リベリアのジョンからの便り
執筆者:中野 有【アメリカン大学客員教授】
リベリアの現実はあまりにも悲しい。1989年のクリスマスに象牙海岸の内陸部から、後の大統領、チャールズ・テーラーによるゲリラ戦の侵攻が始まり、7年半にわたる内乱が続いた。実にリベリア250万人の人口の3分の1が国外難民となり、国内外を併せると4分の3が難民になったのである。
その紛争前のリベリアに1987年の秋から2年間、国連工業開発機関(UNIDO)の中小企業育成のプロジェクトに従事し、内乱が勃発する2カ月前に契約を終え、ウイーンの本部に戻った。モンロビアからギニー、象牙海岸方面に250キロ入った奥地に駐在したが、偶然にもこのバンガという地が、反政府軍の拠点となったのである。
その後は、リベリアのニュースを傍観するだけで15年の月日が流れた。昨年の正月、京都の実家で、リベリアからの電話を受けた。深夜、雑音とともに「Mr.
Nakano,Liberia John」と懐かしい声が飛び込んできた。ジョンの声を聞くやいなや、15年前のリベリアのタイムスリップした。
「ジョン、生きていたのか」。ジョンも子供達もみんな内乱の犠牲になったと思いこんでいた。この15年ぶりのリベリアからの便りがきっかけでジョンとのメールの交信が始まった。今回のエッセイは、紛争を経験したリベリアの奥地のジョンや子供達の希望のみならず、リベリア副大統領、カンボジア副首相、そしてリベリアで活躍する日本人ボランティアの声を盛り込み、アフリカの奥地における開発援助のあり方を観察したく思う。
ワシントンのタクシードライバーは、アフリカ出身者が多い。彼等は口を揃えるように「昔のアフリカは良かった」という。70年代までのアフリカは、独立と発展のリズムに酔いしれる勢いがみなぎっていた。しかし、80年後半以降のアフリカは、紛争が発生し、エイズが蔓延し、発展の時計の針が逆方向に回っている。このアフリカの悲劇は、東西の冷戦の終焉も影響し、アフリカ人によるアフリカの声やアフリカの現地の現状を無視した世界の動きと決して無関係でない。
リベリアの声
当時、高校生であったジョンは、赴任した日からリベリアを去る日までの2年間、一緒に生活し、ハウスボーイとして家事一切を賄ってくれた。30歳の新婚早々の準専門家がアフリカの奥地でサバイブできたのは、ジョンのお陰であった。ペレ族出身のジョンは、ジャングルで口にする珍しい料理から、こちらの口に合うスパゲティーまで、色んな料理を作ってくれた。
電気、水道といった当たり前のインフラが整っていない生活にはアフリカのロマンがあった。大半が井戸水とジェネレーターに頼る生活であった。大地を床に夜空を天井とする、とまではいかなくても自然とシンクロナイズした、先進国と対極的なロマンティックな生活であった。
ローソクやランタンの光を照らし、アメリカの平和部隊、日本の青年海外協力隊、ヨーロッパのミッション系のボランティアとアフリカの理想を語り合ったし、土着の企業家(家具製造、鍛冶屋、養鶏、養豚、小売業等)を集め、パーティーも好奇心の趣くまま頻繁に行った。ノートや鉛筆が無縁の子供達が集まり、気がつけば妻が開設した寺子屋には、素直で真剣な眼差しで勉強する子供達で満ちあふれていた。妻が買い物に行くときには、子供の行列ができた。そんな子供達が、透き通った声でアフリカの奥地でしか聞けないような実に素晴らしい歌を披露してくれた。まざまざとその情景が蘇ってくる。すべてが新鮮でかつ平和なアフリカの奥地の日々であった。
特に「ちび黒サンボ」そっくりな5歳のブグメという男の子は、本当になついてくれた。いつのまにか、家の前に住んでいたブグメは、家族の一員のような存在となり大学までの進学を約束することとなった。15年の熟成を経てその約束が果たせることが嬉しい。
これがアフリカの思い出である。目に焼き付いているリベリアの情景は、ジャングルのグリーンと赤土と透き通る青空である。ジョンからの連絡では、それがすべて灰色のゴーストタウンのようになったというのである。ジョンやブグメは、紛争が始まった時に、運良くジャングルに逃れたという。部族間の闘争により、当時の子供達もゲリラ部隊となり紛争の前線に駆りたてられたという。
紛争が始まる2カ月前まで生活したのであるが、不安な要因、例えば一晩中、銃声や叫び声が聞かれた時もあったものの、家が破壊され住民のほとんどが難民になろうとは全く予測できなかった。
ジョンやブグメに問いかけてみた。どのような復興支援ができるのかと。
以前に較べ治安は良くなってきたが、日雇い的な建設関係の仕事がやっとだという。バナナ、マンゴ、パパイヤ等のアフリカの果物の恩恵で飢えはあまりないという。必要なのは、仕事を始めるための最低限のお金と技術を身につけるための教育のための投資だという。彼等の立場に立ってみても、先進国に期待するのは、緊急支援、すなわちすぐに役立つ支援と知的インフラだろう。
2月中旬に韓国で開催されたシンポジウムで、北東アジアの平和構想を発表する機会に恵まれると同時に、そこで、カンボジアのノロダム副首相やボスニアのガニック元大統領の発表を聞くことができた。ノロダム副首相は、教育の向上こそ最も重要であるが、先進国の援助による知的インフラ構築の問題点は、カンボジアの優秀な人材が国外に流出することだと指摘されていた。また、ガニック元大統領は、緊急支援が必要な状況においても、先進国や国際機関の援助には、調査・研究、官僚的な複雑な手続きの要素が強く、現場がタイムリーに必要とするものがなかなか供給されなかったと述べておられた。
ワシントンで開催されたシンポジウムでは、リベリアの副大統領と会った。副大統領が滞在されたホテルでゆっくりとお話しを伺うことができたのは、この10年間、リベリアでボランティア活動をされている主婦の長谷川愛優美さんのお陰であった。副大統領は、東京オリンピックに陸上の選手として参加された人であり、日本通である。長谷川さんは、自費でリベリアのボランティア活動を行っておられ、リベリアの子供達に教育の機会を提供されている。リベリア人の立場に立って、内乱の最中の危険な地域にも足を踏み入れて活動をされてたことを聞き本当に驚いた。流暢とはほど遠いリベリア訛りの英語にも係わらず、リベリアの副大統領から尊敬されている長谷川さんの姿に接し、今まで会ったどんな開発の専門家とは比較ができない程に脱帽する魅力があった。このような実績のある人物に、開発資金を提供し、リベリアの開発を任せるべきである。お金が無くてもリベリア人から尊敬される人に開発資金がつけばどれ程ダイナミックな活動をされるのだろうか。検証してみたい。
アフリカの奥地の開発援助のあり方
開発援助の専門家の欠点は、現場の調査や報告書作成に主眼がおかれることから現地の人々が求める敏速な支援が不十分であるところであると考える。現地の人々が求めていることを現場の視点で敏速に提供することが求められている。机上の学問としての論理的、講釈、そして官製マニュアルではなく、感性と情熱と平和構築のビジョンである。また、知的直感や経験的直感による現場で応用できる能力である。
最後に、JICAにお願いしたいことある。それは、アフリカの内戦で被害を受けた国を対象に、小学生、中学生、高校生、大学生、企業家の5つの分野でのエッセイコンテストを実施することである。主題は、「あなた自身を磨きながら、あなたの地域、あなたの国を繁栄させるために、どんな具体的な活動ができるのか。そして先進国の援助として何を期待しているか」。
独立と発展の勢い溢れる古き良きアフリカには、市民の力で地域と国を立て直し、発展させようというパワーがみなぎっていた。そのパワーを復活させるためにも、アフリカの夢と理想と希望を持った子供達や学生や企業家が意見を発信する場をエッセイコンテストとして提供し、そして奨学金や企業家の運転資金を提供しながら彼等の理想を実践することが重要だろう。ジョンやブグメ、そしてバンガの子供達は、エッセイコンテストに参加し、開発の専門家を驚かす発想を提示するだろう。そして彼等は、その夢と理想をきっといつの日か実現させると信じる。
中野さんにメールは E-mail:tomokontomoko@msn.com