血に染まった選挙 夜学会309
佐川町斗賀野の白倉神社に野地騒動と題した絵馬が奉納されている。絵馬には、明治25年1月29日早朝、自由党斗賀野支部を国民派(政府よりの政党)が警察官とともに襲撃した状況を生々しく描いている。双方数百人の人が対峙、塹壕まで掘られている。多数の警官は抜刀、国民派は長刀を振りかざして攻撃している。まるで「合戦」だ。自由党の西田楠吉は敵に包囲され、40カ所余りの傷を負い、他の党員2人はその場で即死した。絵馬は西田の全快を祝って奉納された。
第一回帝国議会の総選挙は明治23年7月に行われ、300人の定員のうち立憲自由党が130人、立憲改進党が41人当選し、民権派が大勝したが、政府予算案が反対され、翌明治24年12月、首相の松方正義は衆議院を解散。これを受けて第2回総選挙が実施された。その選挙で、民権派は政府による大規模な選挙妨害を受けた。政府は警察を動員しただけでなく、各地の暴力団を動員した。全国で死者25人、重傷者388人を出した。中でも高知県での妨害は凄まじく、民権派は死者7人、負傷者25人、破壊された家屋は90戸。第一回総選挙で当選した片岡健吉、林有三は「落選」した。
片岡健吉はあまりのひどさに憤慨し、松方首相に長文の警告書を送った。「警察部長、保安課長等の人々は東西選挙区を奔走し、各警察署長巡査は日夜、管轄内の選挙者(有権者)の家に就いて、其の候補者と定むる人に投票を勧告(略)警察官は市井の無頼者、即ち平生以て凶漢徒視する者を募り、之を其の爪牙として政党運動の魁(さきがけ)たらしむ(略)投票を強ひ、少しく否む色あるものは暴力脅迫し、此の兇徒は只だ大路を横行するのみならず、各選挙人の家に就いて脅迫す」
同時に、国民派の当選無効を大阪控訴院の訴えた。控訴院は証拠不十分としたが、明治26年4月、大審院は不正選挙を認め、片岡らは「当選」することになった。
白倉神社の氏子総代の石本さんに説明してもらったが、「今日の選挙は、血をもって戦った先人たちのお陰なのに、最近の投票率はとんでもなく低い」と嘆いていた。野地騒動絵馬はそんな民権派の壮図を歴史に残す証拠となっている。