執筆者:成田 好三【萬版報通信員】

「政権選択」が最大の争点とされた今回の総選挙には、もう一つ見逃せない特徴があった。TV選挙になったことだ。各党の党首がこれほどテレビに露出したことは、以前にはなかった。党首たちはNHK、民放各キー局の報道、討論番組に次々と出演した。党首たちがそろって、あるいは個別に出演した。TVCMも格段に増えた。

総選挙は完全にTV主導の時代に入った。これからは、〝アーウー宰相〟や〝言語明瞭意味不明首相〟が誕生することはないだろう。政治は、政治家はTVを通して直接国民に語り掛ける時代になった。

政治家が新聞など活字メディアよりもTVを意識し、いやTVを重視して選挙や政治活動をする時代に、メディアはきちんと対応しているのだろうか。とてもそうとは思えない。TVはもはや時代遅れになった手法でニュース番組を制作し続けている。新聞記事のスタイルも、紙面の展開も時代の変化に対応してはいない。

前回のコラム「匿名性に隠れる日本の新聞記者」では、TVで中継される記者会見の現状について批判的に論じた。今回は、その後の問題について触れてみたい。TVならニュース、報道番組の制作手法について、新聞なら記事のスタイルや紙面構成についてである。

TV、新聞とも記者会見を断片的に、あるいは細切れに処理している。平日に毎日午前と午後、首相官邸で行われる内閣官房長官の記者会見を例に挙げる。TVニュースは主要な部分だけを切り取って流す。質問者の声が入ることはほとんどない。断片的に切り取られた官房長官の答えの、しかもさわりの部分だけがオンエアされる。

新聞も、記事の中に「答弁」を挟み込むようなスタイルで書く。記者と官房長官のやりとりを「一問一答」のスタイルで記事化することは、よほどの重要ニュース以外にはしない。記者会見は本来、「質問―答弁」が一体となって成立するものだ。だから、答弁の真意も一体の流れの中で把握すべきものである。

記者会見を断片的に扱う理由を問われれば、TVはニュースの時間枠を、新聞は紙面枠を挙げるだろう。ニュースの限られた時間内に質問まで入れる余裕はない。限られた紙面を無駄使いする訳には行かない。彼らは愚問に対応するかのようにそう答えるだろう。

しかし本当にそうだろうか。細切れに切り刻んだ報道スタイルは、読者や視聴者に記者会見の「真意」を伝える妨げになっているばかりか、メディア自体の首を締める事態に追い込んでいるとは考えないのだろうか。

福田康夫内閣官房長官は気に入らない質問をする記者に対して、あなたはどの新聞(TV)の記者か、といった慇懃無礼で実のところ恫喝的な問い掛けをする。東京都の石原慎太郎知事は恫喝そのものと言っていい言辞を記者会見で多用する。彼らに対しても、細切れではなく「質問―答弁」とが一体となった報道スタイルは有効だとは考えないのだろうか。

「質問―答弁」が一体となった報道スタイルを取れば、質問者と答弁者のどちらに「理」があり、どちらに「非」があるかは、読者や視聴者が自ら判断できる。メディア自体の自衛策としても有効な手法ではないか。

TVの時間枠がない、新聞の紙面枠がないという反論は詭弁である。TVは愚にもつかないバラエティー番組を毎日垂れ流している。大手新聞には、30ページ、いや40ページを超える紙面枠がある。読者、視聴者の利益にもなり、自らの自衛手段にもなる手法を何故取らないのか、まったく理解できない。

TVの効果を最も有効に利用する政治家は、小泉純一郎首相である。彼は狡猾で扇動者的な資質をもつ、戦後政治では例を見ない政治家である。「自民党をぶっ壊す」と宣言して首相に就任した彼は、TVを最も効果的に活用する。しかし彼は、今どきの高校生とまったく同じ「資質」をもった政治家でもある。

小泉首相は平日の午前と午後、首相官邸詰めの「番記者」の質問に答える。午前の質問に応じる彼は、不機嫌でボソボソと何を言っているか分からないほどの小さな声で答える。午後の質問には逆に、表情豊かには張りのある大きな声で答える。

その理由は簡単なことだ。午前の質問にはTVカメラは入らない。午後の質問ではTVカメラが彼の正面にあるからだ。TVを通して直接、茶の間に自分の声でメッセージを伝えられる午後の質問は、彼にとって極めて有効なパフォーマンスの場である。逆にTVカメラが入らない午前の答弁は、彼にとって義務的な行為にすぎない。

地方紙の現役記者からこんな話をよく聞く。夏の甲子園を目指す高校野球の都道府県予選で、各地方紙は総力戦で取材に当たる。運動担当だけでなく、行政、経済、司法、支局の担当記者も取材要員になる。彼らは異口同音にこう言う。高校球児たちは、TVカメラの入らない取材、インタビューではぞんざいなもの言いをする。近ごろの言葉なら〝ため口〟をつく。しかし、都道府県予選の決勝戦などTVカメラが入る取材では、彼らの態度は一変する。TVカメラの前では、彼らは「純真な高校球児」を演じきる。

TVカメラが入るか入らないかで、日本の最高権力者も地方の高校球児の態度も一変する。地方紙の若い記者たちが高校球児に値踏みされているように、日本のメディア界をリードすると自負する大手のTV、新聞社も、そこに属するエリートの政治記者たちも、実のところは政治家たちに値踏みされている。そうした実態を理解できないTVと新聞は、国民の大多数からそう遠くない未来において、見離されてしまうだろう。

もう一度書くが、記者会見を細切れにするTVニュースや新聞の記事、紙面展開は既に時代遅れになっている。日本のメディアも、時代に対応した新しいスタイル、ビジネスモデルを開発すべきではないか。(2003年11月21日記)

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