15日朝刊に報道されていた「敗戦」 夜学会294
8月15日。終戦の日。78年前の今日正午、玉音放送を持って国民は終戦を知ったことになっているが、実は違う。8月15日、新聞各紙の朝刊はすでに天皇の詔書全文を掲載していた。ポツダム宣言の受託は前日の御前会議で決定されたもので、詔書の末尾には昭和20年8月14日の日付と天皇の御璽と各国務大臣の副署がなされたことが記されている。戦争のさなかで、新聞各紙がどのていど各家庭に配達されたか知らないが、かなり多くの国民は玉音放送を前に「敗戦」を知らされていたはずだ。
終戦当日、朝刊を配った社と昼まで配らなかった社に分かれたそうで、終戦を伝える「号外」を出した社が9社あった。『新岩手日報』『山形新聞』『静岡新聞』『京都新聞』『防長新聞』『愛媛新聞』『高知新聞』『毎日新聞』西部本社『大分合同新聞』。(小林宗之氏「戦争と号外」から)
天皇は「時局の収拾」のために「政府に四国に対して宣言(ポツダム宣言)の受託」させたと宣言した。新聞各紙は「戦争の終局」あるいは「戦争の終結」と書いたが、そこに「敗戦」の文字はない。
朕(ちん)、深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なるなんじ臣民に告ぐ。
朕は帝国政府をして米英支蘇(べいえいしそ)四国(しこく)に対し、その共同宣言を受諾する旨(むね)通告せしめたり。
そもそも帝国臣民の康寧(こうねい)を図り、万邦共栄の楽(たのしみ)をともにするは、皇祖皇宗(こうそこうそう)の遺範(いはん)にして朕の拳々(けんけん)おかざるところ。さきに米英二国に宣戦せるゆえんもまた、実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾(しょき)するに出で、他国の主権を排し領土を侵すがごときは、もとより朕が志にあらず。
しかるに交戦すでに四歳(しさい)を閲(けみ)し、朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、おのおの最善を尽くせるにかかわらず、戦局必ずしも好転せず、世界の大勢また我に利あらず。しかのみならず敵は新たに残虐なる爆弾を使用してしきりに無辜(むこ)を殺傷し、惨害の及ぶところ真(しん)にはかるべからざるに至る。しかもなお交戦を継続せんか、ついにわが民族の滅亡を招来するのみならず、ひいて人類の文明をも破却(はきゃく)すべし。
かくのごとくは朕、何をもってか億兆の赤子を保(ほ)し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。これ朕が帝国政府をして共同宣言に応じせしむるに至れるゆえんなり。
朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し遺憾の意を表せざるを得ず。
帝国臣民にして戦陣に死し、職域に殉じ、非命にたおれたる者および、その遺族に思いを致せば、五内(ごだい)ために裂く。かつ戦傷を負ひ、災禍をこうむり、家業を失いたる者の厚生に至りては朕の深く軫念(しんねん)するところなり。
おもうに今後、帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず。なんじ臣民の衷情(ちゅうじょう)も朕よくこれを知る。しかれども朕は時運のおもむくところ、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す。
朕はここに国体を護持し得て、忠良なるなんじ臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんい)し、常になんじ臣民と共にあり。
もしそれ、情の激するところみだりに事端をしげくし、あるいは同胞排擠(はいせい)、互いに時局をみだり、ために大道を誤り、信義を世界に失ふがごときは朕最もこれを戒む。
よろしく挙国一家、子孫相(あい)伝え、かたく神州(しんしゅう)の不滅を信じ、任重くして道遠きをおもい、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操(しそう)をかたくし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし。
なんじ臣民それよく朕が意を体(たい)せよ。