのがありましてね、フィリピンのルソン島の真中辺に。30年前、その当時30年前だから今から云えば40年前頃まで、首狩族であった部落があるんです。で、そこに隊員が一人行っていたんです。はりついていた。そこの集会所みたいな、部落の集会所みたいな所の建築を指導していたんですが、その隊員が「局長行きますか」というんだね。それには日く因縁がありましてねえ。名前は分かっているんだけどある有名な作家を、その隊員がつれて行きかけたんだが、やっぱり不気味になったらしい、そこで泊るのが。それでね、着いてちょっとしてから腹が痛くなったんだって。それでひき返したんだって。本当に痛くなって引き返したのかも知れないけど、どうもやっぱりあの、その後そこを訪れた私の心境から云えば、万が一でも首を狩られたらアホらしいという事じゃなかったかと想像するんですけど……。それだけにですね、私が「行かなくていいよ」といえば、ああ、局長も偉そうな事を訓練所で云っていたけど、やっぱり命がこわいんだなあと思われると思うから、私は意地でも、「じゃ連れてってくれ」という訳だ。

 それでね、ある所、山奥の方へ行ったところでジープを乗りすて、今度は棹でこんな調子で舟で渡って、それから1キロ位河原みたいなところを歩いて向かう………。その中だんだん心細くなって来るんだなあ。隊員が案内してくれる。それから向こうの村長みたいのがちゃんと私の”ご案内”をしてくれる。私は国賓みたいにして行くんだけどねえ……。何か心細くなって、しまったなあと思ったりもする訳。そんな、こんな。いろんな煩悩が心の中をよぎる。

 そしたら、まあ隊員が一生懸命やってくれたせいだろうが、その晩はもう部落をあげてドンチャンさわぎの大まつりをやってくれましてね、各家庭から皆、家庭、家庭の味を持った、画一化された味じゃない食物を持ち寄ってくれる。それから地酒ももちろんね。それで酒が入ってくると、こっちも元気になってくる。そのうちにね、戦争中の歌を歌い出したりする者がいるんだなあ「見よ東海の空明けて……」とかカタコトのね、日本語で。しまいには輸になって踊りだしたんだけどねえ。

 それまではいいんだけどさて。いよいよその宴のあとだよ、宴のあと。村長の弟のうちへ泊まるというんだ……。皆さん暗い道をお墓の近くへ行くと、普段幽霊なんかあるものかと思っていてもお墓の近くまで来ると何か薄気味悪くなるもんでしょ。それと同じように、また薄気味悪くなってさ。寝る時ですよ、万が一ひょっとして、という思いがね、妄想が出て来て………。

 それで朝、目が覚めた時、あっ生きとった、とやっぱり思うんだね。情ないなあ人間なんて、偉そうな事云っとってもギリギリのところまで行くと何とだらしないんだろう。朝起きた時。ホッとした。ああ生きとったと思う。

 それから窓を開けてみたら2人中学生ぐらいの女の子がね、家の前を掃いているんだな。まあ道になっている、その道の前を掃いてるんだねえ、こうやってほうきで。私は子供の頃を思い出していた。子供の時は日本も、ボランティアだなんて言葉もない時だが、道でも家の前だけは掃いて湿を打ったもんだなあと。そして又、この間まで首狩族をやっとったということでオレ大丈夫かな、なんて思っとったのが本当にもう恥かしくなって来た。これは素晴しい事じゃないか。中学生の子供がこう掃いとる訳ですよ。誰にいわれるともなくだろうなあ。ボランティアという言葉もなければ、奉仕ということでもなかろう、大隆然の摂理のままみたいにその、掃いとる訳だよ。アジアの山奥でね。こう思って、日本に失われたものというのを本当に大映しにみるような気がしたなあ。

 それだけでないんだ。今度は顔を洗おうとしたらですね、100メートル位離れた所に一つだけ水道があるんだ。共有だな水道というのは、各家庭にないんで、そこへ行ったらゆうべのごちそうの釜を小学生くらいの女の子が洗ってるのね。一生懸命こうやって、縄みたいなもんでね。それで私が行ったらですよ、手を止めてニッコリ笑ってこうやるんだよ。何という躾だろう。ウーンとうならされる思い。首狩族のイメージなんてすっかりふっ飛んでさあ。日本が失った大事なものを今日これで二つ見るじゃないか、という思いがしたものです。

 それからまだあるんだ、その部落の長というのがねえ、ビューティフル イングリッシュで喋べるんだねえ。日本のここら辺の社長なんかと違うんだ。中々話も教養があるんだよね。いやいや参ったなあ………。もう日本人はイカンー そんな自分達、その自分たちが失ったものをもう一回教えて頂く、くらいの気持ちでね。アジアを見ろ、ということですわね。どんなに相手が貧しくてもさ、月に3千円位の生活をしよってもさ、茅葺きの家に住んどってもさ、その心の豊かさ……。いうたらこっちが学ぶことの方がずっと多い。もう本当に脱帽最敬礼だな。

 協力隊で行った若者たちが帰って来るたびに、さっき云ったみたいに恐しいなんていう人はそんなに多くないけれど、やっぱり何を向こうにしたかよりも、こちらが教えてもらったことの方が多いですよという人が、ほとんど過半数なんです。そんな気持ちに日本全体がなればねえ、日本は来世紀、21世紀いっぱい世界から好かれ、大事にされ、そして又場合によっては尊敬さえされる国民になるんでしょうなあ。

 協力隊物語はそのくらいにしまして、いよいよ時間も迫ってまいりましたので三の方をちょっと読んでみます。「人間革命への道というところを。ついでながらこの文章は協力隊の今後のあり方について、私が協力隊を育てる会の理事の一人として、爆弾宣言的に投げかけた、ついこの間、先月書き上げた文章なんです。協力隊よ小成に安んずるなかれ。「小成に安んずる」という言葉があるでしょう。もっと大成を目ざせという、こういう三枚の文章なんです。三の所を読んでみます。

 「今の日本の中には端的な例として、ネパールやタンザニアに住む人々を心の視界内に置いて自分たちの幸せや不幸せを測り、行動を考えるような感覚は芽生えていない。この大切な感覚が欠落していてどうして、職者がいう「世界に貢献する国」、「インターナショナルーマインドな国民」になることができるだろうか。国家体質の中に、国民意識の中に、行動原理としていま例に挙げたような感覚を、本物の感覚として感性の中に芽生えさせ、育て、成熟させるには、長い静かな人間革命のプロセスが必要だ。このプロセスが進行していて初めて二一世紀は、この島嶼国家にとって。その民にとって、瑞々しい夢多き世紀になり得る。この人間革命が成ってこそ‘世界に貢献する”ことを国是とする、もしかしたら人類史上初の国がアジアの東に出現するであろう。

 隊員やOBの深層心理の底にうごめくまがいもない、大いなるものへの芽を見つめていると、協力隊の在り方、協力隊の育て方は、21世紀における日本の進路を展望した雄大な眺めの中で練り直され、新しい国是の下で意義づけられ位置づけられていいように思われる。このテーマが取り上げられる時期にもう来ているように思われる。」という事です。

 これは協力隊の文章ですからこういうようになったんですいが、さて一つ、協力隊のような活動がもっと広がらんかという課題があります。技術がないと行けませんかという質問がよくあって、それが非常に狭い門になっているというのも一つの問題で、いま現在は技術がなくとも適当な方法で技術を修得して行ける様なシステムを広げるという課題が、制度問題としてはあります。けれども、制度問題よりももっと大事なのが意識の問題なんです。私は制度と意識をいつも二つ並べるんですけど、制度の方は割合い簡単にいくけど意識の方は簡単にいかん。制度の改革は出来るけど意識革命は出来ないということが多いんです。

 意識の方というのはどういうことかということですね。ま、協力隊のことはテレビなどによく出ます。で、見た世の親御さん達が、或いは会社の四十、五十の年配の人が、どんな思いで見るかというと今のところはまだ「感心な奴も居るんだなあ!」と。これで終わりじゃないでしょうかね。

 だからやっぱり、協力隊というのは特殊なんですね。「変ったのもいるねえ」ということですよ、「感心な奴もいるねえ」というのは。本当を云えば、今すぐとても出来っこないけど、20世紀から21世紀の交差点位までにはですよ。やっぱり世の親御さんたちが「うちの息子も行かしてみるかなあ」と考える。会社の上役も「あいつなんか適性があると思うけどなあ」などと、休職にして協力隊に行かすことを考えながらみるような世の中にならんものかと思います。

 テレビを観ていて我が事、我が息子のこと、我が会社の事とつながる様になればこれが普遍的になってるってことですよ。特殊から普通へというのが協力隊の大きな課題なんです。協力隊が日本人の意識の中で特殊なものから当り前のものになる時初めて、日本は、世界に貢献するということを、本気で考える、行動原理として考える、そんな国民に成熟しているんだと思います。

 もっともいくらそうなってみても日本の若者が全部協力隊で行く訳にはいきません。やっぱり行くのは多くて100人に1人位になりましよう。そうするとあとの九十九人はいったい全体「世界に貢献すると云うけどもどんな事をするんだ」

 「税金をうんと出して円借款をふやすのか」「他になんで貢献するんだ?」等々……、どれもこれからの課題です。21世紀にどんなメニューがあるか、国として貢献する方法、グループとして貢献する方法、個人として貢献する方法(協力隊は国じゃなくて個人で貢献するんです。国は支援するだけなんですよ)色々考えられます。個人、グループ、国がどうやって貢献するかということで色々案が出てくると思うのですが、そこで私の一つのヒントはですね、なにも協力隊の様に国の支援を受けなくていいんで、個人個人が自分で溜めた金でアフリカの飢餓地帯へ行ったって構わないんです。

 又、宗教団体は宗教団体で、協力隊の様な支援の仕組みをつくっても良い。何も国の事業で外務省主管の協力隊だけが協力隊じゃない。

 もっともっと多くの、いろんな種類の、多種多様な、多彩な若者の青春というのが世界に展開していい訳です。21世紀に向けて「若者の青春を世界に向って多彩に」というのが一つの提言なんです。協力隊も沢山の中の一つになることですね。アジアのため、世界のために健在であらねばならぬ、という意気込みでやれば、私たち四国、中国、九州での村づくりも、アジア、そして世界にいいモデルを提供することになるかも知れませんよね。

 どうも長い間ご清聴有難うございました。