10年前の東欧でのコペルニクス的転回に思う
執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】
11月9日はベルリンの壁崩壊の10周年だった。ドイツでは10周年を記念したさまざまなイベントが催された。コール前首相、ブッシュ前大統領、ゴルバチョフ前大統領がベルリンの招待され、ドイツ統合の功労者たちのなつかしい顔がCNNの生中継を通じて世界に流された。
●ここにクレンツ氏がいないのは理解できない
ゴルバチョフ氏は演説で「東ドイツのクレンツ元書記長がこの晴れがましい席にいないのは理解できない」と短く批判した。当のクレンツ氏はその前の日、ライプチヒ連邦通常裁判所で「ベルリンの壁を越えようとした人に発砲命令をした」として有罪判決が下された。ベルリン地裁が下した懲役6年6月という有罪判決を支持し、控訴を棄却したのだった。
筆者もまた、ゴルバチョフ氏と同じ感慨を持ってテレビ中継をみていた。クレンツ氏は壁崩壊の直前に長期政権だったホーネッカー書記長の後を継ぎ、国境の開放に踏み切った。最大の論功は11月9日にベルリンの壁で起きたことを放置したことだったはずなのに、東ドイツ時代から続いていた国境地域での軍事警戒策まで問われては立つ瀬がない。そんな感慨を持った。
10年前、筆者は外務省詰め記者として、サミットなど経済問題を担当していた。当時、日本が抱えていた最大の政治課題は「日米構造協議」だった。貿易収支の不均衡に業を煮やしたアメリカが、日本の商慣行にまで入り込んで、構造改革を迫っていた。
取材を通じて、実は「これで日本もようやく変われる」という実感が伴う充実した日々を送っていた。だが、世界は冷戦の崩壊という世紀的課題に取り組んでいたのだった。世界との関わりを取材する外務省担当であっても、世界が変わる予兆すら感じさせていなかった。
●ワルシャワで市民を激励したブッシュ
その年の先進国首脳会議=サミットはパリのアルシュで7月行われた。アルシュ・サミットは「環境と経済成長」という課題に取り組んだ初めてのサミットでもあった。しかし、いま振り返ると、ソ連による欧米にとっては、ペロストロイカに続く東欧の改革をどのように進めるかが最大の課題だったのだ。
驚いたのサミット直前にアメリカのブッシュ大統領がワルシャワとブダペストを訪問したことだった。ワルシャワでのブッシュ演説は感動的だった。「ここ東欧でコペルニクス的転回が起きている」と宣言したのだった。まさにぴったりの表現だった。
コペルニクスはポーランド人だった。当時、天動説が支配するカトリック世界に敢然と立ち向かった。社会主義という天動説の世界でようやく自由主義経済を語れる風が吹き始めていたはずだ。
当時のワルシャワ駐在の日本人記者も「連帯」のワレサ書記長の動向には気を配っていたが、ペレストロイカが東欧にも及ぶことやまして東西ドイツが統合することなどは眼中になかったはずだ。突然やってきたブッシュ演説の意味合いを理解するまで時間がかかったのではないかと推測している。
そのちょっと前に同じ外務省詰めの政治部の先輩から「こんどのサミットはどうも東欧問題も議題になるようだ」と耳打ちされていた。当時の外務省の東欧課は、片隅のどちらかというと「窓際職場」だった。東欧問題が議題に浮上していることは承知していたが、「それがどうした」という風情だったように記憶している。
日本の外務省における情報収集というのはこの程度かと落胆した。東欧に関する情報を求めたのに対して、東欧に赴任する人々のために編纂した「東欧の暮らしと生活」といった内容のパンフレットしかなかったのだ。情報の蚊帳の外に置かれていたも同然である。
ことの始まりは、その年の5月にハンガリーがオーストリアとの国境は開放したことだった。観光客と偽った多くの東ドイツ市民が大挙してオーストリアとの国境を越えて西ドイツに渡ったのだった。ハンガリーが東ドイツ市民に対してオーストリアとの国境を開放した時点でドイツの東西の壁の意味はなくなっていたのだ。
その意味をもっと重く認識していたらと思うが、世紀の転換点でのマスコミの意識はその程度だったのだ。一方で、東欧側の市民はヨーロッパが打ち上げた衛星テレビ放送から流れる西側のニュースを貪るようにみていた。自らが生んだ技術によって、東側による報道管制の意味を失わせていたということも事後に知ることになる。
●西欧の復権と日本の退潮を分けた分水嶺
10年間を回顧して痛感するのは、この年が西欧社会の復権と経済大国日本の退潮を分ける分水嶺だったことである。もちろん1980年代にテイクオフしたアジア経済は97年の通貨危機まで繁栄を謳歌することになるが、2年後の湾岸戦争を契機に世界政治におけるアメリカの軍事的優位が復活し、西ヨーロッパもまた通貨統合へ向けて結束を固めた。
アジアでは西欧社会にとって脅威とも思われた日中蜜月時代が終焉を迎える。6月に起きた中国の天安門事件が引き金となり江沢民体制の確立とともに、中国指導部の視線は日本を越えて欧米に向けられることになる。
日本を中心に設立を目指していたアジア太平洋における地域経済構想は実現せず、アメリカとカナダを含めたAPEC(アジア太平洋経済閣僚会議=当時)として姿を変えた。日本の株価は1989年の12月に付けた3万9000円というピークを境に凋落の一途をたどり、バブル崩壊が始まるのである。