蔑称としてのチャイナと支那
いつから「中国」が国名となったのか? 2011年3月9日
古い話だが、一九六〇年代、筆者は南アフリカのプレトリアに住んでいた。すれ違いざまに「ヘイ・チャイナ」と呼ばれ、やるせない思いになった。「ヘイ・チャイナ」はアジア人に対する蔑称である。日本人が「支那人」と蔑んだように、西洋人は日本人を「チャイナ」と侮蔑していたのである。語源はよく分からないが、黒人のことは「キャファー」と蔑称していた。
そのチャイナが二〇一〇年のGDPで日本を抜いて世界二位になった。もはや南アでもどこでもアジア人のことを「チャイナ」と蔑むことないだろう。
問題は中国と同じ漢字を使用する日本だ。最近とみに「支那」を使う人が増えてきた。中国が嫌いな日本人たちが中国人が嫌がる「支那」という表現をあえて使うことで鬱憤を晴らしているような気さえ感じられる。
古来、日本人は中国を王朝名で呼んできた。不思議なことに王朝名はあっても国名はなかった。代表的なのは「唐」である。日本への文化的影響が一番大きかったからであろうが、江戸時代になっても「唐(から)」「唐人」という呼称が残っていた。明治になってからは西洋諸国にならって中国と正式に国交を結び、もっぱら「清国」となった。「中国」という国名はまだない。
日本にはもう一つ「支那」という呼称もあった。いつから始まったかは分からない。空海の詩文集「性霊集」に「支那」が用いられたとされるが、一般的だったとは思えない。たぶん明治になって王朝名とともにその国名を特定するために「支那」が多用されるようになったのだと思っている。
日本に亡命した革命家や留学生たちも日本での著作にで「支那」と書いていることなどから、内外ともに「支那」という表現に差別の意識はなかったはずだ。
その「支那」が差別語になったのは、日清、日露戦争以降、日本と中国の国際的地位が逆転してからのことである。一九一一年の辛亥革命で清朝が倒れ、大きな後ろ盾を失った。翌年、中華民国の成立を宣言したが、不幸なことに中国自身は分裂状態に陥った。日本としてもあの広大な大陸をなんと呼んでいいかとまどったに違いない。日本国政府は一九一三年六月の閣議で「条約や国書を除いて『支那』と呼称する」と決定したほどだった。
支那という表現が日本で定着する背景にはそんな事情もあった。中国全土が一つの政権下に治まるのは蔣介石による“統一”を待たなければならなかった。
つまり「支那」という呼称が差別的だったのではなく、日本人の意識が差別的になったのである。そのころ日本人が「中国」と呼んでいたら、「中国」という表現も「ヘイ・チャイナ」と同様に差別語になっていたかもしれない。
そんな問題意識が長いことあって、この一〇年、中国人に出会う度に「あなたたちは自分の国をいつから中国と呼ぶようになったのか」ということを聞いてきた。多くは「何をいまさら」というような表情をする。私はこう言って畳み掛けた。
「明治時代、日本は清国と呼んだ。清国大使館があり、多くの清国留学生が日本にやってきた。会社名にも日清という文字がよく使われ、今もいくつか残っている。明治の人たちは中国という表現すら知らなかったはずです」
そう言うと「なるほど」という顔をするのだが、肝心の「いつから」という疑問に答えてくれた人はまだ現れてこない。中国人自身、「支那」を嫌がるわりに「中国」の出現についてはあまり関心がないらしい。
さて「中国」である。一八四二年、阿片戦争後の南京条約で漢文の「中国」が使われた事例が最初であるとの説もあるが、一般的に使われたふしはない。筆者は、「中国」の使用は日本から多くの新語彙を導入したとされる梁啓超に始まるのではないかと勝手に想像している。
梁啓超は康有為とともに清朝の変法運動を起こしたが、改革に失敗して日本に亡命した。その梁啓超が東亜同文会の機関誌「東亜時論」第一号(一八九八年一二月)に寄せた「論支那政変後之関係」と題したエッセー(漢文)では自国を「支那」と呼んでいたのに、その第二号では「日中国十八省」など「中国」という表現が使われている。第三号でも、第四号でも「中国」が登場する。
しかし、宋教仁が自ら発行した機関誌に「二十世紀之支那」と題字したり、孫文が宮崎滔天の『三十三年の夢』の前文に「憫支那削弱」と書くなど革命家らの多くも当時の中国のことを「支那」と書いたぐらいだから、梁啓超の「中国」が多く人口に膾炙されていたとはいえなさそうだ。
辛亥革命後に成立した中華民国以降は「民国」という略称が多用された。国民党には「中国」がついていなかったから、革命後に直ちに「中国」と呼ばれたのか不明である。
「中国」が公式に使われ始めたのは、孫文が一九一八年に再起を期して結成した「中国国民党」ではないかと想像している。初期の国民党とは違う組織であることを意識して「中国」が頭につけられた。次は一九二一年の「中国共産党」である。日本では「日本共産党」が誕生したように、モスクワからの指令で各国に設立されたそれぞれの共産党に「国名」が付記されたものである。
この時期になると中国人で「支那」を使用する人はほとんどいなくなり、急速に「中国」という表現に置き換わっていく。新文化運動・白話文運動など知識人の中に起きた啓蒙運動を通じて民族としての「中国」が自覚されていったのではないかと考えざるを得ない。
ちなみに日本政府が正式に「中華民国」の呼称を用いるようになったのは一九三〇年一〇月の閣議決定以降のこととなる。日本が関税協定の条文中に「支那」を使用したことに対して同年五月、中華民国政府が「無礼ノ 字句ヲ使用」「国家ヲ辱シメ」などと批判したためである。それでも「支那」がなくなったわけではない。漢字という共通文化を持つがゆえの軋轢はまだ続いているのである。(共同通信社 伴 武澄)