工科大漂流記
高知市はりまや橋商店街に「あー」という立ち飲み屋がある。
俺がある時、「あー」で飲んでいた時、隣に若い女性が飲んだくれで立っていた。
俺は聞いた。
「お前、名前なんちゅうのか」
「あおい」
「ちょっと待て、あおいといえば京都の葵じゃないか」
「そうです」
そんなことを話していた、
そもそも葵に興味を持ったのは「私、家賃を払えなくて車上生活しているんです」と言うたからなのだ。軽自動車のバンに布団や着替えを乗せて暮らしている。夜はそこらの駐車場に車を止めて寝る。風呂は銭湯、トイレは公衆トイレ、洗濯はコインランドリー。そもそも二十代の女がそんな生活をしていては危ないのに、本人は一向に気にしていない風情。
そんな時、横からちょっかいが入った。そのちょっかいを入れたご婦人は「そんなに困っているのならうちに空いてる部屋があるから、そこに泊まりや」。
「じゃ、電気代ぐらい払うてやるわ」というご婦人のアパートの住人も現れた。
ということで瞬時にあおいの住居が定まった。
「あー」という立ち飲み屋には何やら義侠心を持つ人々が集まっていた。
結果的にアパートの住人のその男はあおいの駐車場まで支払うはめに陥った。
ちなみに俺はあおいに折り畳みのオレンジ色の自転車を進呈した。
それ以降、週に二回は俺があおいに進呈したオレンジ色の自転車が「あー」の前に駐輪することになった。
俺は七十になるおじいさんであるから、あおいに性的興味を持つはずもない。
いやちょっとあったかもしれない。
あおいは工科大学の四年生というより、六年も大学に通っている女である。
その昔、モラトリアムという言葉がはやった。
大学を卒業したくない。就職したくない大学生に対して言われた社会現象だった。
俺はそのモラトリアムという言葉を思い出していた。
あおいはもちろん美人ではない。ただなんとなく、人の心をくすぐる雰囲気を持っていた。
「あー」の客はみんな、この「不幸そうな」あおいに関心を持った。助けてやろうという義侠心をもったことは確かだった。その場にいつも俺がいたから間違いない。
あおいは当時言っていた。
「九月には卒業します」
あおいは「あー」に現れたのは四月のころだったから、みんなは半年支援すればいいと感じていたはずだ。
実は十月になってもあおいは一向に卒業する気配を見せない。
問題はこの間に「あー」に通うようになった宿毛市のタイ養殖業の照夫君が「あー」に通うに担ったことだった。照夫君は何億円という年商を稼ぐ人物。毎月の飲み代が最低でも五十万円。そこらのキャバクラでは満足できなくなっていた。
「あー」という立ち飲み屋は不思議な店で老若男女が入り乱れてバカ話をしている。ママが客を客と思わないとんでもない人格者。そんなママを慕う客が集う場所なのだ。たまたま「あー」に立ち寄った照夫君はたちまち「あー」の常連になってしまった。
「あー」の常連と言えば、数えきれないほどいる。その昔、ナベさんという男がいた。はりまや町に住んでいる。気のいい男で俺のことを気に入ってくれたんで、俺もよく話をした。毎日来ていた。しかも昼から飲んでいる。仕事は知らなかったが、やがて「金貸し」をやっていることが分かった。気に入った女がいるとメシに誘い、また戻ってまた飲み続ける。
もう一人、ナカッチという山口県から出稼ぎに来ている男も常連。室戸の方で太陽光発電の仕事をしている。四十台なのにまだ独身。嫁を探しているが、高知の女はなかなかなびかない。「あー」の前のバンバンビガロというバーにも出入りしている。この男の短所は自分以外の人はみんなバカに見えることだ。確かに知識は持っているが世の中の天才や秀才からすればただの凡人であることすら理解していない。しょっちゅうカウンターに出入りしてママの手助けをしている。つまり「あー」を自分の店だと勘違いしているところが、かわいいといえば、かわいい。実は問題のあおいに関心を持っている。
まっちゃんもまたほとんど毎日、顔を出す。日曜日と水曜日はどうしても「出勤」しなければ、ママに怒られる。この二日は高知市のごみ出しの日なのだ。いつの間にか、ゴミ出し当番を命じられた。松山市から高知に転勤して単身生活が長い。