植野克彦さん

 6月5日、高知市内で戦争を考える会があり、植野陶器店の植野克彦さんが少年時代の広島での原爆体験を語りました。ことし89歳の植野さんは戦後、広島を一切語ることなく過ごしてきました。80歳になってようやく重い口を開き始ました。ウクライナ戦争が始まり、人類の愚かさをとつとつと語ってくれました。以下、その聞き書きです。

 私は昭和8年、宇和島で生まれました。父が判事をしていて、大体2年で転勤していました。2歳で岡山に行き、小学校に入りました。1年の2学期に松山に転勤となり、3年の時、広島に住むことになりました。父は広島地裁から控訴院の判事になったので4年いました。私は中学校に入りました。その年の8月6日、原爆が投下され、被爆しました。私たちは大手町8丁目の官舎に住んでいましたが、投下されたのは大手町1丁目です。1キロぐらいしか離れていません。
 太平洋戦争が始まったのは昭和16年12月8日です。初めは勝ち戦でした。戦争が始まったことは分かっていましたが、感動したという記憶はありません。小学校の頃はまだ近くに駄菓子屋があって菓子が買えたのを記憶しています。配給のコメは1日、2合6勺でした。子ども7人で9人家族でしたので腹一ぱい食べたという記憶もありません。小学6年の時、雑炊食堂というのが開設され、父親と一緒に並びました。鍋を下げて並ぶと2人分の雑炊をくれますが、家族が多いので2回並ぶのです。
 母は妹2人と弟を連れて西条というところに疎開しました。父と私、そして長兄と姉とが広島にいたのです。原爆が落ちた時、長兄は学徒動員で郊外に働きに行っていました。当時、私の中学校では学校農園というものがあり、農作業をさせられていました。
昭和19年末から、日本はアメリカから焼夷弾の攻撃を受けていました。広島では類焼を防ぐため空き地(防火帯)をつくり、そこが農園になっていました。昭和20年7月ごろから、中学生のほとんどがこれに動員されていました。私が行っていた広島師範付属中学では、先生が「疎開」を考えました。農村が疲弊しているので農作業の手伝いも国策です。農村出動と称してお寺に泊めてもらって疎開していたのです。私は体調不良だったので残っていました。同期生15人が残って学校農園でカボチャを植えたり、ハチミツをとっていました。
 8月6日、学校から農園に向かう途中、私の後ろで炸裂しました。先頭にいた生徒に聞いたら、爆音が聞こえて、何かキラキラするものが落ちて来たと言います。私は目の前が真っ黄色になった記憶があります。次の瞬間、後ろから何かに押し倒されました。布団をかぶせられた上から叩かれているという感覚を覚えています。一瞬、気を失いました。意識が戻って目を開けるのが怖かったです。目を開けると真っ暗でした。手足は動かせました。路地を歩いていたので家屋が崩壊して、その下敷きになっていました。私は近くにあったガスタンクが爆発してのだと思いました。誰か助けてくれると思いましたが、音がしないのです。そして誰も来てくれない。自分は確かに生きていると感じ、「助けてくれ」と叫びました。聞こえたのは増本の声でした。「出るところはないか」という声のする方に這っていったら、隙間があった。増本ともう一人いました。
 さっきまで真夏の太陽が照っていたのに、あたりは真っ暗なのです。これはただごとではない。新型爆弾かもしれないと思いました。20人いた友だちのことは頭にありませんでした。生きているのは3人しかいませんでした。学校まで30分もかかって帰りました。そうしたら青空が見え始め、入道雲が沸き起こりました。それが原爆のキノコ雲だったのです。私たちはそのキノコ雲をしたから見たのです。
 学校へは生徒が1人2人と帰ってきましたが、あちこちから火の手が上がり始めました。火の手のない宇品港に逃げました。私は原爆の惨状はみていません。電車道は真っすぐに歩けました。2年生の石橋さんが引っ張ってくれました。県立病院の子です。県立病院はガラスは割れていましたが、その病院の通路に横たわりました。看護婦を連れてきてくれましたが、手当てをするすべはなかったようです。私はゲートルなしで通学していたので、ふくらはぎが完全にやられていて、シャツの破れだと思って触ったら背中の皮膚が剥げていたのです。「水がほしい」と言ったのです。当時はやけどに水は禁物だったのですが、私だけ大きなやかんから何杯も飲ませてくれました。たぶん、この子はもたない、末期の水と思って飲ませてくれたのでしょう。
 午後5時ごろになり、先輩たちは家に帰り始めました。自分も寂しいのでみんなと立ち上がりましたが、100メートルも行くと歩けなくなりました。道に倒れているところを2人の兵士に見つけられ、おぶってもらった。宇品の陸軍船舶隊に運び込まれました。そのあたりから記憶が定かでなくなりました。外に出て小便をした記憶と、雨が降り始めて気持ちがよかったことは覚えています。黒い雨だったのですね。その後、昏睡状態になりました。
 原爆の体験はこれがすべてです。意識を取り戻したのは17日昼でした。山口県大竹の小学校で意識を取り戻しました。軍医が「気が付いたか」と言いました。母親が疎開先の西条から広島市内に戻り、私を探しに大竹まで来てくれました。当時の私の背中にはうじ虫がわいていました。膿を吸い取ってくれる療法もあったそうです。
 大竹には四国銀行に支店があって、支店長が母親の縁続きの人で、その叔父の社宅に運ばれました。小学校の講堂よりはましな手当をしてもらいました。12月末には、母親が私を西条に連れて帰ってくれました。西条は寒くて冬は越せないということで、みんなで故郷に帰りました。あくる年、留年して城東中学1年に再入学し、高知での生活が始まりました。

 植野さんのとつとつとした口調は、ウクライナ戦争の話に移ると力を帯びます。「人類はなんて愚かなのか」「本当に政治家は何やってんだ」「戦争のことを知らない人が多すぎる。議会の先生方は当然みんな体験していない」「日本は平和だった。こんなにいい国はなかった」。(萬晩報主宰 伴武澄)