2006年10月08日(日)Nakano Associates 中野 有
  白洲次郎氏の「プリンシプルのない日本、新潮文庫」と上原良司氏の「あ~祖国よ恋人よ、信濃毎日新聞社」を読み深く感動しました。この二人の国を憂う行動 から発せられたビジョンは、現在の日本への重要なるメッセージが含まれており、どうしても皆さんにお伝えしたくコラムを作成しました。
 二人に共通するのは、太平洋戦争で日本が負けると予言し、プリンシプルや真実を貫き、日本の将来を考え実践したことにあります。この二人の違いは、白洲 は日本の食糧難を回避するために百姓となって人知れず食糧増産に心がけ、その後、政府の中枢で日本の復興に貢献。一方、上原氏は、未来永久に自由の偉大さ を証明するため特攻隊員として南の海上に散ったことであります。
 白洲は、裕福な家庭に生まれケンブリッジ大学で学び、新聞記者、商社マン、百姓となり、戦後は、吉田茂に請われ占領軍との交渉役を果たし、日本国憲法成 立に関与し、通産省を誕生させ、東北電力会長を務めたという輝かしい功績を残した人物であります。
 白洲氏のエピソードとしては、連合軍から「従順であらざる唯一の日本人」として一目置かれ、またサンフランシスコ講和条約で官僚が英文で作成した原稿を 吉田総理が堂々と日本語で話された方が良いと考え、日本語に直したことなどがあります。
 白洲氏は対談の中で、「みんな軍人が悪いから戦争が始まったっていうね。僕は軍人も悪いだろうけど、ほかの人にもずいぶん責任があると思うよ。外国のこ とを知らないからね。ひどいもんだ。アメリカの生産能力をほんとに知っている人が、日本の中枢に一人おったらー一人じゃ弱いだろうけれど、三人おったら、 戦争は起こらなかったよ。みんな知らないんだ。アメリカへいった日本の技術者が、アメリカから学ぶことがありません、なんて報告すると、日本は世界の水準 に達している、われわれも偉いもんだと喜ぶんだね。ほんとのことを報告すると怒られるんだよ。いまは、逆でね、何でもかんでも感心して帰ってくるんだ」と 述べています。
 この文章を読み、米国の中枢に入り、その実態を把握することで戦争回避の可能性は有ったと思われます。また、枢軸側のイタリア、ドイツが降伏し、その 後、3ヶ月も日本一国が世界を相手に戦うという勝利のない戦いを遂行する異常な状況に陥ってしまった背景をもっと明確にしなければいけないと考えさせられ ました。
 白洲氏が書いた半世紀以上前のエッセイの中で、「将来の日本が生きて行くに大切なことは、全部なら一番いいのだが、なるべく多くの人が、日本の国と行 き方ということを、国際的に非常に敏感になって考えていくことだ」、「ところでこの国際感覚という問題だが、日本は北欧の人みたいに、地理的の条件に恵ま れてないから、これを養成するにはやはり勉強するよりほかにしょうがない。意識的に、日本というものは、世界の国の一国であるということを考えるように教 育することだ」。
 ぼくは好奇心に任せ世界を自由気ままに観てきましたが、日本を地球の極東に位置する一国として客観的に観る眼と日本を中心として観る眼、すなわちロング ショットとクローズアップの両方が必要であると感じます。例えばアジアの中の日本、世界の中の日本という比較というものがあってはじめて日本の役割が明確 になり、近隣諸国との互恵や相互依存が生まれると思われます。とりわけグローバリゼーションの世においては、日中や日韓の関係は、2国間の関係のみならず 世界に大きな影響を及ぼすとみられます。今、安倍総理の訪中、訪韓はワシントンでもかなり注目されています。
 上原氏は、白洲氏のように世界を観るチャンスに恵まれませんでしたが、特攻の前夜に描いた所感(最後の遺書)の中に「世界のどこにおいても肩を風で切って歩く日本人、これが私の理想でした」と述べています。
 上原氏は長野県の医者の三男として育ち、学徒出陣で慶応大学の学業を断念し、死に向かってのレールが敷かれてある厳しい1年半の軍隊生活を経て、終戦の 3ヶ月前に特攻隊の使命を果たしました。その間に描かれた日記には、当時の拒絶できない全体主義の社会的風情が、とりわけ軍隊という特殊な環境で描かれて いるのみならず、上原氏の愛読書であるクロォチェ著の「歴史の理論と歴史」にある直観と概念の総合を通じた具体的な行動が自由論者として描かれています。
 知覧飛行場に来た特攻隊員が集まる富屋食堂の鳥浜とめさんは、「たった一人だけ日本が負けると言った人がいました。上原大尉でした」と述べています。こ のように特攻隊の中でも、ユニークな存在であった上原氏は、死の3ヶ月前の日記に「敵を知り己を知れば百戦知って危うからずと孫子はいえり。現在の日本に おいて、敵アメリカを真に知れる者ありや。自由のアメリカ、アメリカを知らんと欲せば、自由主義を知るを要す。自由とは何ぞや、それは人間本来の性質な り。自由を信ずる者常に強し」と描いています。これは前述した白洲氏の考えと同じと考えるのは私だけでしょうか。
 上原氏の二人の兄は、陸軍、海軍で二人とも戦死しています(長男は上原氏の後)。死を覚悟し愛するゆえに片思いでいた恋人が結婚し、その恋人が結核で世を去るという悲劇が上原氏にはありました。
 特攻隊となった上原氏は、その決意を次のように綴っています。「悠久の大儀に生きる(天皇制国家に忠誠を捧げる)とか、そんなことはどうでも良い。飽く まで日本、愛する祖国のために、独立、自由のために闘うのだ。天国における(きょう子との)再開、死はその過程にすぎない。愛する日本、そして愛するきょ う子ちゃん」。
 死の1ヶ月前、東海道の車中日記では、「或る者は雑談にふけり、或る者は悠々と煙草をくゆらし、クッションにもたれ、戦争何処に在りやという顔付をして いる。これを余力と見て良いのであろうか。それとも寒心すべき事と考えるの無理があるだろうか。勿論如上の態度を取り得るのも、尊い戦死者のおかげであ る。車中の人は、あたかもこれが当然であるかの如き顔をしている。我々が体当たりした後も、幾日かはこういう風景が続くであろうことは、疑いの余地がな い。日本人の戦争徹底視は、未だなっておらぬのだ」と描かれています。
 最後の遺書の後半に、「一器械である吾々は何も云う権利もありませんが、ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめん事を、国民の方々にお願いするのみです」と訴えられています。
 上原氏の愛読書である『歴史の理論と歴史』の中に、上原氏が未来の日本に伝える以下のメッセージを見つけました。「かくいまわれわれにとって記録である ところの多くの歴史の部分、いまは口をひらかない多くの古文書は、その時に会えば、新しい生の光にみちてふたたび口を動かすに至るであろう。」
 太平洋戦争末期、二人の自由人は極端な二つの道を選択しました。来るべき食糧難に備え百姓になるか、米艦に体当たりする特攻隊として祖国を守る道。この 極端な道を歩んだ白洲次郎氏と上原良司氏には、全体主義や堕落する社会の風潮に染まらぬプリンシプルがありました。そして何よりも、悪い現状を認識してど うしたら良くなるかという理想と未来へのメッセージを伝えているところに二人の偉大さを感じます。先人のお蔭で自由を謳歌できるわれわれは、日本と地球を 同じレベルで愛することができるように努力することが大切に思われてなりません。

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