執筆者:八木 博【シリコンバレー在住】

幕末の頃の人々の国際社会の情報源は、長崎の出島でした。そこには、オランダ商館が置かれ、唯一の情報はそこから入って来ました。シーボルトや平賀源内などの科学技術や医学に対する知識の整理や、オランダ語の辞典の作成や書籍の翻訳など、限られた枠の中では、相当一生懸命行われていました。これは「江戸東京博物館」で話を聞き、その証拠の品物を展示品で確認した事ですが、以下のような事がわかりました。
●米国と日本は1799年にはすでに貿易をしていた。

オランダは、1795年にフランスに滅ぼされ、日本との貿易権はオランダから米国に譲られました。米国のボストンの北のセーラムという港から、貿易のために長崎の出島に来ました。それが、1799年のフランクリン号でした。これが、米国との交易の初めで、当時の日本から送られたものは、今でも、セーラムの博物館に残っているそうです。
江戸東京博物館の特別展示「日米交流のあけぼの」という展示会で、展示されています。特別展は1999/12/12まで開かれています。
これは、あのペリーが来た時の50年以上前の話です。そのすぐ後にも何隻かの米国船が来ています。当時のチェストテーブルなど、設計図面と一帯で見つかったりして、感慨深いものもありました。漆塗りで象嵌細工のものが、人気があったようです。また、当時の日本人は、西洋のチルトテーブルなどであっても、すぐにその技術を取り込み、デザイン的にも良いものを作っていたようです。
また、日本ではすでに見られなくなってしまった、「生き人形」というマネキンの先駆的な作品も展示されていました。とてもリアルで、芝居小屋にこの様なものが立てかけられていた、と言う事を聞くと、日本の庶民の技術に捨て難いものを見出す事が出来ます。
●鯨取りと文化交流

米国、セーラムには東インド開運ホールと言うのがあり、そこには船長の溜まり場で、そこには日本への航海記録をすべて集めて、まとめて行ったそうです。その情報が、ペリーの日本への航海に役立てられたのは、言うまでもありません。
データを共有化するための仕組みと、お互いが顔を合わせながら、それらのデータを情報として一人一人に持たせられるのは、良い仕組みだと思いました。野中郁次郎氏の、暗黙知から形式知へというのが具体化されているように思いました。
当時の太平洋は、鯨取りのメッカで、日本も米国も競って鯨を捕っていました。米国は工業製品の原料として、日本はそれ以外に食用にもしました。この中の日本人の一人がジョン万次郎でした。彼は土佐沖で遭難し、救われて米国へ行くわけです。しかもそこでしっかり英語を学び、航海用の本を訳したりして日本に帰ります。
その後は幕府の英語翻訳担当など、難しい仕事を見事にやってのけたのです。漁民の子供と言う事からすると、日常的な教育レベルは決して高くなかったはずなのに、航法の技術書まで、きっちり訳しています。日本人が、教育と言うところに力を入れていたから、万次郎のような人が、新しい境地で活躍できる素地があったと思えます。
●教育とは、考える手段を身につける事

教育の目的は、良い点数を取る事ではないと考えます。(唐突ですが)それは、日本人が何時の間にか、忘れてしまった事のような気がします。読み書き算盤、と言われる技術があれば、その後は自分で考え、学ぶ事が可能になります。基礎的な事柄は、そのレベルで十分だと言う事でしょうか。
そして、それ以上の難しい事は、お互いがデータを共有化し、それを必要に応じて個人が使いこなすと言う事になると思います。今回、幕末の頃の日本と米国の交易という今まで知らなかった事にも驚きましたが、その時代の人々は、それぞれに創意工夫しつつ、時代に対応していったと言う事がわかりました。変化の時代の今、学ぶ事が多い展示ではありました。

1999103 通巻第93号『日本的なものと西洋的なもの その6』から転載

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【萬晩報】オランダはフランス革命で領土を失い、1815年のウィーン会議まで20年もの間、フランス領となります。オランダはウィーン会議で立憲王国として復活しますが、ケープ植民地(現在の南アフリカ)を失います。この間の長崎貿易を担っていたのがアメリカだったのですな。ここでも日本歴史の書き換えが必要かと思います。(伴 武澄)