東亜同文書書院と内山書店

 東亜同文書書院が、目薬から生まれたといえば驚く向きもあろうと思う。魯迅ら中国の新時代を築いた進歩的知識人のサロンとなった上海の内山書店もまた目薬なくして生まれなかった。戦前の日中交流史に欠かせない二つの拠点が目薬が奇縁となって生まれたことは興味深い。
 まずは、100年以上も前の東アジアの気候風土に立ち戻らなくてはならない。多くの風土病があり、伝染病も予防すらし得なかった時代、多くの人が患ったのが眼病だった。埃っぽいだけでない、竈の煤が原因だったという説もある。その眼病に西洋人がもたらした目薬が効果てきめんだった。その処方をいち早く学んだ日本はある意味で目薬の製造拠点となった。
 その先駆けは岸田吟香だった。岡山・美作の豪農の出身で、日本のジャーナリストの草分けの一人として知られるが、一方で「精錡水」という目薬を売り出した実業家でもあった。1877年、銀座に楽善堂という薬局を開店し大いに繁盛し、1880年には上海そして漢口にも支店を設けて大陸に販路を広げた。起業三年で大陸に乗り出す経営感覚は並大抵でない。楽善堂には荒尾精ら大陸に関心を持つ人々が集まり始め、楽善堂の支店からは貴重な中国の生の情報が陸続と入り、アジア情報の拠点となる。
 一方、岸田は長岡護美、曽根俊虎らが1880年に組織した興亜会(亜細亜会)を全面支援した。興亜会は後に東亜同文会に発展的に吸収される。長尾は熊本の細川斉護の六男で外交官となり、後の子爵・貴族院議員である。曽根は米沢藩士の家に生まれ海軍士官となり、日清の相互理解を深めるために1880年、東京に中国語学校を開設した。
 荒尾は尾張藩士・荒尾義済の長男。陸軍から情報収集のため大陸に赴任し、中国貿易の実務者を養成する日清貿易研究所を1890年、上海に設立した。日清貿易研究所は陸軍の資金も入っていたが、日常の経費は楽善堂上海支店の売り上げによって賄われていたといわれ、岸田がいわばアジア主義者たちのパトロンとなっていたといってもいいのかもしれない。
 日清貿易研究所は日清戦争を機に閉鎖されるが、実質的に組織を運営していた根津一は東亜同文会を設立した近衛篤麿に請われて上海の東亜同文書院の初代院長に就任する。1901年のことである。
 楽善堂の支店はその後も天津、北京、重慶、長沙などへと拡大し、「精錡水」の名は大陸にとどろくことになる。この時期になると楽善堂は単なる薬売りではなくなっている。
 そもそも岸田を目薬につなげたのは横浜の米人医師へボン博士だった。ヘボン式ローマ字で有名なヘボン博士は日本初の和英辞典『和英語林集成』を編纂するにあたり、目を患って江戸から横浜に来ていた岸田に期待した。岸田はヘボン博士の元で目の治療をしながら英語力を吸収していた。江戸末期の日本には印刷技術が未熟だったため、ヘボン博士は岸田を上海に連れて行き『和英語林集成』は当地で印刷された。
 ちなみにヘボンは正式にはヘップバーンだったが、横浜の漁民たちが発音できずに「ヘボン博士」と呼び、しまいに本人も日本名を「ヘボン」で通すようになった。
 和英辞典編纂のお礼にヘボン博士が岸田に授けたのが硫酸亜鉛水溶液の点眼剤だった。
 面白いのは上海に書店兼サロンを経営して中国の進歩的知識人たちを支援した内山完造が中国に赴く契機となったのも同じ目薬だったことである。
 内山は岡山県の生まれで、京都で丁稚奉公をしていた時、京都教会で後に同志社総長になる牧野虎次と出会いキリスト教に入信する。そして19131年、牧野の推薦で大阪の大学目薬店参天堂の上海駐在のセールスマンとなり、漢口、九江、南昌など各地で目薬を売りながら中国人との人脈を深めていく。中国行きが決まったとき内山は「肉の躍るのを感じた」と後に述懐している。よほど中国への憧れが強かったのだろう。
 内山は上海に拠点をおきながら、商売で家にいることがほどんどなかった。書店を開いたのは結婚した妻が暇をもてあましていたからだった。初めはキリスト教関係の書籍を扱っていたが、客の求めで一般書も置くようになり、数年のうちに上海で一番繁盛する書店に発展した。
 内山書店の開店は1917年とされる。中国で胡適らによる白話運動が盛んとなり、内山にとっての幸運は上海がその文芸復興運動の一大拠点となったことである。
 日露戦争後、中国人留学生が大挙して日本を目指したが、第一次大戦中、日本が袁世凱政権に対中二十一カ条要求を突きつけたことにより、多くの留学生が失望し、帰国して上海に拠点を移す人も少なくなかった。
 当時、日本語に翻訳された欧米の文芸書や学術書は中国人にとっても貴重な知識源となっていた。内山書店には在留邦人だけでなく中国人インテリのたまり場になったのは自然の成り行きだった。
 内山は参天堂への恩義もあり、書店が繁盛してからも1929年まで大学目薬を売り続けたそうだ。たかが目薬ではあるが、点眼器に入った日本の目薬は瞬く間に中国人にとって家庭の常備薬の一つになった。中国人の衛生向上につながっただけでない、小さくて軽量でありながら付加価値の高い商品だったのである。
 荒尾らは目薬を売りながら大陸情勢の収集に努めたが、岸田に眼病がなかったら、ヘボン博士と出会うこともなく、「精錡水」は生まれていない。日中の心の交流史を築いた内山の場合もキリスト教への入信がなかったら、参天堂の社員になって上海に赴くことはなかったはずである。歴史は必然ではなく、偶然の賜物なのかもしれないと考えれば興味が尽きない。