松阪にみる蒲生氏郷の楽市楽座
執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】
パソナの南部靖之さんから著書をいただいた。『人財開国』(財界研究所)と題した本で、日本に自由と夢が欠落していることを嘆き、「現代版楽市楽座」という発想で「国際レベルで手がける国際自由都市の建設」を提唱している。パソナは雇用という観点から起業し、今に到っているが、実は雇用のあり方こそが国家だとか地域の活気につながっているということを実感させる本なのである。
萬晩報もこの間、視点は違うが同趣旨のコラムを多く書いてきた。文明や文化は民族がぶつかり合うところに生まれた。経済の中心地もまた同じだ。ニューヨークやロンドンに共通しているのは多国籍であるということだ。
松阪を何度か訪れて、この町からどうして江戸で成功するような商人たちが多く生まれたか考えた。起源は蒲生氏郷にあるのだというのが、いまのところの中間的結論である。織田信長の伊勢攻めに参加した氏郷は鈴鹿を越えて松ケ崎を攻める。手柄としてもらったその地に城を築き松阪を命名し、楽市楽座を設けて商人たちを誘致した。
商人たちの多くは近江からやってきた。いわば商売の血をこの地に流し込んだというわけだ。遺伝子融合である。当時は「国」が違っていたのだから「多国籍」といえなくもない。
松阪には今も日野町という近江の地名を冠した町名が残っている。安土桃山時代のおもしろい点は、日本という国土の中で住む人間たちをリシャッフルしたということであろうか。戦乱によって勝ち取った新たな土地に為政者たちは勝手気ままに城をつくり、人を住まわせ、町をつくった。そしてその原理原則はレッセフェール=楽市楽座だったのである。
松阪の地名は氏郷が愛した蒲生郡の「若松の森」に由来する。ちなみに氏郷がその後、移った会津の地を会津若松と改称したのもこの「若松の森」から来るのだそうだ。氏郷は戦国の世にあって町づくりにすこぶる長けた人材だったはずだ。
近江商人と松阪商人の最大の違いは、近江商人が裸一貫で自ら荷を担い商いをしたのに対して、松阪商人は松阪の地にデーンと店舗を構えていたことである。資本の蓄積が違っていたのである。
松阪近郊の丹生という在所は奈良時代から水銀鉱山が営まれ、室町時代には白粉(おしろい)の原料となった。後醍醐天皇を支えた伊勢の国司、北畠親房はこの丹生を含む飯高郡を支配の中心にした。近在の人々は近世の商工業が確立するまでに水銀鉱山で富を蓄積していたのである。教科書ではまだ農民と武士が分化していない時代と習ったが、もう一つ商人とも分化していなかった時代といえよう。
一方で、この地は木綿の産地でもあった。伊勢湾でとれるイワシを肥料としたぜいたくな綿づくりもしていて、阿波から輸入した藍で染めた。いまでいえば製造業であるが、違いは農村に「工場」があった点だ。昨今の中国流にいえば「郷鎮企業」である。マニュファクチュアリングの前身ともいえる繊維産業がこの地に勃興していたともいえる。
綿花栽培から、製糸、染色、機織り、そして卸、小売り。松阪の人々のすごさは、そのすべてに関わったことである。資本と規制緩和が相俟って、商人層が生まれ、製造業はさらに活気づいたのだ。松阪木綿だとか伊勢木綿という今でいうブランドも早くから生まれた。当時、堺は遠く外国との出会いから活気づいたが、松阪の場合は国内の違う「国」の血が注ぎ込まれて新たな価値が生まれたと考えれば分かりやすい。
松阪の町は戦災に遭わなかったため、京都のように古い町並みを残している。江戸時代からの商家もいくつか残っている。現在、「松阪商人の家」として公開されている広大な町家は小津清左衛門の松阪の本店跡である。江戸の大伝馬町に日本最大の紙問屋と開き、別の店では木綿も取り扱った。明治期には小津銀行も設立し、コングロマリット化した。今でも小津グループは東京を中心に厳然としている。
その松阪商人の家に興味深い資料がひとつあった。江戸期の長者番付で、大相撲の番付表とそっくりのつくりになっていて、全国のお金持ちが掲載されていた。その横綱クラスの欄に十数人の富豪の名前が書いてあるのだが、そのうち4人までが松阪の人なのである。
当然、筆頭の東の正横綱は三井家、そして張出横綱クラスに小津家のほか、田畑屋と大和屋とがあった。
前回、三重県には短期間にIT産業の巨大な設備投資が相次いで立ち上がっているということを紹介したが、南部靖之さんがいうように果たして今の三重県に自由と夢があるかどうか。