執筆者:中野 有【アメリカン大学客員教授】

ワシントンでイラクの形勢と時局を少し大観してみたい。アメリカがバグダッドに先制攻撃を仕掛けた理由、そして、その結果を考察することにより、今後の方向性と日本のスタンスが展望できる。とりわけ、ライス長官の現実主義が徐々に浸透し、その成果が現れている状況においては、傍観者でなく、信頼醸成構築へのプレーヤーとなることが求められている。

開戦から2年半近くが経過し、米軍の犠牲者が2000人近くに迫り、イラクの犠牲者は、その15倍だと言われている。恐らく、圧倒的な軍事力を有するアメリカが、執拗にイラクの抵抗に遭い、また米軍がゲリラ戦に対しこれ程、脆弱だとのシナリオを描いた人は少ないと思う。開戦時にサダム・フセインがテレビでイラク国民の徹底的なゲリラ戦による報復を訴えたことが現実となっている。

開戦時における、アメリカのイラク関与への本質的理由を知るために、4つの理由を再確認する必要がある。現実的理由は、9.11の報復として、アフガニスタンだけでは物足りないのでイラクを攻撃することにある。本質的理由は、中東の民主化と市場経済化を進め、中東における石油の利権を確保すること。道義的理由は、イラク民への圧制と生物・化学兵器の使用によりクルド人殺害を行ったフセインへの軍事制裁。発表された理由は、大量破壊兵器を予防防衛の視点で処理すること。

そして現在。4つの理由との関連と結果として、現実的には、イラクの憲法の制定と選挙を経て、米軍の撤退を行いたいとの楽観的なシナリオを描くには悲観的要素が大きすぎ、出口戦略が見いだされない状況である。米軍撤退により、イラクのシーア派、スンニ派、クルド族、無宗教間の内戦が発生した場合、アメリカの責任が問われる。加えて、来年の中間選挙を考えれば、これ以上の米兵の犠牲を容認できないとの世論に左右され、米政府が遂行している本質的理由が歪められる可能性が高くなる。最近の調査によれば、6-7割の米国民が間違った戦争だと考えている。余談だが、この数字は、戦後60年を経て、日本が太平洋戦争に対し、避けるべき戦争だったという日本人の考えと近い数字である。

本質的理由については、アメリカが理想とする民主化や市場経済が進むどころか、米軍への抵抗のみならずシーア派とスンニ派の対立が激化している。少数のスンニ派であるフセイン政権を崩壊させたことにより多数を占めるシーア派の民主化政権の樹立が生まれた。しかし、その結果として、シーア派が中心のイランの政権とシーア派イラクの勢力が増すことは、アメリカの国益に反するのみならず、親米のスンニ派総本山のサウジアラビアにとりマイナスである。同時に、アメリカが進める民主化が実現されることは、サウジアラビアにとっては、逆効果である。

石油の利権をアメリカが確保するどころか、イラク戦の影響並びに中国の石油需要の関連で、石油価格が予想外に高騰しており、アメリカ経済に悪影響が出ている。一方、産油国はアメリカの中東政策の誤算により、石油価格の上昇という恩恵を受け、保守的なイスラム社会の地盤固めにつながっている。石油価格の上昇は、アメリカの理想とする中東の民主化の抵抗勢力を高めることに連携している。

80年代前半のイランーイラク戦争では、アメリカがスンニ派であるフセイン政権を援護し、イランのシーア派を牽制していた。当時、バクダッドに駐在していた筆者は、サダム・フセインのバッチをつけ、水道局を訪問し、イラクの勝利は西側の勝利だとの感覚を持っていた。現在のイラク戦では、アメリカは正反対のことを行っているのである。イラクとイランは、アメリカにとって「悪の枢軸」であり、両国の勢力が増すことは、アメリカが望む民主化に反する。そして、スンニ派主流であるサウジアラビア、シリア、ヨルダンと、イラン・イラクのシーアの対立が激化する。従って、アメリカが目指すイラク戦争の本質的理由と戦争の目的が曖昧になるどころか、中東の不安定要因を煽っている。たとえ、アメリカがイラク介入に成功したとしても、結果は中東の安定とアメリカの利益に適うとは考えられない。

イラク戦の開戦の半年前にワシントンに入った筆者は、9.11の後遺症から抜け出せずテロの報復を戦争と解釈するワシントンの空気に接し、戦争回避は困難であるとのコラムを萬晩報に書いた。信長、秀吉、家康の不如帰を如何に鳴かすかに例え、家康の「鳴くまで待とう」は、テロの戦争の最中にあるアメリカが納得しないし、信長の「鳴かぬなら殺してしまえ」では、ハムラビ法典のように報復が報復を呼び起こすので危険すぎる。実際に、アメリカは信長の行動をとった。しかし、秀吉の「鳴かぬなら鳴かせてみせよう」という、外交と軍事の両輪による解決策はあったと考えられる。

開戦前の日本の役割として、国連の決議を歪めても単独で先制攻撃を行おうとするアメリカに対し、大西洋を挟み戦争回避を望む「平和の枢軸」であるフランス、ドイツ、ロシアの仲裁に入ることは可能であった。日米同盟の観点から日本は、アメリカを支持するも、大西洋を挟み、正確には米英のアングロサクソンと仏・独・露の平和の枢軸が対立してい国際関係において、「待てば海路の日和あり」というスピーチを国連で披露すべきであった。1カ月待てばイラク戦に参戦するといったフランスを入れ、ひいてはNATO軍との協力体制による多国籍軍のイラク戦の作戦を練り出す可能性もあったのである。これは、筆者が開戦前に読売新聞のアメリカ版のインタビューに答えた考えである。

最近、キッシンジャーは、アメリカが中途半端に撤退することは、国際テロの増強につながり、これを防ぐためには、イラク戦への国際協力と多国籍軍の関与を強化する他にないとの展望を語っている。将に、アメリカに忠実な日本は、開戦前の9.11の後遺症から抜け出せず冷静を失っていたアメリカに対し、「ハムラビ法典」が示すアラブの報復の気質と、単独による先制攻撃のリスクを提示し、フランス等との協力を取りつけNATOを中心とする多国籍軍の編成によるイラク戦の青写真を提示することを実践すべきであった。現在、イラク戦の失敗は、多国籍軍の編成にあるとの見方をする専門家が多い。

アメリカがイラクの泥沼化から抜け出せぬ状況の中、イランの核開発の問題について、英、独、仏が交渉の主流になり、北朝鮮問題に関しては中国が議長役となり6者会合が行われている。アメリカの外交関与が弱くなっているように表面的には映るが、ライス長官の現実主義の外交政策が生かされているのは事実である。ライス長官とブッシュ大統領との信頼関係に加え、ボルトン、フォルフォビッツ等のネオコンの強硬派を国連、世銀の多国間の外交に追いやることで着実に現実路線の外交に成果が現れている。

パレスチナ問題の歴史的進展、米中関係を考慮に入れたインドとの関係強化、来月の中国の胡錦涛国家主席の訪米、国連総会とライス長官の更なる外交手腕が試されることになる。ブッシュ政権の2期目は、外交面で予想外の成果があるとの見方が主流である。昨日、6者会合のアメリカ代表であったクリストファー・ヒル国務省次官補の話を聞いたのだが、ライス長官の下の外交戦略の巧みさを感じた。

日米の関係において、ライス長官が唱える「日米戦略開発同盟」を具現化させることが重要となる。日米の戦略的な協力は、1ドル紙幣に描かれている米国の象徴である鷲が参考になる。鷲が軍事という矢を左脚に、開発やソフトパワーというオリーブの木を右脚に持っている。日米関係において、重要なのは、日本がアメリカのハードパワーという盾を生かし、ソフトパワーの分野で貢献することであろう。

アメリカが中東の民主化をハードパワーで強行し火傷をしている時、中国、インド、フィリピンの賢いアジアは、メード(お手伝い)を百万人規模で中東に派遣している。メードというソフトパワーでアラブの教育に貢献しているのである。民主化は時間がかかるが軍事より教育の方が効果がある。

筆者は、80年代に南アフリカで2年間生活し、南アのアパルトヘイトに挑戦した。そこで学んだ経験的直観は、少数の白人が多数の黒人と対立構造にある中、最善の解決策として白人・黒人・カラード・インド人・中国人との共通の利益の合致点を見いだすことであるという視点である。アパルトヘイトの根絶を経済制裁を通じ行うのは現実的でなく、建設的関与政策を実践することである。

則ち、白人と黒人の共通の利益の合致点が、平和と安定と黒人の教育水準の向上により共産主義化を防ぐことであるとすると、積極的にそれを促進することが大切である。レーガン大統領は、議会の反対にあったが南アへの投資を推進し、黒人への教育に力点を行う政策を行ったのである。

この成功例をイラクに応用すると、シーア派、スンニ派、クルド族、無宗教のグループの共通の利益の合致点を見いだすことである。イラクの共通の利益とは、平和と安定と発展である。特に世界1級の石油資源という財産をイラク国民に分配し、イラクのインフラ、教育等を急速に興隆させることである。それを援護するのが国際社会の責務である。イラク戦に反省しているアメリカは、イラク人によるイラクの民主化の実現を期待している。

イラク戦開戦前のアメリカの本質的理由は、アメリカンスタンダードによる民主化・市場経済化であったが、今日のアメリカが望んでいるのは、来年の中間選挙を控えたアメリカが非難されない米軍の出口戦略にある。ネオコンの軍事的関与と理想主義から、現実主義に変化した、それが現在のアメリカ外交である。

特に、日本は傍観者になってはいけない。自衛隊を派遣していること自体が、積極的な関与とも考えられるが、イラク憲法制定、選挙という信頼醸成の時局において、キリスト教、イスラム教の戦い、そしてイスラム教内部の戦いから、いかにも東洋的な協調的な共通の発展の機運を生み出す大局観やグランドデザインが求められている。日米戦略的開発同盟や国連・世銀の多国間の開発戦略、これらに加え、最も重要なのが市民レベルや非政府団体、非政府個人による、ソフトパワーの建設的な関与であろう。

戦後60年の還暦に、地政学的変化が着実に進展していることをワシントンで直覚している。日本の役割は、多神教的視点で、宗教、民主化、人権問題において敵対し相容れない関係にある国や民族の共通の利益の合致点を示す大局観とその青写真をソフトパワーに力点をおき描写し、それを実践することだと考察できる。地球というカンバスを眺望すれば、東京、ワシントン、バクダッドやケープタウンの限られた視点より、大きな地球益のための共通項が見えるような気がしてならない。
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