ビッグ・リンカー達の宴2-最新日本政財界地図(13)
執筆者:園田 義明【萬晩報通信員】
■クエーカー人脈と新渡戸稲造
これまでに登場した人物をひとつにつなげてみたい。
まずボナー・F・フェラーズはクエーカーである。クエーカー派のアーラム大学で出会った渡辺ゆり(後に結婚して一色ゆり)も当然のことながらクエーカーの影響を受けている。
河井道の父方は伊勢神宮の神官を務める裕福な家柄だった。しかし、事業投資に失敗し、一家五人は伊勢神宮のおひざ元から、北海道函館へ渡った。河井はサラ・スミスが札幌に開いたミッション・スクール塾(二年後にスミス女学校、現在の北星学園女子中学・高校)の一期生として入塾し、ここでプロテスタントとして洗礼を受けている。河井はスミス女学校で8年を過ごしたが、5年生の時に出張授業に来た新渡戸稲造と出会い、これを機に新渡戸の河井に対する関与は終生続くことになる。この時、新渡戸は米国留学を終えて帰国し、母校である札幌農学校の教授を務めていたのである。新渡戸は毎週土曜の夜に河井を自宅に呼んで、英文でつける日記の口述筆記をさせた。この作業は河井の英語力を高めることになる。 札幌を離れた新渡戸は河井を札幌からよんで、東京に住む旧知の津田梅子(津田塾大学の設立者)に預けた。その後、新渡戸夫妻の勧めで、夫妻と一緒に米国へ渡り、河井はブリンマー大学で学ぶことになる。ブリンマー大学は津田も学んだところであり、津田自身が設立した「日本婦人米国奨学金」を受けての留学であった。河井は米国滞在中にアーラム大学を訪ねる機会があり、日本の女子学生受け入れのルートをつけて帰国した。その適用第一号が渡辺ゆりである。つまり、津田梅子、河井道、渡辺ゆりの三人はいずれも新渡戸と深く関係していたのである。
新渡戸の「武士道」は河井を連れて渡米した翌年の1899年に英文で出版されている。この「武士道」はフェラーズにも影響を与え、日本兵を知るためのテキストにもなった「日本兵の心理」でも武士道が分析されている。
関屋貞三郎は東京帝国大学法科大学を卒業後、高等文官試験に合格し、台湾総督府を振り出しに内務官僚の道を歩み、1921年に宮内次官となる。関屋も無教会主義の内村鑑三の弟子、塚本虎二から聖書を学んでいた。塚本虎二は新渡戸の門下生によって組織された「柏会」のメンバーであり、関屋貞三郎本人もクエーカーであった。
寺崎英成も後にクエーカーとなっており、フェラーズ自身も含めて、フェラーズ周辺にいた日本人すべてがクエーカーと関わりを持っていた。また、彼らのすべてが日本人最初のクエーカーである新渡戸稲造につながっていくのである。
■さらなる源流としてのモリス家 新渡戸稲造人脈の更なる源流を辿れば、野口英世も姿を現す。
新渡戸は札幌農学校時代に洗礼を受けたM・C・ハリスの夫人を頼って1884年に米国に渡り、夫人の出身校であるアレガニー大学(ペンシルベニア州ピッツバーグ)に入学するが、友人の佐藤昌介の勧めでジョンズ・ホプキンス大学(メリーランド州ボルチモア)に転じる。このジョンズ・ホプキンス大学の設立者であるジョンズ・ホプキンスもクエーカー教徒である。
ボルチモアでクエーカーに出会った新渡戸は日曜日になるとクエーカーの集会に出席、この時にフィラデルフィア郊外オーバーブルックのメアリ・H・モリスに出会う。メアリ・H・モリスの本名はメアリ・ハリス、クエーカーの集会で出会ったウィスター・モリスと結婚してメアリ・ハリス・モリスとなった。
メアリ・H・モリスは1883年に開かれたクエーカーの婦人部総会でヨーロッパ、エジプト、シリア、メキシコ、インドに続く新たな伝道先として日本が候補にあがっていたことから、日本の状況を知るために85年夏に新渡戸と内村を講師として招くことにする。
「講演料が貰える」との理由で張り切って出掛けた二人は日本の神道の思想や日本人の勤勉さ、実直さを紹介し、クエーカーとの共通点を強調する。また、女子教育が遅れていることにも言及し、女子大学設立の必要性も説いた。この二人の助言から教会側は直ちに代表者を日本に送り、87年に女子教育を目的とした日本における唯一のクエーカー派の学校として「普連土学園」が設立されたのである。
1871年に女子留学生としてわずか6歳にして岩倉使節団に同行した津田梅子は女学校卒業後いったん帰国するが、1889年には再びフィラデルフィア郊外の名門女子大学、ブリンマー大学に留学する。この時もメアリ・H・モリスはブリンマー大学の学長と交渉して授業料免除、寄宿料無料という好条件を引き出し、再渡米の道を拓いた。津田自身が設立し、後に河井道に適用された「日本婦人米国奨学金」や津田塾大学創立資金集めにもメアリ・H・モリスは多大な協力をしている。
こうしたことがきっかけとなって、モリス家では毎月の第一土曜日に日本人留学生を招いたクエーカーの集会が開かれるようになり、訪れた日本人を心暖かく迎えた。このモリス家での集会がまさに留学中の日本人が行き交う「グランド・セントラル・ステーション」になったのである。
ここに招かれた留学生は、新渡戸稲造、内村鑑三、津田梅子、そして新島襄(同志社大学設立者)など第一世代キリスト教人脈の中心人物の他に、後藤新平(満鉄初代総裁、逓信相、鉄道院総裁、内相)、佐伯理一郎(佐伯病院設立者、同志社病院院長、京都看病婦学校、京都産婆学校校長)、串田万蔵(三菱銀行会長)、林民雄(日本郵船専務)、伊丹次郎、和田義睦、馬場辰猪(土佐自由民権家)、大石正巳(土佐自由民権家、農商務大臣)などがいた。
そして、日本でキリスト教の洗礼を受けていた野口英世もこのモリス家をたびたび訪れていた。ただし、野口の場合はモリス家からは宗教的な影響はあまり受けておらず、日本人との出会いの場として安らぎを得ていたようだ。
今なお日本を代表する偉人として名を残す野口、新渡戸、内村、津田の4人がクエーカーのメアリ・H・モリスを通じて結ばれていたのである。
■クエーカーとララ物資
「われ太平洋の橋とならん」と生涯の決意をした新渡戸稲造が「この法案が修正されるまで、アメリカの土は踏まぬ」と言い放ったことがある。この法案とは1924年に成立した米国の移民法である。事実上、日本からの移民を阻止するための法律であることから「排日移民法」とも呼ばれた。日本の世論が反米に傾くきっかけになった法案である。この時にクエーカーが反日感情の拡がりに反対しただけではなく、援助の手をさしのべていたことはあまり知られていない。
そして敗戦後の日本にあって新渡戸と内村の助言によって設立された普連土学園の関係者が多大な尽力をしていたことを知る日本人も少ない。
敗戦後の日本は窮乏のどん底にあり、食べ物、衣服、医療品、その他の生活必需品も不足していた。そうした中で、敵国だったはずの米国から、民間の救援品を満載した船団が1946年11月30日、横浜港に到着する。クリスマスに間に合うようにと届けられたララ物資の第一便であった。以後このララ物資は52年の終結までに約200隻の輸送船によって太平洋を渡ることになる。
このララ(LARA)とは、米国の13のキリスト教界が超教派で組織した「アジア救援公認団体」の通称であり、クエーカーのアメリカ・フレンズ奉仕団もその一つとして配給にあたった。戦前から普連土学園で教鞭をとっていたエスター・B・ローズは配給のために日本全国を回りながら、救援品を集めるために故国へ日本の窮状を訴え続けたひとりである。
すでに前章で紹介した「裕仁とフーヴァー、非常に重要」文書の中にはこうあった。
「かつての敵のこうした高貴な態度は、見習うべき特質であると感じる。私の国民とともに、この尊敬すべき精神的価値を学び取り、我が民族の道義心を高めて救いを得たいと願う。」
これは、戦前、戦後のクエーカーへの感謝の気持ちと無縁ではないはずだ。
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