執筆者:伴 武澄【共同通信社経済部】

村田製作所は京都府長岡京市の本社を持つ隠れた優良企業である。セラミックスコンデンサーなど多くの電子部品で世界シェアを席巻している。長年、地道な製品開発と品質追求を重ねた結果「振り返ると世界中の競合部品メーカーが淘汰されていた」という。「うちの部品はブラックボックスだから、まねもできないし、コストも分からない」。村田の社員、誰もが自慢するノウハウである。

1980年代以降、日本企業が収益力を失う中で10%を超える売上高経常利益比率を上げ続けている。収益力の高さは、外国人株主の比率の高さが実証している。しかし、村田製作所に対する外国人株主の評価は業績だけにあるのではない。同社のファイナンスの姿勢にこそその神髄がある。

●世界に名を高めた”時価発行中止事件”●

日本中がバブルに酔いしれた1980年代後半、村田製作所の経営陣は市場からの資金調達を断固として拒否した。理由は明白だった。「株価が高すぎる。異常な水準で時価発行すれば後々、株主に迷惑がかかる」。多くの名門企業が「錬金術」に励んでいた時、村田はジッと我慢した。まもなくバブルが崩壊した。時価発行に応じた株主は株価暴落に天を仰ぎ、転換社債やワラント債を発行した企業はその後始末に苦しむことになる。多くの企業は「転換社債でただの資金を調達した」つもりだったが、ほどなく株式への転換がほとんど進んでいないことに気付く。ヤオハンは返済期限が来て”単なる社債”と化した転換社債の償還資金を持っていなかったため倒産した。

創世記のシンガポール市場で初の時価発行を実施した外国企業が村田製作所だった。いまでこそシンガポールはアジアの金融市場としての地位を勝ち得ているが、当時のシンガポールで起債するような先進国企業はなかった。村田の場合、国内での知名度の低さがアジアでの起債の道を開くことになる。日本では誰も村田の時価発行は応じなかった。

シンガポールでは村田の名を世界的に高める事件が待っていた。1974年夏、発行条件まで決まっていた時価発行を突然、中止した。前年のオイルショックで世界経済はじわじわ不況色を強めていた。「株主への損害を回避するため」というのが同社の言い分だった。結果的に同社は創業以来初めての赤字決算となる。翌々年から業績が回復、予定通り時価発行増資にこぎ着けたが、「時価発行増資の中止」という英断がその後、アジア市場での信頼を勝ち取り、世界の証券市場での地位を築いたという。その教訓がバブル時にも生かされた。

現在、村田製作所は、シンガポールはじめ、アジアで7カ所、欧米に4カ所、計11カ所に海外生産拠点を持つ。村田のモットーは「消費地での生産」である。単なる輸出企業でないところにグローバル経営がある。1997年3月期の連結売上高3306億円のうち海外比率は57%に上り、654億円の当期利益も半分以上を海外が稼ぎ出している。村田にとっての課題は、1994年から北京と江蘇省無錫市で相次いでスタートした中国オペレーション。「近い将来、連結ベースでの売り上げを10%にまで持っていく」考えだ。シンガポールに次ぐアジアでの第二の生産拠点に位置づけられている。

●日本企業はバブルの時にも配当しなかった●

筆者の大阪勤務が始まって10カ月になる。昨年5月の97年3月期決算と11月の9月中間決算をみてきて、関西には高い収益力を誇る中堅企業が意外に多いことが分かった。収益力のある企業はほとんど例外なく株主重視の経営をしている。配当金額が高い京セラと任天堂。一株利益が上場企業トップの400円を超えるキーエンス。村田製作所、堀場製作所、シマノ。まだまだ多くある。配当で株主還元していない企業は度重なる無償増資や株式分割といった手法で投資に対して報いている。

日本の株式市場が低迷をはじめて、すでに8年の年月が経過した。かつて香港証券取引所の幹部に取材した時の言葉が忘れられない。1993年の春だった。香港市場は前年の高値の半分近い水準に暴落していた。パッテン総督(当時)と中国との返還をめぐる緊張が高まったことが背景にあった。「香港もバブル崩壊ですか」と聞いたら「香港株式は企業業績に連動して配当も上がっている。株価のピーク時でも株価配当率は2%を超えていた。日本企業はバブルの時にちゃんと配当しなかった。その違いは大きい」ときっぱり語った。

1992年以降、日本の株式市場は公的資金を導入した。100円割れの銘柄が続出した昨年12月は、減税をしないと言っていた橋本政権が突如、2兆円減税を言い出し、30兆円の金融安定化策も打ち出した。株価を一時的に支えることはできるが長続きしないことは過去の株価策が示している。株価を維持するには究極的には「投資に対する価値」を上げるしかない。先進国企業で配当性向(利益の還元率)が20%とか30%と極端に低いのは日本だけである。