中越地震でだれもが感じるもどかしさ
執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】
10月3日、「体で災害を正しく怖がる難しさ」というコラムを書いた。三重県で起きた地震と水害の体験を書いたものだが、こうも次々と災害が日本列島を襲うとは思わなかった。同じコラムで「異常なことが起きるのを災害という」ということも書いた。
23日の日記には「午後6時前、新潟小千谷市周辺で震度6強の地震。車の中で地震のニュースに接し、帰宅後もずっとNHKニュースを見ていた。午後8時、2時間たってもほとんど被害の状況が分からない。被害が簡単に分からないほど被害が甚大になるだろうことは三重県を襲った台風21号などの被災で経験したばかりだ」と書いている。
その通りになっている。23日に起きた中越地震では初日4人だった死者は、今夜には32人にまで増えている。23日夜には山古志村が孤立していたことすら分からなかったのだ。
地震の翌日、長野県南相木村の医師、色平さんは仲間と新潟県厚生連・魚沼病院まで支援物資を届けた。ただちにそのメールが届いた。
「今しがた、新潟の震源地に建つ(新潟県厚生連・魚沼病院)迄、支援物資をトラックとワゴン車に分乗して、届けて帰って来ました。震源地は揺れ続けていて、帰った今でも、まるで船に揺られている感じです。外来の廊下にもベッド代わりの長椅子で毛布にくるまり、点滴を受けている人が溢れていました」
「予想もしない出来事に、病院スタッフもみんなパニックの中でひたすら動いているようでした。180人の入院患者さんの2食分の食事と缶詰や飲料水に加えて、3台の発電機も持参しました。停電で暗い外来に灯りが点き喜ばれました。ガスも止まっており、プロパンガスとコンロも持参しました。昨夜の今日で、いささか疲れました」
「それにしても割れてポッカリ穴の開いた道路を縫うように走るのは、不思議な体験でした。急遽の呼びかけながら、救急部・看護師・事務・栄養士・施設課・自動車部と小生、7人の迅速な決断と行動は心地良いものでした」
その後も次々と色平さんからメールが届いた。医師として被災地起こるだろう事態を心配したものだった。
「医療面では、一般論として、震災後2週間(余震の間)は心血管イベント(特に夜間発症の心筋梗塞、脳梗塞など)が増加します。その後は、尿路感染症、そして肺炎が多くなっていきます。対策としては、避難所の環境整備が必須です。
1)水分を多くとれるようにする、
2)マスクを配布する、そして何より、
3)夜間十分な睡眠・休息がとれるように配慮する、これが重要です。
長期的には、高血圧と糖尿病の患者さんで血圧と血糖のコントロールが乱れてきます。そしてワーファリン内服中の患者さんで、薬の効き具合のコントロールが悪化します。可能であれば、40歳以上では避難所で毎朝、早朝時の血圧を測定したらいいのですが・・・」
「報道されている『「ショック死』『疲労による死』って何やねん,視聴者に誤解を与えるような表現を使うな,と突っ込みを入れながらニュースを見ていますが,身体および精神の強いストレス下でストレスホルモンが亢進→凝固能亢進→心筋梗塞・肺梗塞・脳梗塞→死,という過程を経ているのだろうと思います。中にはインスリン,SU剤,ワーファリンのような生存に不可欠な薬剤が切れてしまい致命的になった方もおられるかも知れません」。
「車の中で亡くなった84歳男性は食事をしている最中にみるみるうちに意識レベルが低下し心肺停止になったというので,おそらく心筋梗塞→急性心不全か脳幹梗塞だったのではないでしょうか.ニュースを見ていて涙が出て来ました」
「2カ月児が余震を逃れるために自家用車のチャイルドシートに固定されたら、かえってその余震に揺さぶられて突然死したという報道です。あの子は頸髄損傷か頭蓋内出血または広範な脳挫傷だったのでしょうか。これも涙せずにはいられませんでした」。
だれもが中越地震で被災した方々にもどかしさを感じているのだろうと思うが、その2日前に日本列島を寸断した台風23号の被災地のことも忘れてほしくない。
1995年1月の阪神淡路大震災の時もそうだったが、天災は人の心をすさんだものにする。地下鉄サリン事件が起きたのはその2カ月後だったことを忘れてはならない。