醜い南アの日本人社会
執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】
南アフリカには1965年の春からちょうど2年間滞在した。家はプレトリアの高級住宅街にあった。前庭は芝生が生えていて子どものサッカーが十分にできるほどの広さがあった。1000坪はあったと思う。
道路から出入り口が二つあって二階建ての家の後ろに乗用車が6、7台はゆうにとめられる駐車場があった。そのさらに向こうに果樹が何本か植えられている大きな裏庭があった。それまで日本では2Kの狭い公務員住宅に住んでいたから、そこは邸宅と呼んでいい住居だった。
家にはユリさんという40歳前の背の高いやせた女性のお手伝いさんが住み込みで働いていた。彼女のすみかは母屋から2、30メートル離れたところにあった。サーバント・クォーターといってどの家にも使用人の離れがあった。電気は裸電灯があるだけまし。便器は水洗だが、座るふたがなかったし、シャワーにお湯はなかった。“使用人”とはいえ母屋とはあまりにも違う住環境だった。
日本にもかつては女中や下男を置く家もあったが、少なくとも住むところは同じ屋根の下だった。だからサーバント・クォーターはまさに異なる人の住むところという印象があった。
ユリさんの賃金は食事付きでたぶん月5000円程度だったように思う。まずは白人の数十分の1以下である。主食はミリミールというトウモロコシの粉を炊いたもので、見かけはマッシュポテトのようなものだった。副食には必ず肉があったから栄養的にいえばそう貧しくはなかったが、生活レベルは雲泥の差である。
筆者が住んでいたプレトリアは南アの首都で、日本人は総領事館の5家族しかいなかった。子どもは筆者の兄弟3人とあと1人の小学生だけだったが、70キロほど離れた商都のヨハネスブルグには日本人が500人ほどいて日本人学校もあった。
狭い日本人社会ではよく行き来があった。日本人同士のパーティーもしょっちゅうあった。そうした集まりで必ずといっていいほど話題になるのが黒人メイドのことだった。「不潔」「低能」などといって罵倒するのはいいほうだった。一番いやしいと思ったのは奥さま方が黒人メイドの「盗み」にどう対応しているか喜々として話している場面だった。
ほとんどの家庭が日本では考えられないほどの王侯貴族の生活を満喫しているのに、メイドたちが「砂糖を盗む」「しょうゆがいつの間にか減っている」といったけちけちした話にうつつを抜かしていた。美しく着飾った日本の奥さまたちが砂糖を盗んだといってメイドを面罵する場面を想像するだけで恥ずかしかった。町に出れば自分たちも差別される身でありながら、南アのアパルトヘイト政策を批判する場面に遭遇することはまずなかった。
そりゃそうかもしれない。当時の日本では想像も出来ないプールとテニスコート付きに邸宅に住み、何人もの使用人にかしずかれる。アパルトヘイトさえなかったらおよそ天国といっていい。多くの日本人はその生活レベルに舞い上がっていたに違いない。しかし筆者にはそのアパルトヘイトが許せず、現実を直視せずにアパルトヘイト政策を支持するような日本人こそが醜い存在だった。
同じような日本人社会は南アが特別ではなかったはずだ。タイでもインドネシアでもあったはずだ。戦争に敗れて20年しかたっていない日本人はようやく豊かさの入口に立っていたが、まだ貧しかった同じ有色人種の仲間たちを白人以上にぞんざいに扱っていたのだ。(続)