薩長因縁の昭和平成史(5)
2006年10月09日(月)萬晩報通信員 園田 義明
■米国資本・満州北支誘導工作
澤田節蔵は1938(昭和13)年12月19日に帰国した。当時、日本は満州及び北支の経済建設を急いでいたが、国内での資金調達が叶わず、外資獲得に 迫られていた。結局英米に資金を頼らなければならないが、対支政策で両国と対立しているために求めることはできなかった。そこで表面上は政府と無関係にし ながら民間団体主導による英米資金導入計画が立てられた。これが実現すれば日米関係の緊張緩和に貢献すると考えたからだ。
大蔵省の迫水久常(後の内閣官房長官)、商工省の美濃部洋次、外務省の會祥益、岸偉一、海軍省の柴勝男中佐、陸軍省の景山誠一中佐、日本銀行の新木栄吉 (後の日銀総裁)らが、満州国大使館とも連絡の上で画策し、渋沢栄一没後の財界の大御所として日本経済連盟会の会長であった郷誠之助が任務の委嘱を受ける ことで承諾、その対外工作を澤田が担当した。
日本経済連盟会内に対外事務局を設け、委員長に郷が、副委員長に澤田が就いた。澤田らは、満州・北支において外資誘導可能とされる産業を絞り込む一方で、英米等でこれらの産業開発に興味を持つ経済団体を調べあげて進出誘導する。このための英文雑誌なども刊行された。
この結果、満州の鉱山開発と北支産業助成のために米国資金導入に注力することが決まり、米国財界指導者を現地視察させ、必要に応じて澤田が米国に出向き必要資金の仮受け工作に取りかかるものとした。
澤田はニューヨーク駐在の大蔵省在外財務官・西山勉に有力財界人の選定と招待工作を進めさせ、ファースト・ナショナルバンク、ギャランティー・トラスト 等の四大銀行の頭取含めた11から12名が招待を受けることになる(米国人弁護士、マックス・マックライマン工作)。しかし、米国政府は米国第一級の財界 人が日本の招待によって日本及び満州に訪問することは時宜を得ずとして差し止めにした。
ここで一人や二人ならなんとかなるだろうと、なんとも渋いことに澤田らはオーエン・D・ヤング夫妻だけに絞り込んだ。ヤングは対独ヤング・プランで知ら れ、澤田はギャランティー・トラストの顧問と書いているが、むしろゼネラル・エレクトリック(GE)の会長として米国財界の代表格だった。あまりに大物の ためこれも失敗に終わる。
結局、ニューヨークの大銀行の顧問弁護士であり、ルーズベルト大統領やヘンリー・スチムソン陸軍長官につながるジョン・F・オーライアン将軍が帯同者3 名を連れて来日、満州・北支視察も終わり、工作が成功するかに見えた。この時も澤田の前に立ちふさがったのが、外務大臣に就任した松岡洋右であり、松岡の 三国同盟締結に向けた慌ただしい動きがこの工作をまたもや葬り去った。
澤田は開戦直前の日米諒解案にも関与しているが、これを握りつぶしたのも松岡であり、澤田の努力は松岡によってことごとく水の泡になった。昭和天皇は独 白録でこの松岡を「彼は他人の立てた計画には常に反対し、条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」と指摘しているが、まさに澤田の 気持ちを代弁していたかのようだ。
澤田は戦前最後の鈴木貫太郎の内閣顧問に任命されているが、ここでも持ち前のリアリストぶりを発揮している。5月中旬に当時国務大臣に就任していた左近 司政三から対ソ仲介交渉に関する見解を聞かれた時、澤田はソ連が力により実利を追う傾向があり、形式的に条約があっても豹変しうる国、信頼して周旋しても 意味がないと言い切った。そして、澤田ならでは提言を行う。
■バチカンにおける和平斡旋工作と原爆投下
対ソ交渉に明確に反対した澤田節蔵はバチカンに頼むがよいと提言する。当時の状況を考えれば間違いなくバチカンがベストな選択だった。むしろバチカンし かなかったのではないだろうか。しかし、鈴木内閣の誰もがバチカンのことを考えていなかった。澤田の主張は左近司から鈴木総理に伝えられたが受け入れられ なかった。
澤田の同じ観点からバチカンを見ていた人物が二人いた。その一人が中央情報局(CIA)の前身組織である戦略事務局(OSS)長官であったウィリアム・J・ドノヴァンである。
「頃合を見計らって、東京に和平案を持ち込む糸口をつかめ。日本の降伏について協議するのだ。結局、そのような工作が可能な場所は、バチカンなどごく限られた場所しかない」(『バチカン発・和平工作電』マーティン・S・ギグリー、朝日新聞社)
これはドノヴァン長官がOSSの工作員であるギグリーに与えた密命内容である。ドノヴァンもギグリーも米国では極めて少数派のカトリック教徒であった。 おそらくドノヴァンであればマンハッタン計画の情報もある程度をつかんでいただろう。ドノヴァンの密命には原爆投下阻止の願いも込められていたのかもしれ ない。こうしてバチカンを舞台に「ベッセル工作」(船工作)と呼ばれた和平斡旋工作が始まる。
ギグリーが直接接触したのはローマ法王庁国務省外務局のモンシニョール・エジッジョ・ヴァニョッツィ司教だけで、ヴァニョッツィ司教→バチカン駐在日本 使節教務顧問のベネディクト富沢(富沢孝彦)神父→原田健公使(プロテスタント、妻はカトリック)・金山政英書記官(カトリック)の流れで伝えられた。
ギグリーが提示した和平案は「米軍による日本占領。米国への永久的な領土の割譲はない。日本国民の決定による場合以外には、天皇の地位に変更はない。」 とするものである。(原田と金山は「日本を占領しない。天皇制は維持する。千島、樺太、台湾、朝鮮を放棄し、日本軍はインドネシアから撤退する」と受け 取っていた。)
この和平案の内容は「絶対極秘暗号電」の扱いで1945(昭和20)年6月3日と6月12日の二度にわたって東郷茂徳外務大臣宛に送られている。しか し、これもスイスで行われていた「ダレス工作」同様に完全黙殺される。当時日本の方針はあくまでも徹底抗戦であり、ソ連だけを正式の仲介者と思い込んでい た。このソ連を仲介者とする終戦工作を主導したのは木戸幸一であり、これが最大の誤算につながるのである。
澤田の同じ観点からバチカンを見ていたもう一人の人物こそが欧州外遊の際にバチカンを訪れていた昭和天皇である。
もし、澤田の提言や「ベッセル工作」の内容が昭和天皇に直接届いていれば、事態は大きく変わっただろう。ローマ法王庁への原田公使含めた初めての使節派 遣を決めたのは、昭和天皇自身であり、42(昭和17)年2月14日には東条に対して派遣使節の資格や宗教にまで踏み込み、その人選にまでこだわってい た。
昭和天皇は、戦の終結時期において好都合であること、世界の情報収集の上で便宜であること、全世界に及ぼす精神的支配力の強大であることからローマ法王 庁への公使派遣を要望した(『昭和天皇独白録』)。昭和天皇も開戦直後の時点ですでに和平仲介にはローマ法王庁に頼るしかないと考えていたのである。
敗戦から7年後、不思議な縁で導かれた金山書記官とヴァニョッツィ司教はフィリピンで出会う。この時ヴァニョッツィ司教は金山にこう語っている。
「あのとき、日本政府がアメリカの和平案に反応を示していたら、広島と長崎に原爆が投下されるという悲惨な事態は避けることが出来たのではないでしょうか?」(『誰も書かなかったバチカン』金山政英・サンケイ出版)
米国は戦後を睨んで原爆投下を前提に動いていた。いずれにせよ惨禍は避けられなかった。しかし、ヴァニョッツィ司教を介してバチカンとカトリック教徒であるドノヴァンとが直接つながっていたとすれば、悲惨な事態は避けることができたのかもしれない。
なぜならヴァニョッツィ司教の発言は一般の日本人が考える以上に極めて重いからだ。バチカンが長い年月をかけて培ったカトリックの聖地とも言える長崎浦 上上空で原爆が炸裂し、2人の神父と信徒20数人が浦上教会と運命を共にし、浦上地区に住んでいた14000人の信者のうち8500人が死亡している事実 を無視してはならない。
すでに始まっている神なき中共との冷戦、次いで起こり得るプロテスタント教国・米国との軋轢を考えればバチカンほど重要な存在はない。「バチカンに頼むがよい」とする澤田の提言は今また蘇らせる時期に来ている。
■薩長の運命の日
最後に薩長の運命の日を振り返ろう。開戦当時の年齢を見ると、昭和天皇は40歳、木戸幸一は52歳、近衛文麿は50歳である。これに対して牧野伸顕は 80歳、樺山愛輔は76歳である。革新勢力の期待を一身に担った木戸や近衛に年齢も近い昭和天皇が接近していくのも無理はない。
1945(昭和20)年2月14日、木戸を裏切った近衛はその木戸の目前で上奏文を読み上げた。そして昭和天皇は静かに近衛に問いかける。
「我国体について、近衛の考えと異なり、軍部では米国は日本の国体変革までも考えていると観測しているようである。その点はどう思うか。」
昭和天皇はこの時もまだ軍部からの情報に頼っていたことがわかる。昭和天皇には薩摩系宮中グループの情報が届いていなかった。「宮中の壁」となっていたのは木戸である。
これに対して近衛はこう答えている。
「軍部は国民の戦意を昂揚させるために、強く表現しているもので、グルー次官らの本心は左に非ずと信じます。グルー氏が駐日大使として離任の際、秩父宮の 御使に対する大使夫妻の態度、言葉よりみても、我皇室に対しては十分な敬意と認識とをもっていると信じます。ただし米国は世論の国ゆえ、今後の戦局の発展 如何によっては、将来変化がないとは断言できませぬ。この点が、戦争終結の策を至急に講ずる要ありと考うる重要な点であります。」
秩父宮妃勢津子から贈られたメッセージと宝石箱にグルー夫妻が涙したことが触れられている。グルーはもはや「昭和天皇無罪工作」によって薩摩系宮中グループの一員となっていた。近衛の脳裏にグルーの姿だけがあった。
グルーは確かに43(昭和18)年12月29日のシカゴ演説で米国人に語りかけていた。
「わが国には神道を日本の諸悪の根源と信じている人がいるが、私はそれに同意できない。(略)神道には天皇崇拝も含まれている。日本が軍部によって支配さ れず、平和を求める為政者の保護のもとに置かれれば、『神道のこの面』は再建された国民の負債であるどころか資産となりうるのだ。」(『象徴天皇制への 道』中村政則・岩波新書)
中村によれば、グルーは演説前日まで『天皇制』となっていたものを政治的な配慮から『神道のこの面』に差し替えた。グルー発言に貞明皇后の御歌が重なり 合う。注目すべきは資産という言葉日本の円滑な民主化(=米国化)に向けて女王蜂(=昭和天皇)と穏健派の薩摩系宮中グループを利用するという狙いが見出 せる。グルーはリアリストとして「昭和天皇免罪工作」に乗っかっていたに過ぎない。
このグルー演説は米国務省内の日本派を大いに勇気づけた。特に事前に演説草稿を読んでいたヒュー・ボートンは、自分が起案した政策文書がそこに反映され ていることを知り、「前途への希望がわいてきた」と回想している。このボートン文書は『日本?戦後の政治的諸問題(T?381)』(国務省領土小委員会第 381号文書)と呼ばれる。この文書が戦後日本を形作ることになる。
それでもグルーは袋叩き。メディアは一斉に「グルーは天皇を擁護し、利用しようとしている」と書きたてる。米国世論は「天皇憎し」が圧倒的だった。この 影響からグルーはハル国務長官から演説活動中止を宣告される。それでもグルーはあきらめない。省内で味方を増やしつつ、国務省極東問題局長を経て、 44(昭和19)年12月には国務次官に抜擢される。
時計を2月14日に戻そう。昭和天皇は最後に語る。
「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う。」
食い下がる近衛はこう言い残した。
「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう。」
もしもこの時に昭和天皇と木戸が近衛の上奏文を受け入れていれば・・・。この先を語ることは敢えて控える。いずれにせよ惨禍は避けられなかったことにしておこう。
この2月14日のやりとりは藤田尚徳の『侍従長の回想』(講談社)に記されている。この日の朝、木戸は侍従長室に姿を見せ、藤田に侍立を遠慮しろと言 う。よって木戸が侍立し、木戸が書き残したメモから再現されている。このメモには「侍従長、病気のため、内大臣侍立す」との嘘が書き添えられていた。
97年に国立国会図書館で一般公開された「政治談話録音」の中で、木戸は日本全土が壊滅的な状態になる前に降伏できたのは一面で原爆やソ連参戦のためだ との考えを示しながら、「原子爆弾も大変お役に立っているんですよ。ソ連の参戦もお役に立っているんだ」と語っている。もし、広島、長崎ではなく、山口に 投下されていても同じことが言えたのだろうか。
園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp