「A記者の弁」
共同通信記者 伴武澄
「大体、ルソーが悪い」-大の親友のA記者の弁である。冒頭からよくわからない話だが、一夫一婦制への批判らしい。幾人もの愛人に子供をはらませながら、一夫一婦制を提唱し、民主主義思想の始祖として鎮座しているのがケシカランというのだ。もっともな説と思っている。しかし、ルソーの思想を説明せよと言われれば、ごかんべん願わねばならぬ。二人とも門外漢なのだから。
「サルの集団を見ていると、真ん中にボスザルが居て、メスザルがその回りで媚(こび)を売っている。残りの子分ザルたちは遠目にその光景を見守っている。快楽は常にポスザルだけのもので、子分ザルたちはめったにその分け前にありつくことはできない。そのかわり、ボスザルは集団に対する責任を持っている。動物界の秩序はこうした種の保存の原則が貫かれている。人間界はといえば、こちらもつい百年前までは、動物的な弱肉強食のルールが支配的だった。
こんな人間の動物的(否、人間的なのかもしれない)性癖に異を唱えたのがルソーだったのではないか。われわれのいう自由や平等などという思想は頭の中から生まれたのではなく、男がなんとか一人の女を独占できるようになったところから発達してきた。A記者の自説は続く。一夫一婦制は実に人間的だ。そして。自由も平等も。
後世の人びとはルソーを鵜呑みにして、みんな100%人間だと思っている。その前に動物だということを忘れている。人はちっとも平等に生まれてやしない。リンカーンだって福沢諭吉だって思ってやしない。だのに平等だと思わせられている。だから、平等とか自由に少しでも近づいたら。“進歩した”と考える頭悩を持ち合わせていない。客観的にみれば進歩しているのに不満ばかりが蓄積される。
三十点を取る才能の持ち主がたまたま六十点を取ったとしよう。本人はおろか。たぶん他の人もこの努力を評価しようとはしないだろう。常に百点を取る人間も存在するからだ。ここらあたりが現代人の不幸の原点なのだと思う。
ルソーも不満の多い人間だったに違いない。自己の人間性について悩んだあげく、自己変革のため、あらゆる超人的努力をしている。そうして出来上がったのが彼の思想なのだ。それでもルソーは自己に潜む。“動物性”を隠すことはしなかった。
ここらあたりが、われわれとの違いである。より動物的であるにもかかわらず、他人の考えた思想をあたかも既得権のように口にして自己を省みない。確かにルソーいらいの近代民主主義思想は人間界に進歩をもたらした。しかし。人びとはこの進歩の上に胡座(あぐら)をかくようになった。そろそろ。われわれも再び動物界からスタートしてもよい時期に来ているような気がする。A記者のいうようにルソーはわれわれの思想を退化させているのかもしれない。