アフガニスタンにおける人権状況と課題〔徳島県解放同盟記念講演〕
NPO法人アジア戦災孤児救済センター代表 生井隆明
財団法人国際平和協会会長 伴武澄
司会 それでは、定刻がまいりましたので、記念講演に入らせていただきたいと思います。記念講演は「アフガニスタンにおける人権状況と課題」と題しまして、NPO法人アジア戦災孤児救済センターの代表をされておられます生井隆明様、そして財団法人国際平和協会の会長をされています伴武澄様のお2人にしていただきます。
まず生井隆明様は、茨城県でお生まれになり、独学でストレス学を学ばれ、そして後に生井ストレス科学研究所を設立されました。そして、2002年から2008年までカブールでアフガニスタンの戦災孤児救済事業をされ、そして本職は心理系、脳神経系へのストレスの影響の研究をされておられます。アフガニスタンでの事業の以前には、阪神大震災、台湾大震災でのストレス関連施症などを行われ、著書は「うつで人は豊かになる」という本も出されておられます。
そして一方、伴武澄様は、高知出身でありまして、共同通信社ニュースセンター整理部長を現在、されておられます。2004年から財団法人国際平和協会会長をされておられまして、著書に「日本がアジアで敗れる日」という本も出版されておられます。
実は私、昨年行われました阿波銀ホールでの賀川豊彦記念館主催によります講演会を聞かせていただきました。その時、きょうもそうでありますけれども、パワーポイントを使って、アフガニスタンの子どもたちの状況が如実に写し出され、その姿に大変、私自身も衝撃を受けました。その講演の日が、ちょうど9月11日。思い起こすこと10年前のちょうどアメリカの、あのニューヨークでのツインタワーが爆破をされるという日でありました。今なお戦争で苦しむ子どもたちが世界にいる。
そういったことに思いをはせて、私財を投げ打ちながら活動されてるお2人のお話をこれからお聞きいただきたいと思います。4時半までの予定ですが、どうか皆様、最後までよろしくお願いいたします。
それでは伴様、それから生井様、お願いをいたします。
伴武澄 皆さん、こんにちは。たくさんの皆さんの前で話すのは初めてなものですから、ちょっと緊張しております。私が伴でございまして、隣りにいるのが生井隆明、なまいりゅうめい、たかあきと読まないでいただきたいと思います。(スライド映写)
先ほど、歯朶山さんのほうからお話がありましたように、去年9月11日に徳島で小さな会を開いた時に出会いがありました。で、きょうは2月の16日ですね。アフガンの話を、この部落解放同盟の地方研究会でしゃべってくれ、という話があった時には、ちょっとびっくりしたんですが、考えてみれば人権の問題というのは、国内だけじゃなくて海外にもたくさんある。さらに言えば、海外のほうが多いかもしれない。
というようなことを考えて、失礼ながら一地方である徳島からそういう申し出があったというのは、非常にうれしいことだと思いました。
私自身が高知県出身で、GDPも鳥取、あと沖縄ですか、ここらへんと最下位を争っているような県であります。100年以上前は坂本龍馬とか、明治維新の多くの志士たちを生んだんですが、今は元気がない。
元気がないのはどうしてかと言うと、多分、自分の自治体の中、県の中だけにとどまっている、日本全体のこと、世界全体のことを考えなくなっているからではないか、と思います。
そういう意味では、きょう徳島でこういう会を開いて、私どもを招いていただいたことを本当に感謝したいと思いますし、徳島の皆さんに敬意を表したいと思います。本当にありがとうございました。
私は59歳になります。ちょっと私ごとを言わせていただくと、14歳の時に父に伴われまして南アフリカのプレトリアというところに行きました。当時は人種差別が最も厳しい時代でした。今、マンデラさんの手によって黒人政権が誕生しましたが、当時、1965年ですか、東京オリンピックが終わったその翌年に行ったんですが、まず驚いたことは、こんな人種差別がまだ地球の中にあった、ということでした。
それから、非常に白人政権が黒人に無理解だった上に、非常に強力な政権だったということで、黒人の政権が誕生するなんてことは夢にも思いませんでした。ところが、やはり世界各国ですね、人権問題の高まりとともに、ようやくあの国も白人が政権を投げ打つ、というようなことになりまして、新しい黒人の国家が誕生したわけですね。
皆さん、去年、ワールドカップでご覧になったと思います。マンデラさんの偉いのは「インビクタス」という映画をご覧になった方もいるかと思います。去年、1年ぐらい前にやっていました。そこで、南アフリカで白人たちが一番誇りにしていたのは、スプリングバックスというラグビーのチームですね。これは、ニュージーランドのオールブラックスというのが当時、世界最強と言われた2大チームだったんですが、黒人政権になった時に、まず黒人たちが「そのスプリングバックスの名前を変えてやる」と言ったんですね。
ところが、この新しい大統領は「それだけはするな」「白人の一番大切にしていたものを壊しては、これからの国づくりができなくなる」。つまり、自分たちは白人たちと共生して新しい国をつくっていかなきゃあいけないんだと言いました。こういうメッセージを国民に発したんですね。おかげで、その年ケープタウンであったラグビーのワールドカップでは、スプリングバックスの名前で南アが優勝したんですね。そういう感動的な物語もありました。多分こういう物語は、代々、100年後も語り継がれるんだろうと思います。
で、きょうお話する生井先生についても、今、歯朶山さんから相当ご紹介がありましたので、本題に入ってよろしいでしょうか。
生井隆明 結構です。
伴武澄 はい。皆さん、覚えてらっしゃると思いますが、9年半前になります9月11日に、大変な衝撃的な事件がニューヨーク、ワシントンで起こりました。我々は同時多発テロと新聞では呼ぶようになっています。その時に、生井さんの、何と言ったらいいんでしょう、義侠心というか、が急激にもたげてきたわけですね。
その前に阪神・淡路、それから台湾の中部地震で心の病についてケアのお手伝いをしていたんですが、突然アフガンに行こうと決断されるわけですね。そこらへんのいきさつについて、ちょっとお話願いますでしょうか。
生井隆明 皆さん、改めましてこんにちは。ご招待いただいて本当に感謝いたします。きょう皆さんにお伝えすることは、少し衝撃的なことであると同時に、差別に対してこういうふうに闘って、このように社会的地位をゲットしたんだという、いわゆるアフガニスタンでの被抑圧民族、ハザラ族のストーリーをきょうはお伝えしたいと思います。
大変な戦いをしたんです。事実上の銃を持った戦いです。それまではこのハザラ族というのは、ジンギスカンが中央アジア、そしてヨーロッパにまで攻め込んだ時に、駐留軍として置いていった先人部隊。これをペルシャ語でハザラと言います。
その子孫たちがどれだけ現在のアフガニスタンで差別をされたか、されてきたかと。それに対してどのように立ち向かい、どのように社会的地位を確保していったか。きょう、執行委員長の組坂繁之さんのお話を聞いて、闘うという言葉が何度も出てきました。それをアフガニスタンでは銃を持って戦って、事実上、自分たちの地位を占めることに成功した、という話をするのですが、その途中、そのプロセスでいかにたくさんの人が犠牲になったか、いかに多くの情熱を燃やしたか、そして、その中で子どもたちがどのように苦しんだか。そして、生き生きとしたか。そういうことをぜひ皆さんにお伝えしたいと。
これ、ほかではなかなか言えない話題なんですけれども、共有できる皆さんだと信頼した上で、いかに差別をされていたか、そして現在もそれは続いています。しかし、彼らはしっかりと社会の中で、国会の中にも議席を取ることができましたし、副大統領まで出すことができたんですね。
というプロセスを皆さんとともに共有できたらいいな、というふうに思います。ほかではなかなかお話できない話題なんですが、ここでは本当に思い切ってお話ができるのかな、というふうにして、ちょっとエキサイティングにしゃべってみたいと思います。ちょっと僕は、感情を移入するところがありまして、冷静でいないといけない、という思いが一方であると同時に、いやあ情熱がないとやれない、というところもあるんですけれども。現在、66歳です。
伴武澄 その9月11日に戻りたいんですが、ニューヨークの貿易センタービルが燃えているという時に、どういう気持ちになったんでしょう。
生井隆明 それまで実は、中近東との交流がほんのわずかですけどあったんですね。それから、ソビエト軍がアフガニスタンに入って戦っている時に、それに抵抗するゲリラ軍として戦っている人たちの中に、多少コンタクトがありました。ですから、ひょっとしたらアフガニスタンやれるかな、という一瞬不安を覚えたのを記憶してます。
伴武澄 そうですね。その理由はニューヨークとワシントンを撃破した首謀者がオサマ・ビンラディンである、という。
生井隆明 はい、そうですね。
伴武澄 それで、その人の潜伏先がアフガンであると。
生井隆明 はい。
伴武澄 しかも、その子分たちを育てた、訓練したのがアフガンであると。
生井隆明 はい。
伴武澄 というような断定的な報道がされたんですよね。
生井隆明 そうです。で、そのオサマ・ビンラディンは、実はソビエトに対抗するためのゲリラとして、アメリカのCIAが莫大な支援をして育て上げた武装グループだった、という事実もあります。
伴武澄 そうでしたね。1970年代の後半ですか。
生井隆明 そうですね。モスクワ・オリンピックの時ですね。
伴武澄 モスクワ・オリンピックの時に、半分以上の方は記憶にあると思いますが、日本選手が出場できなかったんですね。
生井隆明 そうです。
伴武澄 その時の最大の原因は、ソ連によるアフガン侵攻という問題がありました。それに対抗するためにアメリカがゲリラを育成したんですね。
生井隆明 はい、そうですね。
伴武澄 その親分がオサマ・ビンラディンということでよろしいんですかね。
生井隆明 はい。そのアメリカが、アフガニスタンへ爆撃するだろうという噂が立った時に、そういうお話をいろんなところから聞きました。やるぞ、やるぞと。そして、ついに10月7日に総攻撃、空爆をするわけです。その時に、一番先に私の脳裏に響いたのは、阪神大震災の時の焼け野原です。その中で、子どもたちが右往左往して夜も眠れない。あの衝撃で。怖くて、トラックが通っただけで、その振動でフラッシュ・バックして、大変な心の傷を負っているわけですから、眠れない、夜中に暴れまくる。その子どもたちを主に避難所でケアしたわけです。
そういうことがあったものですから。じゃあ爆撃の下にいる子どもたちはどうなるんだ、ということが一番先に頭に浮かんだわけです。それが1つの動機になりましたね。
伴武澄 なるほどね。当時、私も取材していて、直接取材したんではないですけど、アメリカ人がアフガンを石器時代に戻してやると。そうしたらアフガニスタン人は、もう既にアフガンはソ連の手によって石器時代になっている、というようなことを言ってましたね。
生井隆明 ええ、その通りです。その時にアフガニスタンの人たちは、全部逃げたんです。これ後から聞いた話も総合して今お話できるんですが、取りあえず最初は逃げたんです。これ、ゲリラ戦法ですね。取りあえず逃げた。逃げまくった。そして、アメリカを迎え入れて、今、皆さんがご存知のとおり大変優勢に戦って、今、アメリカ軍を追い出そうとしているわけです。
で、このプロセスは、実はアフガニスタンという国は、2300年前、アレキサンダー大王がシルクロードを通って中国に行こう、あるいはインドに行こうという時に、アフガニスタンに駐留して攻めまくったんですね。略奪の限りをつくした。
その時から実は外国軍が入ってきて、追い出すということがもう慣れてるんですね。普段は、たくさんの部族がばらばらに住んでいるんですが、ひとたび外国から軍隊が入ってくると、このばらばらな部族が全部協力して立ち向かう。これは見事なものです。
現在は、26民族います。一番大きいのがパシュトン人です。アフガニスタンの国の名前は、パシュトンの国というほどの意味があるそうでして、一番大きな人口がパシュトン人。その次がタジク人、トロキャン、そしてハザラ族、ハザラも結構多いんです。
でも、この大きなハザラ族が差別がどれくらいされているか、ということは後に触れていこうと思いますけれども、そのようにしてアフガニスタンは外国から入ってくる軍隊を共同で追い出す、という伝統があるんです。まさにアメリカはそれに今、引っ掛かってソビエトの次に今、アメリカはそれのトリックにかかって追い出されようとしているんです。
オバマ・アメリカ合衆国軍は、追い出されるということは言いません。名誉がありますから。大統領選もありますから。我々は撤退するのだ、と言ってるんですが、とんでもありません。惨憺たる負け戦をしているわけです。
伴武澄 はい。話が先に進んでしまったんですが、アメリカ軍による空爆が始まってから、子どもたちがどんなに悲惨な目にあってるだろう、ということで、この生井さんのすごいところは翌月でしたか、11月でしたっけ。
生井隆明 そうですね。
伴武澄 もう隣国のパキスタンに入ってるんですね。
生井隆明 そうです。当のアフガニスタンはまだタリバンとアメリカ軍が戦ってますから、直接入ることができませんので、その隣りの国のパキスタンへ入りました。で、難民がどんどん50万人、100万人のレベルでどんどんパキスタンへ避難してきてるわけですから、そこへ行けばどういう状況かリサーチできるので、パキスタンにあるアフガニスタンの難民キャンプ4ヵ所をリサーチに入ったわけです。
その時に、子どもたちの惨状を聞いて、実感して、これはアフガニスタンへ直接入らなければいけないと。それが11月の末から12月のことでしたね。
伴武澄 翌年にはもう入られたというのは。そこも何か不思議な感じがするんですが。パキスタンで大変な出会いがあったというふうに伺っていますが。
生井隆明 そうですね。当時は、アフガニスタンに入ることは、ほとんど不可能だったんですが、無理に入る方法として山脈、山を無理に越えて、まあ突破するという方法と、それから難民が流れてきている、それを逆流してアフガニスタンへ入るという方法。最後は、もう1つは不良外人がやっている飛行機ですね。いるんです、戦場にはそういうのが必ず。不良外人が小さな飛行機でアフガニスタンへ入りたい人を募って、法外な費用をふっかけて、さあ、アフガニスタンへ行くぞ、乗りたいやつは乗れ。そのかわり3,000ドルだぞ、4,000ドルだぞとして募ってるところへ私が座席を1つ確保して、アフガニスタンのカブール・エアポートへ強行着陸するプログラムに僕が乗ったわけです。
伴武澄 その前に、もう1人、このパキスタンでの出会いがあったと。生井さんのプロジェクトですね、左右するような人物にたまたま会ってるんですね。
生井隆明 ちょっと前へ行き過ぎたんですけど、確かこの写真の中にあるんですが、見えますでしょうか。左側は私です。今ちょっと髪は伸ばしておりますけど、当時はずっと坊主でした。その右側の少し憔悴した男性が、現在は国会議員です。アフガニスタンの国会議員ですが、当時はパキスタンに潜伏してたんですね。亡命という形で潜伏してました。
この男性に。亡命している男性はドクター・サディック、医学部、カブール大学、日本で言えば東京大学の医学部のようなところに在籍中に、ソビエトと戦うために立ち上がった。つまりハザラ族の英雄です。ソビエトと戦わなかったら、おれたちハザラ族の面目が立たない、という大号令のもとに、彼は医学部の3年生という学生を打ち捨てて、若きハザラ族約3,000人を率いて、彼はリーダーになるわけです。
で、戦い抜いて、遂に彼は指名手配をされてやむを得ず亡命するわけですが、その男とこのパキスタンで会うことができました。
それで、彼のアドバイスによってアフガニスタンへ入ったらこうしろ、ああしろ、こうしたらいい、ああしたらいいという、非常に具体的なアドバイスを受けたわけです。
伴武澄 こういう人と出会うのも奇跡だったんですが、その奇跡的に3,000ドルとか4,000ドルを払って危ない飛行機でカブールに突入、ほとんど突入という状態ですね。
生井隆明 そうですね。下の管制塔と飛行機が非常に荒くれた英語でやり取りしているのを、僕はパイロットのすぐ後ろに乗っていましたから聞こえるんですけれども、そのまま強行着陸するんであれば撃ち落とすぞ、というようなこと。撃ち落とせるんやったら撃ち落としてみろと。おどし合いながらどんどん下がっていくんですけれども、非常にひやひやすると同時に、まあなるようになれ、というような気持ちで降りていったのを今でも鮮明に覚えております。
伴武澄 そうすると、そこのカブール空港にドクター・サディックの指示がもう回っていたとか。
生井隆明 そうですね。よく覚えてますね。1回しかお話してないんですが、さすが新聞記者というのは怖いですね。
このドクター・サディックがパキスタンからアフガニスタンに指令を出して、いろんなルートで指令を出して、日本からこういう男が行くから、NGOのこういう男が行くから、でき得る限りのサポートをしろ、という指令を出しておいてくれたんですね。ですから、エアポートに着いた途端にその部下が、きのうまでゲリラで戦っていた人たちがサポートに来てくれまして、迎えをしてくれました。これがつわものどもです。
見てください。これ日本人に似てますよね。これモンゴルの末裔です。ハザラ族の英雄たちですが、これ手ぶらですが、実は隣りの部屋に銃を全部立てかけてあります。そして、何かあるとすぐ応戦できるような態勢になってるんですが、彼らは若きハザラ族の若き戦士です。彼らが私を迎えに来てくれて、また隠れ家へ、まあ連れて行かれると言いますかね、今からどういうプランがあるか知らんけれども、とにかく応援しろと言われてるから、ぜひ我々のアジトへ来てくれということで、彼らと一緒にたどり着いたのがこのアジトだったわけです。
で、彼らの主演のもとに、初めて戦災孤児のPTSD、ポスト・トラウマティック・ストレス・リソーダ。つまりショックがもとでできてくる精神的、身体的ないろいろな疾患を、障害を治すための専門のクリニックをこのカブールの中へつくりあげるわけです。
しかし、これは大変な大盛況になってしまいまして、当時はまだ内戦が終わったばかりですから、戦災孤児たちが、いわば東京へ行けば絶対に食えるだろう、というような感じで、カブールへ行けばとにかく食えるだろうと。お父さん、お母さんいないけれども、カブールさえ行けば食えると。
で、このAWOAと書いてありますのは、この子どもたちがAWOAの矢印に従って行けば食える。食べ物と寝るところと薬がもらえる、という噂をこのAWOAのストレス・クリニックを中心にお金で雇って、日雇いのようにして、いろんな人に口コミをさせて、そして街の角、角にこういうふうにペンキで塗りたくったわけですね。というエピソードです。
伴武澄 あの子どもたちというのは、遠いところからって、どれくらいの距離を歩いたりするんですか。驚くべき距離を歩くんですか。
生井隆明 そうですね。大阪-東京ぐらいの距離をちょっと思い出していただければいいと思うんですが。例えば、カブールというところが一番東の真ん中ぐらいにあるんですけれども、東にジャララバード、北にマジャーリシャリフ、西にヘラート、下にカンダハールというふうに大都市があるんですが、その真ん中、この周りの都市が全部爆撃されましたので、爆撃されなかったのはカブールだけだったんですね。
ですから、そこへみんな向かって逃げて来るわけです。あるいは国外難民としてイランへ逃げたり、上のウズベキスタンへ逃げたり、そして東のパキスタンへ逃げたりするんですが、逃げられない人たちが国内で右往左往するわけです。そういうわけで200キロ、300キロ、500キロを1週間かけて来る。10日かけて来る。こういう大変なつらい思いをしてカブールに向かって逃げて来るわけです。
伴武澄 最終的にここへ皆さん来るんですけれども、子どもたちがここではどういう活動をされてたんでしょうか。まず最初は食べることですね。ここへ来れば食べられると。
生井隆明 まず、子どもたちの3万食を用意しまして、とにかくこの周りのパンを焼く職人、向こうの主食はナンと言いまして、ふかふかのパンなんですね。自然発酵させたものをインドのナンのようにぺたっとつけて焼いたパン。それとチャイ。紅茶のようなものを飲んで、それで終わりなんです。
それでもありつけば“御の字”ですから、それを目指して来るんですが、とにかく3万食つくってもらいまして、ばーんと積み上げまして、とにかく食べさせようということですね。ただ、その中に精神疾患、心理疾患を持った子どもたちがいて、暴れたり、うずくまったり、それから発作を起こしたり、周りの人たちではとても手のつけられないような子どももいるわけですから、それはまた別室に保護してケアをしていくという、そういうスタートを切ったわけです。
伴武澄 どのくらいの子どもたち、何人ぐらい来たんですか。
生井隆明 そうですね。1日平均300人ぐらい押し寄せましたね。それを30人のスタッフで。正式スタッフは11人、あとは臨時のスタッフなんですが、30人のスタッフで平均300人集まってくる子どもたちをそこで受け入れて、そこからその近所、カブールの中の各モスクの長老たちに連絡をして、預かってくれるように頼むわけです。
モスクというのは、日本で言えば町内会のような役割をしてまして、1つの町内会に1つ、礼拝する場所、モスクがあるんです。
そこの長老というのは、大変尊敬されてまして、町内会自治長、区長、市長、それを全部兼ねたような役をしているわけですから、そこのモスクの長老に連絡を取りあって、子どもたちを預かってくれるように手配していく、という仕事も私たちAWOAの仕事であったわけですね。
伴武澄 それから、あすこで子どもが困っている、とかいって往診に行くこともされていたそうですね。
生井隆明 そうです。クリニックへ来れない子どもがいます。それから、もっと悲惨なのは座敷牢に入れられてしまっている子どもがいます。暴れるものですから、急ごしらえの座敷牢をつくって、その中へ閉じ込めて、まあ善意の閉じ込めなんですけれどもね。でも、ちょっと見ると非常に残酷なんですが、暴れるから仕方ない、ということで、親類や周りの人たちは座敷牢をつくって閉じ込める。そういうところへ私たちは在宅セラピー、往診ですね、それを繰り返すわけです。
伴武澄 その途中での風景なんですが、これ黒ではないんですが、この旗は。これはどういう意味があったんでしょうか。
生井隆明 アフガニスタンでは、コーランに基づいて外国の軍隊と戦うことを非常に名誉とされておりまして、それをイスラム聖戦し、ムジャヒディンと呼んでるんですね。
それは、銃を持って戦って戦死した人も、戦わないで犠牲になった人も等しくムジャヒディンとして外国軍と戦ったということで、アフガニスタンの聖なる色、濃いグリーンの旗を立ててもらえる、と言いますか立てるんです、このお墓に。これは全部ムジャヒディンの、犠牲者のお墓です。これが見渡す限り、あまりにもひどいんですけれども、累々と、という表現がありますが、本当にこの山の向こうまで墓が続いているんですが、全部といっていいぐらい、この濃いグリーンのムジャヒディンの旗が立ってるのには鳥肌がたちました。
伴武澄 診察というか、子どもたち、これちょっと飛んでるんですが、ちょっと説明していただけますでしょうか。
生井隆明 子どもたちは、とにかく気持ちの中にひどい傷を負っていますから、とにかくそれをまず話しをさせる、しゃべらせる、そのきっかけをつくる。皆さんの周りでもうつとか、そういうことで精神障害、心理障害で苦しんでいる人で、黙り込んでいる人がいると思いますが、もしそういう人がいたら参考になればと思うんですけれども、まずお話ができる状態をつくってやる。それは強制ではなくて、ですね。それのきっかけとして、絵を描いてもらうのがこの子どもたちにとっては非常に有効なんです。
で、日本から持って行ったきれいな画用紙、こんなの初めて見たと喜びながら画用紙を手にするんですが、そこで絵を描く。思ったことはどんなことでもいいから絵に描いてください。
ここには、今、伴さんがおっしゃったように飛んでしまって見えないんですが、大体200人ぐらいの子どもに画用紙を渡したんですが、全部共通してました。お葬式の絵なんです。そのお葬式はお父さん、お母さん、兄弟、その絵を描いてるんですね。ひたすら描くんです、葬式の絵を。
もう胸が熱くなりますけれども、ひたすら描き続けて、描いてる最中につぶやくんですね。お父さん、お母さん。ペルシャ語ではパダル、マダルと言いますが、パダル、マダルと言いながら描くんです。
それが話すきっかけになってくれました。そのきっかけをつくったのがこの絵、まあ絵画療法と言っていいんですけれども、この子どもたちです。その子どもたちは、みな障害を持っています。ショックで口がきけなくなった子もいるし、そのショックがもとでしょっちゅう腹痛を持ってる子もいるし、そして今、僕の膝の上にいる子のように言葉を失ってしまった、内科、外科的にはまったく問題ないんですけれども、言葉を失ってしまった。
でも、やがてこの子どもは半年後に言葉を回復してくるんですけれども、それにはどんな治療をしたかと言うと、順番がくるたびにそーっと向こうのドアの影にいるんですけれども、おいでおいで、こっちへおいで、いい子だ、いい子だと抱っこして、アファリン、アファリンと言いながらこうやって、それだけです。あとはパンをあげて、それから総合ビタミン剤をあげて、いい子、いい子。来るたびにそうやって声をかけてあげる。アファリン、アファリンと言いながら抱っこして、揺らすこと5分、これがこういうPTSDを持ってショックで言葉を失った子どもに対する、これ以外ないんですね。
言葉を回復させる薬などというものはありません。特効薬は愛情なんです。ひたすら愛情です。
伴武澄 パダル、マダル、ですか。
生井隆明 そうです。
伴武澄 で、生井さんがパダルになったと。
生井隆明 えと、まあ、そうですね。
伴武澄 マダルになった方もいると。
生井隆明 お母さん役、マダルの役をやってくれたのは、私が主催するこの戦災孤児のためのクリニックの副院長先生。小児科のドクターです。その方がお母さん役でマダルです。
伴武澄 多分、後で写真が出てくると思いますが、子どもたちの話はこれからもたくさん出てくるんですが、ここで生井さんを精神的にも支援してくれた1人の日本人をちょっと紹介したいと思います。
生井隆明 はい。国会議員を当時やってたんですが、当時の民主党の田中甲さんという民主党の議員さんがいまして、最初は利用するために来たのかなあ、と私、疑い深いところがありまして、私たちの団体を利用するために来たのかな、と思ったんですが、真ん中ぐらいからとんでもない、誤解してましたと言って謝ったぐらい誠実にやってくれまして、日本においても支援してくれました。
そして、アフガニスタンまで3回も来てくれたんですね。あの遠いアフガニスタンへ、国会議員さんが市会議員さんを1人、2人連れて来てくれるんです。それから、国会議員が動くと、大体向こうの領事館、大使館はダーっと動いて大変なリップサービスをやるんです、国会議員には。私たち民間人には言葉かけても振り向いてもくれないんですけれども、国会議員が行くと向こうからすり寄ってきますね。
ひどいもんですね。もしこの中にそういうご縁の方がいたらエクスキューズなんですが、勘弁していただくとして、これ事実なんです。
彼がドバイ経由で来るんで、たまたま私もドバイでNGO会議があったものですから出たんですが、ドバイへ行った時に迎えに出たんですが、すごいです。領事館がダーっと来まして、貴賓室へ連れて行こうとするんです。そしたらその時、この田中甲さんが、いやいや、私はあくまでも1人の日本人としてアフガニスタンの戦災孤児を応援しているこのNGOのアジア戦災孤児救済センターの支援者として来たんだから、外交ルートの扱い方はしないでほしい。なかなか立派なんですね。
僕は、大変感激しまして、それ以来、彼に謝ったんですね。こういうエピソードがあるくらい、彼は一生懸命アフガニスタンの子の、カブールのクリニックへ来て、子どもたちの相手をしてくれたり、お土産を持ってきてくれたり、そして一緒にサッカーをやったり、彼は学生時代サッカーの選手だったそうです。まさか民主党の国会議員を自分から辞めるとは思いませんでしたが、今にして思えば先見の明があった立派な人だなあ、と思っております。
伴武澄 その時、渡辺恒三さんも来てくださったとか。
生井隆明 ええ。その話は後から出るのかなと思って今、言わなかったんですが、すみません。ついでに、と言っては何ですが、この田中甲さんが民主党の議員団を連れて、もっと正確に言えば、超党派のアフガニスタンの戦災孤児を救おう、それから、そうやって大変抑圧されて虐げられた民族、ハザラ族の人たちを少しリサーチしよう、という視察団を組んでくれたんです。
で、超党派の共産党から自民党まで、超党派の議員団15名を組んでくださいまして、その代表が今、民主党の最高顧問をされている渡辺恒三さん、その方が視察に来てくれたんです。
伴武澄 今、アフガンのことというのは、忘れ去られているんですが、結構7、8年前はどうなるんだという、日本中が関心を持って見てたんだと思いますね。
生井隆明 はい。当時はアフガニスタンに日本は軍隊を送ってませんので、アフガンの人たちは、さすがジャパン、立派だねと。とにかく中近東で日本人は非常に尊敬されてます。皆さんのお顔が一人ひとり見えないのが残念なんですが、とにかく日本人は尊敬されています。
その理由は、中近東はいつもロシアの南下政策によってトルコからインドまで常に侵略されていたんです。南下政策と言いますが、これで苦しんでいる時に有色人種である日本人がロシアと戦争をして、日露戦争ですね、それで勝ってしまった。そのために南下政策が中止になって、全部ロシア軍は引き揚げていくわけです。日本人ってすごいね、ということです。まずそれが1つ。
それから、その次にはアングロサクソン、アメリカ、ヨーロッパの軍隊と戦った。そのころは、中近東からアジアにかけて全部と言っていいぐらいアングロサクソン、ヨーロッパ、アメリカの植民地だったわけです。東南アジアまでずっとですね。
その中の1人、日本という国が、同じ肌の色、同じようなアジア人が、ええ?戦いを挑んだ?ということで有名になったんだそうです。その戦い方があまりにもすごいので、日本はすごい、日本すごい、というわけですよ。日本チャッチャッチャーなんですよ、本当にね。彼らからすれば。
そして、何がすごいかと言えば神風です。今、自爆テロというのがありますね。アメリカの猛烈な武器に対してイスラムの人たちがとっている唯一の有効な攻撃は自爆テロです。悲しいことですが、非常に悲しいことですが、これしかないんだと彼らは言うんです。それは、神風からヒントを得たと言うんです。もう皆さんのほうがよくご存知でしょう。神風、ぼろの飛行機に乗って、空母に体当たりをして沈めてしまう。こういうやり方で、とにかく植民地をたくさん経営しているアングロサクソン、ヨーロッパ、アメリカの軍隊に対して立ち向かっている日本に対して心から声援を送ったんだそうです。
そして、原爆を落とされて負けました。もうこれで日本は絶対に立ち直れないだろうと思ったと。ああ、気の毒に。神様の思し召しだ、アラーの神の思し召しだ、仕方がない。
ところが、ぐんぐんぐんぐん伸びてきて、今では中近東を走っている8割は日本の車です。アフガニスタンの9割は日本の車です。それも全部、中古車です。なぜこんなに乗ってるんだと聞くと、いや、故障しない、すばらしい車だ。それからソニーとか、そういう電気製品は一番高いところに飾ってあります。でも、あまりに値段が高いので、サムソンとか、シンガポールとかでつくったものがどんどん売れるようになってしまったんですが、ちょっと余談でしたけれども、とにかくアフガンの人たちは、中近東の人たちは、日本人を尊敬してくれているんです。
伴武澄 我々が学んできた平和教育とちょっと違うような印象もあるんですけど、ずーっと長く植民地支配を受けて、未だに空爆を受けたり、攻撃を受けてる国から見ると、うらやましいんですかね、日本が。ちょっと子どもの話に戻りますが。このかわいい4人の子どもがいますね。
生井隆明 はい。一番右側に座っているお姉ちゃん、シャフィーカと言いまして、この写真を撮った当時、15歳のお姉ちゃんです。その脇の子も全部いい子ですね。これはお祭りの日、イイドと言いますが、「お祭りはいいど」という組坂さんのダジャレをちょっといただいて、お祭りのことをペルシャ語でイイドと言います。
「お祭りはいいど」ということで、私たちがあげたささやかな義援金をもとに、お母さんが安い生地を買ってきて、晴れ着をつくったんですね。そして、こうやって恥ずかしくて、この子たちも遠いところからカブールを目指して来た。お父さんをタリバンに首を取られてしまって、それをもろに見てしまったショックでお母さんは寝込んでいるんですけれども、やっと体を起き上がらせて、このイイドのお祭りの晴れ着をつくったわけです。あまりにきれいで、僕がはやし立てると皆はにかんでね。やめてくださいとか言うんですけど、かわいいですね。というようなエピソードがありました。
伴武澄 何かもうちょっと深刻な話も前回聞いています。ここで言っていいんでしょうか。
生井隆明 このハザラ族というのは、最初に申し上げたように、非常に差別されている民族ですから、そしてタリバンというのはご存知のようにパシュトン族が中心です。パシュトン族がハザラ族はもういつ殺してもいいんだ、昔で言えばお手討ちご免、みたいな存在なんです。
このお父さんは、ハザラ族の中でちょっとした役員をやってたということで、タリバンが入ってきた時にちょっといろいろ抗議したそうなんです。やめてくれとか、そんな乱暴なことをするな、とかですね。そしたら、お前らハザラ族だろうということで、その場でわいわいと裏のほうへお父さん連れて行かれて、急に静かになったので子どもとお母さんが一緒に裏へ行ってみたら、お父さんの首と胴が離れていたと。そして、タリバンたちが血のしたたるナイフをそのまま下げて、「ふん、ハザラめ」と言って遠ざかっていった。これは、母親から聞きました。そして、シャフィーカからも聞きました。
それ以来、この子たちはショックを受けて、寝込んでしまったんです、親子で。そこへ私たちが偶然、往診で通りかかって、地元のモスクの長老から、どうかシャフィーカの家へ行ってやってもらいたい、ということで入って行ったのがご縁でした。そういうエピソードがあったんです。
伴武澄 次の写真は、見せようか見せまいか、迷うんですけど。
生井隆明 そうですね。
伴武澄 ちょっとだけお見せしますね。いいでしょうか。
生井隆明 残酷なものがいやな人は、ちょっと目をつぶってください。
伴武澄 いいですか。
生井隆明 はい、ちょっとだけ。ヘドマホメッドと言います。これは、ロケット弾でお父さん、お母さんを爆殺されて、この子も顔を焼きつぶされて、腕を焼かれてしまったヘドマホメッドです。この子たちも私のところへ来ました。はい、送ってください。すみませんでした。
今の子は、やはり子どもたちの中で差別されてしまうんですね。顔が焼けただれていますから。でも、私は感染症ではないというのが分かっていますから、子どもたちがたくさんいる中で、その子どもをおいで、おいでと呼んで、お父さんが子どもにキスするように、向こうでは必ずキスしますので、同じように焼けただれた顔にチュッとやったげるんです。
そうすると、周りの子どもたちは、ああ、病気じゃないんだ、というので遊んでくれるようになったヘドマホメッド君なんですけれども。今の写真は、劣化ウラン弾を使った放射能の障害です。米軍は、見事に貫通する弾薬を使う。それの最たるものとして劣化ウラン弾を使うんです。
これ、軍関係者から聞いたことなので事実なんですが、その劣化ウラン弾を使った戦場の周りにいた子どもたちは、大なり小なり白血病を併発します。心のショックばかりではなくて、体もこのように侵されていくわけです。
この抱っこされている女の子は、3ヵ月後に亡くなるんです。見えてませんが、お腹がまるでゴムボールのように膨らんでしまった。これも劣化ウラン弾、放射能の影響です。
この子もハザラ族の子なんですけれども、やはりお父さんが爆撃の最中に非常にひどい状況で死んだ。それを見てしまったためにショックで言葉をなくしてしまった。この子は、本当に時間がかかりました。もうだれが近寄っても駄目なんですね。暴れてしまうし、言葉は発しないし、物は投げるし、ひどい時にはナイフを持ち出して暴れるし、ちょっと僕も手に傷を負ったことがありますけれども。でも何とか抱きすくめて、会うたびに暴れられる、抱きすくめる、それを何度も繰り返して、1年かかりましたけれども、何とか言葉を元に戻すことに成功した。この女の子がそのエピソードです。
この子たちは、一見何でもないように、ちょっと痩せてるなと感じると思うんですが、これはアフガニスタン特有の麻薬患者です。アフガニスタンには医療設備がゼロに近い状態になってましたから、当時ですね。今は少し復興してますから少しあるんですけれど。
親たちも周りの人たちも、頭痛がする、お腹が痛い、と言うと麻薬を与えるんです。銀紙にケシから取ってきたぐにゃぐにゃのチューインガムみたいなものを置いて、下からマッチでこうやると、水蒸気のように上がってくるんですね。それをストローですーっと吸うんです。やったわけじゃないんですよ。
とにかく痛いのが治る、というので子どもたちはすーっと吸うんです。で、周りの大人たちも薬を買うよりアヘンのほうが安いものですから、何しろ世界のアヘンの90%はアフガン産だと言われるくらいで、原料はアフガニスタンにたくさんありますので、それをすーっとやることで麻痺させて治る。
で、後ろにあるぼつぼつは、ついこの間、重機関銃でばりばりやった跡なんですが、その子どもたち、この2人ともアヘン中毒です。で、泥棒したり、いろいろしながらこういうアヘンを吸って苦しさをまぎらわす生活を繰り返しているところへ、私たちのところへ知らせてくれた人がいたので、行ってみたんです。やはりこの子たちもハザラ族なんです。
伴武澄 いろいろなストレス障害、それから言葉がしゃべれない、立てない、劣化ウランですか。あらゆる我々が普段、気もつかないような障害をたくさん受けている子どもたちがいる。そういう中でAWOAはいろんな治療をしているんですね。これは何をしているところですか。
生井隆明 ドクター・スポージ・マイ、副院長先生。
伴武澄 マダルですね。
生井隆明 はい、そうです。
伴武澄 お母さん。
生井隆明 はい、マダル。みんなから、子どもたちからマダルと言われてます。ちなみにこの先生は、実際に自分のお子さんがいるんですけれども、このクリニックに来ることが大変楽しみで、小児科のドクターなんですけれども、こんなに簡単な方法で、こんなに子どもたちがよくなるんであったら、ぜひ私にも教えてほしいということで、ストレス・セラピーのエッセンスを教えて、ケアができるように、セラピーができるようになったんです。
その中でも一番人気なのはマッサージなんです。子どもたちはスキンシップに非常に飢えていることと、それから緊張を解除してリラックスするというチャンスがあまりないんですね。もういつでも緊張してるんです。街へ出ればほかの部族からわーっと言われる、何かしようとすればまたわっとやられる。とにかく緊張のしっ放しですからリラックスできないところへ、こんなきれいなマットの上へ寝かせてもらって大好きなマダル、お母さん役の先生から丁寧に気持ちのいいようにマッサージしてもらう。これは、子どもたちにとっては夢のようなすばらしいエピソード、できごとなわけですね。
伴武澄 これは何でしょうか。
生井隆明 はい。これはもう1つのセラピーの方法として発声療法です。声を出して呼吸法をやり、それから脱力し、いやな思い出で頭の中がかんかんになった、混乱しているのを穏やかにするための呼吸法を指導している。その呼吸法も歌を歌いながら。ですからカラオケいいんですよ、皆さん。カラオケがんがんやってくださいね。歌を歌って、それもなるべく大らかにリラックスしてできるような歌を、今、アフガンのハザラ族に伝わる民謡を題材にして歌ってもらっているところなんです。これも大変効果的でした。
伴武澄 みんなハザラの人たちですか。日本人みたいな顔の子が多いですが。
生井隆明 ほとんどハザラですね。後ろのほうにヘドマホメッド君がいますけど、これもハザラ族ですね。全員ハザラですね。一番後ろにいる、ちょっと細長い美人さん、これはハザラではありません。ウズベックと言いまして、大変民族の誇り高い部族、看護師さん、ナースです。
伴武澄 何か聞いてますとね、ストレスを治すために一番いいのが抱いてあげることとか、マッサージとか、まあスキンシップですね。
生井隆明 そうですね。
伴武澄 もっと難しいことかと思ったんですけど、ストレス・セラピーなんて言うと。そんなものでいけちゃうんですか。それだったら我々も、ストレスの方たくさんいるじゃないですか、日本にも。
生井隆明 そのとおりですね。
伴武澄 僕ら考えてみれば、戦場にいるわけではないんですけど、東京なんかにいますとね、奥さんと会話がないとか、子どもは朝早く出て行って、夜、部活だ何だと言って・・・。
生井隆明 自由深刻ですか。
伴武澄 いや、そういう生活の中にいて、ストレスたまるですわね、当然。
生井隆明 はい。
伴武澄 で、日本人ってわりと肌の接触というか、中近東はよく抱き合ったり、ロシアもする男同士が抱くし、金正日さんも中国の胡錦涛さんとすぐ抱き合いますわね。
生井隆明 はい。
伴武澄 これの文化の違いは何なんでしょうね、これ。
生井隆明 私もそれ考えたことがあるんですが、本当に日本人はスキンシップしませんよね。握手をしようものなら大変ですね。逆に皆さん、お尋ねしたいんですが、ここから見ると暗いのであまり見えませんから正直に手を上げていただきたいんですが、ご家族とスキンシップできてるな、と思う方、手を上げてください。見えませんからどうぞ。だれも上げてないようですね。実は、見えてるんです。
伴武澄 僕は何回かお話を伺って感じたのは、日本が平和だからなんだと。つまり抱き合うということは、何も持ってないよ、ということを体で相手に伝えるとか、そういうアレはないんでしょうかね。
生井隆明 そういうこともあるかもしれませんが、それよりは、やっぱり触れ合うということで安心、癒し、それから交流を深める。よく中近東へ行きますと男同士が手をつないで歩いている。ちょっと気持ちが悪いなと最初は思ったんですが、だんだん慣れてきまして、ああ、いいことだなあと思うようになりました。とにかくスキンシップを大事にします。
日本の人は、スキンシップをあまり大事にしません。どうか皆さんも、生活の中へスキンシップをもっともっと取り入れてもらいたいんです。特に子どもに対しては、ですね。学校から帰ってきたら「お帰り」と言うだけではなくて、「お帰り」と迎えてあげて「ああ、お帰り」と。なかなか慣れないとできにくいでしょうけれども。それから「行ってらっしゃい」の時も、ただ「行ってらっしゃい」じゃなくて、「ああ、行ってらっしゃい、気をつけてね」というふうにして、ちょっとスキンシップしたら、また平和になるんではないかなと思うわけです。
伴武澄 ありがとうございます。帰ったら試してみたいと思います。じゃあ、アフガンに戻ります。子どもたちはこういう訓練を受けて、やがて長い人は1年をかけて自立できるようになると。
生井隆明 はい、そうですね。
伴武澄 自立するのもやっぱり大変だと。まず食うことから始める、ということらしいんですけど。
生井隆明 戦災孤児たちは、とにかく自分で働かないと食べられませんから、どこからも応援はありません。モスクからの応援は少しずつあるんですけれども、でもとにかく食べなきゃあいけないので、アルバイトをします。
一番アルバイトで歓迎されているのが水売りです。左側ですね。水を売ってるんですね。日本で言えば1円ぐらいの値段で、あのカップ1本を売ってるんです。あのばっちい手を見てください。ばっちいんですけどね。ですけど彼らは一生懸命、井戸から水を汲んできて、「水代を、水代を」と言って売っているんです。
それから、右側の子どもは、私たちのAWOAのクリニックへ来ていた子なんですけれども、靴磨きをグループでやっているんですね。1日に大体、日本円にして150円ぐらいの収入があるんです。この水売りのほうも同じくらいの収入があるんですが、150円あれば4、5人でパンが食べられる、そういう生活です。
それから、左側の子どもは、キュウリを売ってるんですね。私たちが応援して農園からキュウリを仕入れてきて街中でキュウリを売って、そして小遣いを稼ぐと。小遣いどころじゃありません、生活費ですね。そうやって自立する方法をリードしていくわけです。
ただ治すだけでは駄目。生活ができるように応援してやる。やがてそれが自立していくことになるわけですね。
伴武澄 よく聞くことなんですが、戦場の子どもたちの生活というか、よく少年兵とかありますでしょう。食べるのが大変だと。で、一番手っ取り早いのが戦争に行くと。アフガンでもそういう状況があるんでしょうか。
生井隆明 ええ。私が夜寝る時には、必ず枕元にカラシニコフAK47突撃銃を、安全装置をはずした銃を置いて眠るんです。その理由は、預かっている子どもたちが、子どもたちを盗みに来るグループがいるんです。これ武装勢力、強盗団みたいなものなんですが、子どもたちを盗みに来ます。盗んだ子どもたちをどういうふうにするかと言うと、今、伴さんがおっしゃったように少年兵として使う、それからヨーロッパ、アメリカへ売りとばして子どもの内臓のドナーとして使う。これは本当に残酷な話ですけれども、実際にあるんです。
アフガニスタンばかりではありません。アフリカ、それからカンボジア、あのへんからもヨーロッパ、アメリカへ行くわけですが、アフガニスタンの場合も同じように子どもを盗みに来るぐらい、子どもの需要が多いんです。いろんなふうに使えるんです。泥棒をやらすこともできるし、ということですね。
それから、一番悲惨なのは、ちょっと言いにくいんですがセックス・チャイルド、つまり子どもの性をむさぼる大人がいるんです。その大人たちにヨーロッパ、アメリカ、そして中近東の大人たちに売り渡すんです。大体1,000ドルです。私も買ってくれと言われましたけれども、それぐらい当たり前に売買されているんです。だから盗みにくる。本当に体を張って守らなきゃあいけない。
その中の少年兵の話は一番リアルな話で、15歳になると、もうみんな銃を持ちます。そこへ大体、契約は1ヵ月100ドルという、一応、表立った契約は100ドルですが、もらったという話は聞いたことありません。ただ働きです。ただ、食べられる、だから行く、というふうにして、少年兵がたくさんいます。
伴武澄 日本人はホームレスとかいるんですけど、飢え死にというのはほとんど聞かない状態ですよね。でも、世界にはそういう、アフリカへ行ったらもっと貧しくて、貧しさゆえに飢えて死ぬという人たちがいる。戦場では子どもたちが売られるですね。少年兵にさせられる。
生井隆明 そうですね。
伴武澄 その悪循環で、ひどいのは誘拐されるという状況なんですね。
生井隆明 特にハザラ族の子どもたちは狙われます。そんなふうになってもいいよ、当然だよ、こいつらはかつて我がアフガニスタンを奪ったジンギスカンの子孫だから、そんなものはかまわないんだよ、ということで、現在もあまり言葉にはされませんけれども、現在、現実にそうやっています。例えば、靴磨きの場所取りなんかも「お前はハザラだから向こうへ行け」と、こういうふうにやられます。それから、キュウリを売る場合でも「お前らハザラなんだから違うところへ行ってやれ」というんで、大人も子どもも一緒になって、このハザラ族の子どもたちを大変な迫害をするんです。
でも、ハザラ族の子どもたちは、泣きながら畜生!とか言いながら頑張ってます。そういうところへ私たちが通ると、もう手を振って大変なんですね。だからこちらも「頑張れよ」と応援するんですけど、もう涙をふきふき靴磨いています。
伴武澄 そういう子どもたちを支援し続けて2年、3年とたった時に、生井さんを一躍有名にする事件というか、できごとがあります。それは、次ですね。これでいいですか。
生井隆明 はい。
伴武澄 ハテマちゃんって皆さん、ひょっとして新聞でご記憶あるかもしれません。
生井隆明 この中にも、もし支援していただいた方がいたら、本当にありがとうございました、その節は。ハテマ・サハールという13歳の子どもだったんですが、私たちのクリニックへ来て、お母さんがどうもこの子は頭が狂っていると、すぐ暴れる、すぐ泣く、すぐ怒る、すぐかみつく、もうどうしようもない、というので私たちのところへ連れて来た。
で、ここで駄目だったら精神病院の鍵のかかるところへ預けるしかない、と言われてた子なんですが、どうもおかしい。どこがどうなんだ、とチェックしてみたら、頭が痛いんだと言うんですね。どれ、触ろうとしたらはぜのけるんですね。
「そんなに痛いのか」と言うと「そうだ」。すぐピンときたんです。これは何かできてるぞとその時は思ったんです。腫瘍ができてるなと思ったんです。すぐレントゲンのあるところへ連絡入れて、車を出して行ったんです。で、簡単な、一番初歩的なレントゲンを撮ったら、何と腫瘍ではなくて銃弾が入ってたんです、頭の中に。すごいですね。
これも同じです。うちの警備を担当している男に、これは何の銃弾と聞いたら、カラシニコフAK47の銃弾だと。彼らは元軍人ですから。これは大変だと言ったら、そのお母さんがこう言うんですね。「その銃弾は、スイスの赤十字、レッドクロスのホスピタルで取ったよ」と言うんです。じゅあ、もう1発残ってる。じゃあこの子は2発、銃弾を撃ち込まれたたんだと。
ある日突然、その村で銃撃戦があったんだそうです。で、一緒になって伏せて、逃げまどっている時にハテマが突然ぎゃっと言って倒れた。そのまま気を失ったんですけれども、お母さんは遠い道のりを抱きかかえて、我を忘れて病院へ行って診たら銃弾が入っているというのが分かって、1発抜いたと。それで全部終わったと思ったと言うんですね。その後遺症だと思っていたんだそうですけれども、というエピソードのある子を日本へ連れてきて、新宿の国立医療センター、近藤先生ですが、そこへ入院させまして、無事に銃弾もう1発を取りました。
そこへ小泉さんが、立派というか、偉いというか、目ざといというか、さすがだというのか、突然来たんですね。突然来て、「ハテマちゃんは元気ですか」とあの調子で。ええ?と思いましてね。「いや、お見舞いに来ました」と花束を持って来たんですよ。やることやりますね。すごいですよ。見事でした。そうやってお見舞いに来てくれたエピソードが、実は日本のメディアにもたくさん取り上げていただいて、その時の費用が全部で1,500万集まったんです。皆さんも応援してくださった方がいたかもしれません。本当にその節はありがとうございました。
ということで、国へ帰ったらもうハテマは英雄です。神の子だと言われて、奇跡の子だと言われて、空港へ保健省の大臣から、この大臣はドクターなんですが、ぜひ見せてほしいと、帰ってきた元気な姿を見せてほしい、ということで迎えの車が来て、まいって、めでたし、めでたしなんですが、実はこのエピソードが私がアフガニスタンにいられなくなった・・・。
伴武澄 それはちょっと後でやりたいと思います。
生井隆明 ああ、そうですか。
伴武澄 まあ、そういうエピソードがありまして、生井さんはアフガニスタンで結構、有名な人になるんですが、先ほどの子どもたちですね、3,000人とかいう人たちを、実はもう1つ、もう1回引っ越すんですね。さっき見せたAWOAからもう1つ、畑があるところ。究極の計画が幾つかあったそうですね。
生井隆明 そうです。
伴武澄 その計画をちょっと紹介していただけますか。
生井隆明 ありがとうございます。ちょっと前後しますが、子どもたちが大きくなった時に自立できるようにするにはどうしたらいいだろうか。もともとアフガニスタンは農業立国だという歴史を文献で知ってましたので、確かに農作物には適した土なんですね。そこで農業をやらせよう、銃を持って兵隊になるばかりが能ではないと思いまして、農業をやらせようとして、農業のトレーニングができる広い屋敷を借りる。それから、政府にかけ合って大変広いところを、土地をもらうわけです。
ところが、その契約が終わったところを、実は別の外国のNGOに横取りされてしまうんです。これは、大臣と土地をもらう契約を通訳を入れて盛んにやってるところです。
この見事に契約を終わった、よしこれでOKだと、ありがとう、ありがとう、ということですが、そこにドクター・サディックが、実は私の右隣りに立ってるのが、かつてパキスタンで会ったドクター・サディック。この時は、NGO長官になっていました。大変立派な男です。
こういうふうにやったんですが、僕はこのアフガニスタンという国の文化をこの時、まだ知らなかった。賄賂の文化があるんです。賄賂をやらずにこれだけ広大な土地をもらったのは話題になったんです。僕だけだそうです、賄賂をやらずに。
ところが、ある国のあるNGOが500万ドルぐらいの金をぽんとあげて横取りしたんです。これは未だに僕はショックです。ある国の、と言っては何ですけれども、まあいいでしょう。韓国のNGO団体がこの私たちが本当に農園をつくって子どもたちのためにやろうと思ったすばらしい土地を、このまさに写真に写ってる一番右側の労働大臣は、悪い顔してますね。もう未だにこれ見ると腹立たしいですね。この男に賄賂をぼーんとやって、契約を全部ほごにしたんです。こういう土地をですね。本当はここでやるつもりだったんです。
伴武澄 ここがAWOAのものになってれば、運命はかなり変わったんでしょう。もう1つ農場経営があったんですね。後継者を育てるという意味において、カブール大学と、これカブール大学の学生たちですね。
生井隆明 カブール大学の医学部の、既に国家試験にパスした、ドクターになった若きフレッシュマンなんですが、この人たちにストレス・セラピーを覚えてもらって、全国へ散らして、子どもたちをケアする、治療する、という壮大なプロジェクトを組み上げたわけです。
それを外務省へ持って行って、こういう支援するプログラムを立てたからどうですか、ぜひ応援してもらいたいと言ったら、外務省がOKしてくれまして、予算を組んでくれました。
伴武澄 日本の?
生井隆明 はい、日本の外務省です。日本の外務省がたまにいいことをやってくれるんですね。いいことをやってくれると、僕はすぐうれしくなるんで。ところが、この後すぐ賄賂の要求と、これ文化ですから仕様がないんですね。1人につき1日5ドルくれ、と言うんですね。で、60人いるんです。その金額を毎日くれと言うんです、この学長が。
それは、外務省で予算組んでませんでしたからね、いや、あげられないと。これはボランティアでやるんだから、あんたの国のためのことでやるんだから、そういうお金はあげられないと言ったら、じゃあこのプログラムは我々は中止だと、いきなり言うんですね。
彼らは賄賂と言いません。贈り物。そうです、ギフト。ギフトをくれればこのプログラムは進めると、くれないのであればここでストップだと、やり取りしている間に実は自爆テロが発生したり、大変な治安の悪化が始まるんです。
その2つのことで、このプロジェクトは頓挫するんですが、この顔ぶれを見てください。まさにアフガニスタン26民族の代表、全員入っているんです。で、私が入って27民族です。日本民族ですね。そういうプロジェクトを組んだんですが、賄賂の要求と治安の悪化でこのプロジェクトは中止になりました。
伴武澄 皆さんに言いたいんですけど、僕は生井さんと出会って1年ちょっとですね。
生井隆明 そうですね。
伴武澄 話を何遍か聞いてるんですけど、ちょっと信じられない、東京の文京区、そこに小さなクリニックがある。
生井隆明 東大のすぐそばです。
伴武澄 そのこ主がこの方で、この方が突然アフガン空爆以降、活躍して4年、5年後ぐらいですか。
生井隆明 そうです。
伴武澄 にまでなるというこの熱意というか、人間ってすごいな、できるんだな、と僕は話を聞いて。ゼロからですよ、失礼ながら言葉も、ペルシャ語は現地へ行ってから学ぶというような形で、子どもたちの世話をする。こういうことはできるんだなあ、と思って非常に感動した記憶があるんですね。
それで、この写真、先ほどのハテマちゃんの写真、小泉さん右側に写っていますが、それだけアフガンから感謝されている生井さんが、実は有名になりすぎて、これ新聞の記事なんですね。
生井隆明 そうです。
伴武澄 これが逆に悲劇を生むという矛盾したことが起きてしまうんですね。
生井隆明 アフガニスタンで大活躍している日本人は、皆さんもよくご存知の中村哲先生、ペシャワール会の代表ですね。中村先生と私も交流をいただいていまして、いろいろアドバイスを受けたり、コラボレーションしてるんですけれども、中村哲先生は非常に上手です。
なぜか。目立たないように上手にやって、実績をお上げになっているので、さすがだなと思います。もう20年やってますから。私は、まだ高々10年になるかならないかぐらいなんですが、どうしてもやることが派手になってしまう、目立ってしまうんですね。
ましてアフガニスタンで戦災孤児を助ける者は神の使いである、周りの者はよろしく支援しろ、というコーランの一節があるぐらいなんです。それをたまたまやってしまったものですから、常に注目されてるわけです。
で、こういうエピソードがあって、ハテマを、奇跡の女の子を助けた神の使いだと。それこそ奇跡の子だというので新聞、ラジオ、テレビに取り上げられない日はないぐらい。ハテマはこういう状態で、今こうやってるよ、ということがリアルタイムでラジオで1ヵ月も2ヵ月も続くんです。
それで、あの日本人をゲットすれば、我々の、政治犯として刑務所に行っている100人の政治犯とチェンジできるかもしれないということで、この写真がまさに指名手配の写真になってしまいまして、モスクの長老たちから、何人ものモスクの長老たちから、このパスポートみたいなものを見せられるんです。この写真が出回っている。だから我々はもう守りきれない。だからもう日本へ帰ってくれと。
もちろん、そのころには大統領府からもどうか引き揚げてもらいたい、守れない。実際につけ回されたことも一度や二度ではありませんし、もちろんガードマン増やしました。ペシャワール会の伊藤さんは、本当に気の毒な思いをしたんですけれども、ただ1つ残念だったのは、ガードマンを連れてなかった、それから銃を持ってなかった、ということのエピソードがあるんですが、私はこの写真で大変な思いをするわけです。やむを得ず撤退の準備を始めるわけですね。
伴武澄 ということなんですね。生井さんの6年間のアフガンでの協力事業がいったん中断されるという悲劇的なことになるんですが、実はイラクは去年から撤退が始まって、今年の夏に完了。アメリカ軍は、それに続いてアフガンからの撤退をこの夏、始める予定にしてますね。
生井隆明 はい。
伴武澄 4月とか言われています。で、きのう発表されたアメリカの大統領の予算教書の中で、初めて軍事費が、この10年で減少したということが書いてありました。つまり、これからはしばらく戦争しない、という方向にいくんだろうと思います。そこで重要なのがアフガンの戦後復興、民生支援ということだろうと思いますね。
で、去年でしたっけ、岡田さんが外相だった時代に、国際社会に5,000億円、50億ドルの民生支援をやるという約束をしたという話がありますね。
生井隆明 はい。5,000億円を5年間で民生支援する。これはアメリカからの要求で、軍隊を出してないんだから日本はそれ相応の応援をしなさいということで、皆さんの税金が5,000億円組まれたんです。今、それはちゃんと総理府の管理になって眠っているわけですが、そのお金がジャイカというところへ、これ独立行政法人ですけれども、これ緒方貞子先生が理事長をしている、人間の安全保障という活動を今、盛んにされているんですが、そういうところで今、私もコミュニケーションとっているんですけれども、人間の安全保障ということでなさってるそのジャイカの理事長さんの団体ですね。そこへ5,000億を丸投げしようとしている。皆さんが大好きだった民主党の菅内閣がですね、だったですよ。
皆さん、そこでぜひ声を上げていただきたいんです。5,000億円の血税ですよ。これが使い道も分からなくて、ただアメリカに言われたから、はい分かりました、と言ってまた道路を造ったり、使わないビルを造ったり、そういういわゆるインフラを再構築するという美名のもとに、もう1回また無駄遣い、いや私たちの現地から見れば無駄遣いです。
やっぱり一人ひとりの国民が食べられるようになる具体的な、例えば農園をつくるとか、そこの農民へ難民として逃れている人たちを呼び戻して、またそこで村をつくって、自営組織をつくらせるとか、そういう食べることのできるプロジェクトに、その5,000億は使われてほしいと思うわけです。
皆さんの血税ですからね。そのために、実は皆さんに署名運動をお願いしたわけで、以前、署名してくださった方がここにたくさんいらっしゃると思うんです。この場をお借りして、お礼を申し上げるわけですけれども、どうもありがとうございました。
それをまた続けて、丸投げしないように、また再陳情をする予定でいますから、どうか皆さん、ご協力をお願いできればありがたいなと思います。
伴武澄 生井さんの夢は多分、壮大なんですね。今、言いました農園のような施設を全国50ヵ所つくりたいと。多分、生井さん、生きてる間には全部できないかもしれないけど。
生井隆明 いや、そんなことありません。
伴武澄 一つひとつ造っていかれるんだろうと思います。で、今おっしゃられたように政府のお金も有効に使えるように、無駄な公共事業に使われないように、子どもたちの将来のために使えるような運動を我々も起こしていきたいと思いますので、皆さん、どうぞご協力いただきたいと思います。
生井隆明 最初にアフガニスタンの民族の話、ハザラ族の話で、いかに銃を取り、戦い、自分たちの社会的地位を高めたか、ということを最初に申し上げて、そして今日、ハザラ族の人たちが副大統領までつくれるようになった、この20年間で。
その間に、何十万人という尊い犠牲を、若いハザラ族のムジャヒディンが戦って、やっぱり彼らは戦わなかったら自分たちはいつまでも虐げられたところにいなきゃならない、いつまでも道路の隅で、端っこを歩かなきゃあならない、いつまでも靴磨きの場所を取られてしまう、いつまでも、いつまでも、ということで彼らは立ち上がったんだそうです。
で、戦ったんですね。ほかの部族、民族が戦っている時、以前は戦わなかった。戦わせてもらえなかったんだそうです。ハザラは役に立たない、というんですね。ところが、彼らは銃を取り、何十万という人たちが一気呵成に戦いの中へ参加し、そして自分たちも社会の中へしっかりと基盤をつくり上げた。その途中で、きょうお話したようなエピソードがあるわけです。
一方では戦いながら、一方では子どもたちの戦いがあり、それをほんの少し支援させてもらう。なぜこんなにエネルギッシュにできるか。66になっても、まだこんなにエネルギーをなくさないで、炎を燃やすことができるか、それはひとえに弱い人間が強くなるためのプロセスを見せつけられているんですね。だから、自分もへたってはいけないんだと。
見事です、彼らの戦いぶりは。どの家にも銃があります。何かあったらすぐ銃を取って、自分たちの名誉のために、民族のために、子どものために戦います。
それを毎日見ていますから、情熱が冷めないんですね。ある日突然、ぷつんと冷めるかもしれません。でも、いいです、それで。彼らはそうやってるんです。そうやって闘い抜いて、子どもたちもそうやって戦っているんです、生きるために。大人たちは自分たちの名誉のために戦っているんです。
で、やっとほかの民族たちは、おお、ハザラ族、なかなかやるじゃないか、ということで認めるようになってきて、国会議員のチャンスも与え、副大統領のチャンスも与え、アメリカもヨーロッパもハザラ族を認めるようになってきてるんです。でも、まだ緩めることはできません。まだまだ彼らは戦い続けるでしょう。子どもたちもです。
伴武澄 多分、もう終わりに近いんですが、生井さんのお話を聞いて、このエネルギーはどこから来るんだろうと、僕もずーっと思い続けています。僕も5月に定年になってから、生井さんができたんなら私もこれから跡を追っかけて、6つ違い、7つ違いですか、お手伝いを少しでもしたいと僕自身は思っています。
皆さんに、最後にお願いなんですが、誠に図々しいお願いなんですが、いろいろきょうのお話を聞いて、賛同していただける方は、お帰りの際に寄付の箱を置いてありますので、どうぞよろしくお願いします。
それともう1つ。寄付をいただいた方にお土産ではないんですが、こんなカードをつくりまして、これ実はインターネットで4回ほど自分で検診ができるようなサービスがありますので、もし関心があったら試してみてください。
ぜひともきょうの話を友だちや家族に伝えていただければ。きょうは1,000人も集まっていただいたんですが、我々の運動がさらに大きな輪になるんではないかと思います。きょうは本当にありがとうございました(拍手)。
生井隆明 ありがとうは日本語で言いますとありがとうございます。そんないいことをしてくれた人たちは、きっと神様が守ってくれるはずですよ、という挨拶の仕方があります。ありがとうございました。タシャクール(拍手)。
司会 お2人、本当にありがとうございました。
参加された皆さん方が帰られてしまわないか、ちょっと心配をしてましたけれど、最後まで静かにお2人の話に聞き入っておられたことに、私も下で聞きながら、そのことも含めて感動しました。
本当に戦う先に未来や希望がある、部落解放運動と重ねながら本当に頑張っていかなければならないな、ということを感じました。今、エジプトも変わろうとしています。希望を捨てないで、ともに闘っていきたいという思いを込めまして、お2人に大きなお礼の拍手をお願いいたします。
(拍手)
ありがとうございました。