日蘭交流をめぐる携帯電話と王室事情
執筆者:安田 健【オランダ・フルースベーク】
今年オランダでは日蘭交流四百年の話題が盛んだった。東京圏ほどの0.16億の人口ゆえか。ほぼ8倍の人口1.25億の日本はその分、稀釈されるのではないか、と言う気がするが、五月の天皇・皇后ご夫婦の訪蘭前後のオランダは特に喧騒だった。
霜月になり、その賑やかさが引いていく。伝統織物紋様展や日本舞踊など最後の催し物もお開きになった。若い数カ国人からなるオランダのモダンダンスグループとベテラン5名の日本舞踏家の巡回公演、光と闇とリズム、老若と力の調和が感動をあつめながら、交流行事年の幕を閉じて行くようだ。
日本では長崎で「日蘭原爆展」が間もなくあると伝えられている。長崎原爆はその市民も、収容されていたオランダ人も、被爆者として同じ立場に立たせた。同じ視点から、人間として、原爆の恐ろしさを捕らえ、考えて行こう、と言う背景か。
ウィレム・アレクサンダーはオランニェ家の世継ぎ。彼の先祖が16世紀半ばに北フランスの”ミカン”名の領地をもらったのが由来だ。このみかん家はのち17世紀後半のオランダ共和国総督ウィレムに至るが、彼は名誉革命後のイギリスの国王になり、オレンジ公・ウイリアムとなる。北アイルランド紛争のオレンジ色の旗をなびかせて行進する風景はオレンジ公の対旧教戦争の勝利記念である。
このミカンことオランニェの伝統の名前を踏襲する皇太子は日蘭交流四百年行事の公務のため、日本を訪れた。この相手を務めたのは菊の天皇家の長子・徳仁皇太子である。菊とミカンの取り合わせだ。天皇と女王が親しいと言う意味で、彼等も共通の育ちと話題で気を許せる間柄であるとオランダで伝えられている。ある時、徳仁氏がウィレム氏にうらやましそうに漏らしたことがあると言う。それはオランダの同僚が日本の彼自身よりも目立って自由に意見表明できることだったとか…。別報道によると、オランダ皇太子の国際オリンピック委員会の委員就任、又は水のマネイジメントについてだった…と。和やかな挿話である。
ウィレムの父親プリンス・クラウスはしばしば名言を吐き、国民に人気がある人物。
「私に課せられたコアー・ビジネスは開会式のテープ切りである」と喝破したのは数年前だった。王ではなく親王である点で、やや自由の立場にあると思われ、事実インドネシアを挟む日蘭関係ときっぱり無関係で、妻である女王よりずっと威勢がいい。クラウス殿下と言う代わりに、クラウスと隣りの旦那を呼ぶような彼の人となりは、”女王になるべき生まれついた”女性と違うのは当然か。その違いが夫婦の妙だと、オランニェのファン組織の受けはいい。
プリンス・クラウスはドイツ貴族家出身の人で、オランニェ家へ婿入りした。三人の息子を持つ。長男は、女王三代のあとを襲うことになっている。王制主義者やオランニェ家ファンには待望の国王誕生だ。幸い現代は「余は生まれながらにして将軍」徳川家光の時代でも、戦前の陛下恐れ多かりし頃でも無い。
新世代のメリットを生かし、学生時代の初恋相手とわかれ、ニューヨークで見つけた二人目と交際中。彼女がアルゼンチン軍事独裁政権時代の閣僚の娘のため、国民と議会を二つに分ける議論が沸騰して、界隈のゴシップジャーナルの懐を暖めさせている。
未来の皇后の父親が大量殺戮の容認者。あるいはその疑いが大きい。この場合、人はどうするか。
二人の成人が自ら選ぶ結婚に父親の過去は無関係と言う割切り論から、非人間的行為に荷担した人物を国際法で訴訟し、国民の象徴である王の義父になる事態を避けると言うハードラインまで、様々ある。前者は無関心派を含め個人尊重派で、後者は王室主義者か頑強な人権擁護主義者かもしれない。
オランダのコック首相は、婚約が成立するかどうかも不明な時点で、議論は無意味、若い二人をそっとしておこう、と寛容を示している。オポチュニストは、何人かと共同生活を体験してから結婚する当世パターンを期待する。わずか2人では国王殿下の器量も知れている、と茶化すコメディアンもいる。コック首相のみならず、誰もが良き三人目を希望しているに違いない。
オランダがこの結婚を認めると言うことは独裁政権の悪行を認めると言うことだ、とアルゼンチン側の被害者・遺族の訴えや識者の意見が聞かれるなかで、オランダ宮内庁はオランダ化プログラムを彼女に実施中である、と言われる。母親ベアトリックスは既に彼女を宮殿や休暇先に呼び、”最期の審判”に備えているらしい。それは婚約の決定である。議会の承認も必要だ。内閣の政治判断とそれを受ける女王との全体的なパースペクティブ見通しに どれだけウィレム個人の尊重が計られるか。最終的には女王が鍵を握っていよう。息子の相手は母親が決めると言う世の習いもあるが、このマキシマ騒ぎは日蘭騒ぎをようやく背にする彼女の当面の”公務”になる。
日本のプリンスはこう言う愛のパートナーをもちうるだろうか? 持った場合、ではどう対応するだろうか。日蘭交流行事の間に、二人の将来の王が気さくに語った「うらやましい」話しはここにも通用しそうである。四つの島の人間からは大陸の西端の豆粒のような土地の皇太子が果敢に見える。それは、父親譲りの奔放な性格によるのかも知れない。あるいはオランニェ王室が属するカルバン新教から派生した一つの改革派の自由精神や、ニシンの塩付けばかりで体力をつけた黄金の世紀のしたたかな末裔のせいか。
「戦争で何が起こったか、それを見つめ、未来に生かそう」
これは長崎の行事でのウィレム挨拶のコンセプト。注意して聞くと、彼のいいたいことが分かる。第二次世界大戦を忘れて無視するのではなく、見なおして記録して、歴史体験として学ぶこと。分かりやすく言うと、日本旧軍隊が「東インド」収容所でオランダ人におかした過ちを、その継承政権(と国民・皇室)はキチンと認識し、謝罪をし、新たな平和関係を築こう、と言うもの。
彼の訪問と前後して、「インドネシア強制収容所展」が日本数カ所で消え入るようにほそぼそと巡回した。いかがわしい展示内容が一部あったとは言え、訪れた人々に率直に受け入れられた、とオランダの新聞。企画は言うまでもなく、オランダ側のイニシアティブで、未来の国王の挨拶のコンテンツに当たる。
ドイツ国内でナチ強制収容所巡回展を、例えばイスラエルが計画したらどうだろう。
人間性の尊厳がナチイズムを否定すると言う意味で、また戦中・戦無派(40~45代以上)のドイツ人は既に充分に真面目な材料や、頑なで徹底的ウィゼンタールのナチ捜索などで最早自らへの歴史教育の必要性を見とめないだろう。
20年以上前だったか、ドイツ人自身による”演出家ヒトラーのドキュメントフィルム”や、数年前のアメリカ人による「なんでもない普通の人がナチを支持した」と言う話題本に見られるように、告発・反省の大波小波が時々やってくる。些細になるが、ドイツを除いたヨーロッパの子供達・もと子供達の誰もがサウンド・オブ・ミュージックの映画とその楽しい歌の数々を知っている。そのミュージカルに話しが行くと、ドイツの現在の、例えば学生達の多くはキョトンと首を傾げるのに出会う。
米国50~60年代ジョン・ウェインからポール・アンカまで総スター出演のノルマンディー上陸ものや対独スパイストーリーなど、膨大なエンターテイメント映画。ドイツの年輩の人々はこの”不愉快”を子供達に見せるのをやはり避けてきたのではないか。そして外へは何も言わずそっと過ごしてきたと言う戦後の歩みがある。つまり、巡回展があったらどうだろう、と言う仮定すら成立しない。
ドイツ状況に較べると、「東インド」オランダ人収容所に関する日本事情はかなり違う。この20年ほどで旧日本軍の知られていない部分がすこしづつ出てきたが、勢いがついたのは90年代だろう。外務省・日本大使館の解決への作業、事実の記録化や被害者の日本招待などの積み上げによる。しかしオランダ一般から見ると、何ともまどろこしい。そこで長身の皇太子が低音を響かせ、一言挨拶を述べたのだ。
彼の母親は十年一昔前、皇室主催のレショプションで数行ながら同趣旨の発言をした。それは右側日本をかなり刺激したエピソード。産経新聞の編集委員・高山正之氏がNRC(経済)新聞紙上、3月8日の投稿招待記事でこれを引用して、日本軍武装解除からインドネシア独立(1949)までの「東インド」日本側被害者とその国民の心を汲まないものだ、と批判。
記事は、日本の戦争動機を、欧州列国によるアジア・アフリカ差別政策や阿片利用と言う植民地主義に対する、アジア諸民族の解放だった、と説明。一方、蘭学で受けた恩恵や広く読まれている”オランダの”アンネ・フランクの貢献にふれ、オランダ国とその王室の”日本世直し”姿勢が公平を欠き独善的、今後の平和関係を損なうもの、したがってそれをやめるべきだと言う結論に導く。
その文意の間から、しかし、非常に慎重でかつ痛切な訴え気分が読者に伝わってくる。公務素材に良く目を通し勉強するといわれる女王がこの記事に目を留めたとすると、どうだろう。この恐れながらも敬意に満ちた批判にうなづき反省したか、それとも逆だったか。だが、彼女には反論も同調も許されていない。王の意見は宮殿のカーテンの向う側にとどまり、誰もしることができないのだ。
普通、お定まりの円やかな外交挨拶がメディアに取り上げられることはない。誰も関心を示さない。今回のウィレム皇太子の挨拶はそっくりメディアに取り上げられた。勇気ある内容と言うことだったに違いない。しかし実は、上記の記事よりずっと前からコック首相の来日までの間に練られた両国の外交方針、言いかえれば仲直り路線の枠内に収まった挨拶だったと言えよう。収容所展と対を成すのが、交流行事の残り火「長崎日蘭原爆展」だが、この文脈上で理解できる日本側のイニシアティブ。気丈な母親ベアトリックス女王の発言時に較べると、環境がさま変わりしているわけだ。変わりの一つは日蘭交流記念が通信革命・インターネット騒ぎの合従連合の戦国期元年になっている点だ。
左派系主力紙フォルクス・クラントにさえ、産経調馴染みの”大東亜共栄”アジア解放コンセプトに理解を示すかのような一行があった。「東インド補償問題は吉田政権時代の協定による賠償で決着済…」と古色蒼然とした前歴を引用した東京発の地方新聞の記事もあった。最大部数の大衆紙テレグラーフはこの10年の日本の努力を高く評価し、過去からの脱出を歌うありさまだ。30年前にこの新聞が打った天皇糾弾キャンペーンを思いだす…。3月8日NRCの”日本からの訴え”後はなぜか「東インド」関係団体に代わって東京のイーモード世相の全面記事が目立つようになった。
5月9日、日蘭両国の旧電信電話公社が提携協力を発表。NTTDoKoMoがKPN「カー・ペー・エヌ」携帯電話子会社株15%取得。オランダ国際企業による企業買収額の番付があるが、この投資額(5億ユーロー)をそこに探しても見つけるのは難しい。だが発表記者会場はさながら金メダリスト高橋選手の会見並みの熱気。そのトップニュースとしての入れ込みぶりは度を外しているように私には思えた。たっぷり資金と先進W-CDMA技術、それに市場実績を持つNTTとの肩組はオランダにとって天下の味方を得た気分だったのだろう。
二年前ICT分野で欧州一番を目指す政策宣言をした経済省は、11月入りしてPC使用促進費45億円を決め、厳しい成り行きを噛み締めながら、その未来像を固持している。0.16億の組織体にとって何が大事か?明日の国家を左右するのは通信情報技術をおいて他にない。
NTTdokomoは、数日前のCNNニュースによると、AT&Tからスピンオフするモービル部門に少数株主として出資するらしい。来年の米国次世代携帯電話の周波数域の入札に莫大な資金を必要とするAT&TワイアレスはKPNがそうであったように旦那が要るのだ。一方、どこにもすこしづつ布石を打っておくと言うのが世界の巨漢・NTTの作戦か。これによってNTT開発の携帯電話新規格を米欧に打ちこむ狙い。独占禁止の歯止め審査を逃れれば、ドンと一気に市場制覇する買収合併が多いので、NTTが慎重居士的に思われる。しかし横文字企業文化を制するノウハウに欠け、痛手を負った過去の例を考えると、それは小刻みで確かな前進策…。
主要国家の全ての”旧NTT”が食いつ食われつの苛烈な戦国時代。戦うには脂肪分を削り身軽にならねばならない。”旧公社”族の英仏独に続く末席のカ・ペー・エヌは新世代携帯電話周波数の三カ国の入札参加で既に天文学的な債務を負っている。数日前ハーグ本社を中心に8千人削減のリストラを発表した。米国でも携帯電話主導社会をみこした通信企業自体のリストラが矢継ぎ早に発表される。カ・ペー・エヌはオランニェ家御用達を意味するKを冠する以上、小と言えども、独立を維持して、出きれば寛容なパートナーを得たい。呑み込まれるような信用を裏切る相手ではいけない。(*企業名につくkoninklijk
は王家のご用をしている意味 )
だがそのKPNが5月9日の小躍り提携発表のわずか3日前に、スペインのテレフォニカとの合併交渉を失意を隠さずに打ちきっている。テレフォニカの今日をつくった人物のプレイボーイぶりが議会の怒りをかったためだ。低い土地の商いの民は日蘭交流祭りでNTTを呼び、かたわら香料貿易時代の敵スペインの携帯電話の巨人と話しを進めていたのだ。もし合併成立すれば、NTTに迫る企業になるはずだった。NTTがこれを読んで知らぬが仏を決め込んでいたのか、あるいは日蘭両者で合併後のシナリオを用意していたのか…。
天皇皇后の公式オランダ訪問はこれらの奇々怪々とほぼ並行した。90年代初め賠償訴訟を日本政府を相手に起こした関係団体の代表は、大歓迎を受けた外務省日本招待グループと共に、日本からの意外なメッセージ・天皇の「心の痛み」に感激して、既に鞘を収め、日本側主催の晩餐会に参列している。この団体幹部の”日和見”に承諾しない人々がこれまでのようにデモを組織した。幹部でも日本にも行かなかった匿名者は数の上で圧倒的多数だ。
だが、内閣の方針を内務省は見事な警備で実行。デモは夫妻通過ルートから最低150mの間隔を維持された。その数字は平和的プロテスト・卵投げの到達距離を30倍以上も上回る。数ヶ月以上かけた周到な外交のお膳立てを無駄にし、オランニェの二倍以上の時間をさかのぼる菊の血筋・天皇の真摯を汚す、その万が一を避けねばならなかった。
訪問は三日間の20時トップニュースだった。施設訪問のさわやかな皇后の様子を紹介する前後に、オランダ”NHK”・NOSが日本大使館前デモ取材中の日本取材陣の一人の女性カメラマンにインタビューする。
「美智子様はお優しいとっても素敵な方で、私達日本女性の理想の方なんですよ」その漢字仮名の言葉が簡潔に翻訳され、字幕になって現れる。その女性の活発な表情と呼応して、生き生きとしたニュースになっている。さすがにNOSはうまい扱いをする。オランダの人々はこれで皇室への敬意をとりなおし、30年間のゴタゴタを払拭し、日蘭五世紀めへ向かうだろう…。
同時に、王の国体上の地位を完全な象徴君主とする議論のさなか、この日本女性と皇后の親しいあり方についてきっと思うところがあった筈である。
オランダ王は最高国政会議の長である。日本に存在しないものだが、戦前の御前会議に当たるだろう。また組閣の際の相談役を指名する力をもつ。形式だとこだわらないのが日常だが、その形式制度で誰を指名するかによって、王は確実に政治力を行使している。決して公にされず秘密にとどまる王の政治への影響がDNAの理由だけで許されている、と言う非民主性が問われているのだ。この誰にも見えない、かつ干渉してはならない王権の性格が、トップマネイジャーであると評価される現ベアトリックス女王の公務の立場を微妙で難しくしている。
EU諸国がハイデルの自由党政権参加のオーストリアをボイコットしている最中、ベアトリックスが例年通りオーストリアへスキーバカンスに出かけた。オーストリアはこんなに平和で友好善意に満ちた国なんですよ、と言う映像が全欧を駆け巡り、オランニェ王室がオーストリアに結果的に利用された。オランダはナチに対する最も先鋭的なコモン・センスが根付いている国のひとつだ。内閣の不注意とする批判、女王自身の軽率とする批判、公的私的の使い分けからそもそも王室には”私的”は存在しないと言った議論が続いた。
この事件以外に女王の行動が政治的な色彩のなかでとり上げられることが増えてきている。本来、王と政治との間には責任大臣と最終的には首相によって、防壁が張られている筈だった。だがメディアの時代の現実の前ではどうしようもない。具体的に外交内容が変わったり、人事が左右されたりした状況証拠を検証したトップジャーナリストの本もでた。
それらが女王の指示あるいは示唆なのか、周囲が”腹を読んで”そうしたのか、”歴史になる”まで誰にも分からない。昔なら、粗相があれば総理閣僚が腹を切った。だが現在は、全てを夜のふけるまで討論しあう民主議会だから、辞職してそれでおしまいと言うわけにいかない。民主的に機能する社会が世襲と言う前時代的遺物を扱わねばならい難しさと言えよう。こうした状況下で、ついに与党三党の内の最小政党のリーダーのトム・グラーフが口火をきった。
「恐れ多くも私達の女王陛下に向かい、私達のために尽力される王としての義務を取り上げようとするとはなんと言うことか」と言う右の端から、王制を廃止して共に和す国家体制を主張するリパブリカンと呼ばれる左の端まで、政治オランダ風景は連綿と続く。女王自身のディレンマと困難を解決するのは制度改革をおいて他に無い。伝統を生かした象徴王権制への移行だ。だが、まず気楽に王室について話し合える土壌作りから初めなければならない。それをグラーフは思い知るのである。オランダにしてこうである、と思う人が沢山いるだろうか。
女王が人間性と個人の自由を発揮すればするほど、彼女の政治的影響力が、見えないままに、突出してくる。日本での皇室レセプションのエピソードは、当時のオランダ世論を代弁していたのはもちろんだが、オランニェ支持者である東インド関係団体の意を汲んだ結果と憶測される。このような特定外部からの力が彼女の”個人”に作用し、結果的に政治性を帯びてくる。
政治権を一切持たないスエデーン・日本の象徴君主性ではこの弊害を比較的避けやすいと言う。この理屈に従うと、皇室メンバーは個人としての自由を、オランダ王室メンバーより遥かに持っており、日本の象徴天皇制は世界の立憲君主国家の中で民主性を実現した数少ない一つである、と言うことになる。
果たしてそうなのか。それは交流記念にたづさわった人も、遠くから眺める人も、日蘭摩擦で立憲君主制が関与した部分から、明日を作る骨や肉を拾い出すだろう。
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