執筆者:伴 武澄【萬晩報主宰】

大学時代だからいまから30年も前の話である。学友と政治を語ることが多かった。多くの学生は社会主義にかぶれていた。世の中の対立は資本と労働にあり、世の中の矛盾はすべてこの対立構造によって語られる風情があった。だから学生の中では、資本主義社会はいずれ社会主義に取って代わるという意識が多分にあった。
筆者は少々違う体験をしていたから社会主義にはどうしてもなじめなかった。中学・高校の時に人種差別(アパルトヘイト)の南アフリカに育ったからだ。世の中の対立がすべて資本と労働の論理で解き明かされるなら、それほど簡単なことはないと考えていた。世界にはもっと根深い差別があるのだと思っていた。
筆者が考えていたのは人種間の問題の方が階級対立よりより深いと思っていたのだが、当時、筆者の心情を理解してくれる人はほとんどいなかった。
南アで困惑したのは、差別されている日本人が同じ差別されている黒人をバカにする場面にたびたび遭遇したからだった。もちろん日本人は「名誉白人」の待遇を得ていたから、白人居住区に住むこともでき、ホテルやレストランだけでなくバスも郵便局も白人並みの扱いを受けていた。
外交官や商社マンたちは美しい芝生を敷き詰めた広大な敷地の邸宅に住み、何人もの黒人の使用人を雇っていた。プールやテニスコートは当たり前である。気候は温暖で物価は安い。人種差別に鈍感でいられたら王侯貴族のような生活だった。
でも学校だけは別だった。名誉白人でも公立の学校への通学は体よく断られた。当時の南アの法律ではホワイトとノンホワイトの区別しかなく、名誉白人などというものは単なる「お目こぼし」にしかすぎないことはすぐに分かることとなった。
南アでは、同じ顔をしたアジアの人種でも中国人はまた別扱いだった。ほとんどの日本人が南アで短期の滞在の外国人であったのに対して、多くの中国人はそこで生業を営む南ア人だったから、彼らは白人地区に住むことは許されていなかった。中国人たちは黒人とは違う地区だが、「隔離」された居住区にしか住むことを許されていなかった。
そんな白人たちの勝手な世界にどっぷり浸かって、それでも黒人ばかにする日本人というものが信じられなかった。
1960年代、南アに支局を置く日本のマスコミはなかった。ときどきロンドンから記者が取材にやってきた。南アに数日滞在して日本人から南ア事情を聞きかじった記事が日本の新聞に掲載されることがあった。多くの記事はやはり階級史観で南アの人種差別を分析していた。
冗談じゃないと思った。南アの人種差別はそんな単純な構造で成り立っているわけではなかった。表面的には確かに白人が資本家で、圧倒的多数の黒人が搾取される側にいた。それは間違いないことなのだが、資本家側には一人の黒人もいないのだ。弱い黒人が強い白人に支配されている。高校生だった筆者には、ただそう考える方が自然だった。
20世紀前半までは、西欧にも白人同士でも資本家による過酷な収奪構造があった。だから当時の南アにも「プアホワイト」という貧しい白人も多くいた。だがその貧しい白人と収奪される黒人が「共闘」を組むという図式は考えられなかった。そのプアホワイトこそが南アの人種差別政策の圧倒的支持層だったのである。
ある日、ロンドンから朝日新聞社の記者がやってきた。わが家にも一晩来て父親と話し込んでいた。高校生の筆者もその話をそばで聞いていた。難しい話をしていたのではないが、こんな日本人もいるのだと感動したことを覚えている。
「レストランに入ろうとしたら断られたんですよ。アイ・アム・ノット・チャイニーズと言えば入れてもらえたのでしょうが、そのひと言が言えなくて」
その一言に筆者は恥じ入った。毎日のように差別されるたびに躊躇なくその一言を発していたのだから衝撃は大きかった。筆者のアジアへのこだわりはその日に始まったのかもしれない。(続)