昨年、中国建国60年を記念して制作された映画「建国大業」を見る機会があった。冒頭に毛沢東と蔣介石が重慶で会する場面がある。1945年9月のことである。戦後の中国の経営を話し合うためなのだが、二人が孫文の遺影の前で記者会見し、「お互い孫文の教え子」と語らせるのだ。
 8月、上海万博で梅屋庄吉の孫にあたる松本楼の小坂文乃さんによって「梅屋庄吉と孫文展」も開催された。2011年の辛亥革命100年を前に孫文の再評価はすでに始まっている。中国共産党にとっても国民党にとっても国父であることに違いはない。というより孫文を介することで中国と台湾の融和が進む。そんな予感がある。
 中国革命に登場する日本人は多い。梅屋庄吉と孫文の関係はアジア近代史の中の秘史に属する。胡錦濤総書記が昨年来日した折り、福田康夫元首相が日比谷の松本楼で夕食会を開いたことで二人の関係を知った人も少なくないはずだ。
 二人は1895年に香港で出合い意気投合する。孫文はその前の年にハワイで興中会を立ち上げたばかりの見習い医者。庄吉は孫文が最初に出合った日本人で、香港で写真館を経営していた。後にシンガポールで映画と出会い、帰国して日活を設立するメンバーの一人となる。最初の出会いで庄吉は「君は兵を挙げよ、我は財をもって支援する」と語り生涯にわたって事業で得た資金を惜しげもなく中国革命に投入した。
 胡総書記が庄吉と孫文の契りをどこまで知っていたか知らないが、100年以上も前の日中間の底に流れていた熱い関係をたぶん感じ取ったはずだ。松本楼では「世世友好」と揮毫した。
 話は転じて一昨年前の4月、文京区の白山神社を訪ねたことがある。白旗桜という珍しい名の桜があると知り、満開のときにぜひとも自分の目で確かめたいと思った。白旗桜は白い花弁のオオシマザクラだった。
 源氏の棟梁、義家が奥州に向かう途上、白山神社の前で桜木を見つけ、源氏の白旗をたてかけて、この地から岩清水八幡宮に戦勝を祈願した。そんな伝説から神社前の桜木を白旗桜と呼ぶようになったという。
 そんな感慨にふけっている最中、片隅にある石碑に目がとまった。「孫文」とある。なぜこんなところに孫文の碑があるのかいかぶった。碑文を読むと面白い。
「1910年5月中旬の一夜、孫文は宮崎滔天とともに境内の石に腰掛けながら中国の将来、その経綸について幾多の抱負を語り合った。そのとき、夜空に光芒を放つ一條の流星を見て、この時、祖国の革命に心に誓った」
 宮崎滔天は中国で最も知られる革命支援者の一人である。宮崎滔天全集の中に、当時、孫文は白山神社に近い小石川原町の滔天宅に寄寓していたと書かれている。孫文が滔天と知り合ったのは1897年のことだから、すでにこの二人も肝胆合い照らす仲だった。中国語にも翻訳されている『三十三年の夢』には孫文との出会いから始まりともに行動した日々の思い出がつづられている。
 孫文が白山神社を訪れたのは辛亥革命の前年である。孫文は1905年、自らの興中会と黄興の華興会、蔡元培の光復会を糾合して東京で中華革命同盟会を結成、1907年からシンガポールに拠点を移して革命資金の調達のため世界を回っていた。この年の5月、ハレー彗星が地球に最も近づいた時期である。流星に願を懸けるのは中国でも同じだ。義家の故事にならって革命の日の到来を祈願したのだろう。
 日清戦争で日本は中国から台湾を割譲させた。にもかかわらず当時の中国の知識人たちは反日ではなかった。当時、中国には二つの支配があった。250年に及ぶ満州族による統治の上に、西洋列強が相次いで中国の経済的支配を構築しつつあった。日露戦争で日本がロシアに勝利すると一気に日本留学ブームが訪れた。1万人を越す留学生が集まり、日本語に翻訳された西洋の新知識をむさぼるように吸収しようとした。早稲田大学は1000人内外の中国人留学生を抱え、早稲田鶴巻町は著名な中国人人士の集積地と化した。
 日本側にも中国とのつながりに活路を見出す人々が多くいた。政府は脱亜入欧の道をばく進していたが、日中提携を掲げる論者も少なくなかった。中国で起きている事柄は明日の日本にも及ぶと考え、日中提携して西洋とあたらなければならないと考えていた。頭山満や犬養毅らもまた中国革命に大いなる関心を持っていた。
 1890年、東亜同文会(1898年設立)の前身となる日清貿易研究所は荒尾精らによって上海に誕生していた。荒尾は96年に急逝するが、その意思を継いだのが、宮崎滔天や津軽の山田良政らだった。
 良政は、ジャーナリスト陸羯南の愛弟子。陸の意向に従い北海道昆布会社の上海支店勤務となり中国との関わりがスタート。1898年に東京で孫文と出会い、中国革命への協力を約束する。孫文が指揮した1900年の恵州起義に参戦して日本人初の殉教者となった。良政の中国革命との関わりはたった2年だったが、中国人たちに壮絶な印象を残した。
 良政の死後、孫文は書を残し、弘前の山田家菩提寺貞昌寺に山田良政の碑が建てられた時、「山田良政君…嗚呼人道之犠牲、興亜之先覚也、身雖殞滅、而志不朽矣」と刻印された。
 孫文は東亜同文書院の学生だった良政の弟、純三郎を重用した。純三郎もまた側近の一人として革命に身を捧げ、孫文が北京で息を引き取った際、妻宋慶齢らとともに立ち会っており、山田兄弟は中国革命烈士として畏敬の念で見られている。
 庄吉や滔天、良政の存在は日本の中国侵略史の中で埋没している。しかし、辛亥革命をともに生きた日本人が少なからずいたこともまた歴然とした史実である。中国の経済的台頭によって脅威論ばかりが語られる。岡倉天心が『東洋の理想』の中で「アジアは一つ」と書いたのは1903年のことである。いろいろなアジアがある中で「一つ」でありたいという願望や意思を語ったのである。東アジア共同体が語られる今日、日本でも今一度、同じ目線で辛亥革命の歴史的意義について考えたい。(伴 武澄)