2006年11月23日(木)ドイツ在住ジャーナリスト 美濃口坦 
「自分より弱いものに対して一方的に、身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの。起こった場所は学校の内外を問わないこと とする」というのが日本のいじめの定義である。似たような現象はよその国にもある。70年代のはじめこの現象は北欧の研究者から注目されて「モビング」と いう英語名があたえられた。それ以来、いじめ現象は欧州でドイツを筆頭にこの英語名でよばれる国が多い。いろいろな調査があるが、一番新しい調査ではドイ ツの学校で7人に1人の生徒がこのモビングの被害にあっているといわれる。

 ■どこが違うか 
 次にドイツではいじめるために何をするのかであるが、からかったり悪口をいったり悪い噂を流したり金銭をゆすったり暴力をふるったりなどで、日本とあま り違わない。おそらくいじめもモビングも、現象だけを眺めている限り、日独の相違がないように思われる。ところがいじめに対する被害者を含めて人々の反応 のしかたとなると日本とドイツの間の大きな違いがある。
 今回いじめでお嬢さんをなくされた父親について、日本の新聞は、《「娘のように自殺する子がいなくなってほしい。いじめに悩んでいる子は一人で抱え込ま ず、周りに相談してほしい」と呼びかけた》と書いている。この日本の父親は自分の娘を失ったことを悲しみ怒るだけでなく、将来いじめにあうかもしれない子 どもたちの運命にまで思いを寄せておられることになる。
 このような発言を読むと私は感動すると同時に、(後で説明するが、)複雑な気持になる。昔いじめで子どもを失われた父親がいじめをなくす運動の先頭に 立っておられるという話を聞いた。とすると引用した発言は例外でなく、日本で同じような境遇に陥った遺族の気持の表現とみなすことできる。
 それでは、同じ境遇に陥ったドイツ人の父親の反応はどうであろうか。彼も子どもを失ったことで悲しみや怒りを覚えるところまで、日本の父親と同じであ る。でもどう考えても、また試しにいろいろなドイツ人にきいた結果いうのだが、このドイツ人の父親は日本人の父親のように他人の子どもの運命まで心配しな い。
 日独の父親の相違をどう理解したらいいのだろうか。そのために別のケース、例えば交通事故で子どもをなくした場合を考えてみる。ドイツ人の父親も日本の 父親も事故責任者に怒りを覚え、子どもの死を悲しむ。でもこの場合は日本の父親も将来交通事故で死ぬ子どもたちの運命にあまり思いを寄せないのではないの か。こう考えると、いじめで子どもを失ったドイツの父親は、いじめと交通事故を同列視していることになる。反対に日本の父親はいじめをそのように考えるこ とができない。

 ■私たちの学校観
 フランスの歴史家フィリップ・アリエスは「子供の誕生」という本の中で、近代になって子供と大人を分ける考え方がはじまり、中世には「子ども」とか「子どもらしさ」といった概念がなかったと指摘する。日本も近代化とともにこのような子どもについての考え方を受け入れて、私たちは「子どもの世界」を保護されるべきもの、守られなければいけないものと考えるように なった。このことは、私たちが青少年保護関係法を幾つも制定していることに反映する。
 次に「子どもの世界」とか「子どもらしさ」であるが、現実をヒントに私たちが想像しているもので、多くは大人が自分について抱くイメージの反対で、フィ クションに近い。次に重要な点は私たちの学校観である。学校はこの「子ども世界」や「子どもらしさ」が実現される場所と思われている。
 ドイツをはじめヨーロッパ諸国では、モビング(=いじめ)は、学校より企業などの職場で問題にされることのほうが多い。反対に(、少し変わりつつあると 聞くが、)日本では職場のいじめが話題にならない。これは私たちの学校観と関係があるのではないのか。私たちは「おとなの世界」のいじめをしかたがないと 思っているだけに、その分だけ、「おとなの世界」の正反対の学校という「子どもの世界」でいじめがあってはならないと考える。日本で多くの学校がいじめを 隠す傾向があるのはこのためである。
 日本でいじめ犠牲者遺族がいじめを交通事故と同列視できないで将来にいじめにあう他人の子どもについて心配するのは、この学校観にしたがって「子どもの 世界」を大人たちは皆が団結して保護するべきであるとみなしているからである。またいじめがあるたびに、教育・メディア関係者や政治家が発言することも、 けっきょく皆でいっしょになっていじめをなくして「子どもの世界」を守ろうという話になる。
 このような学校観にしたがっていじめを論じると、学校の現実の姿が見失われてしまう危険があるかもしれない。ある新聞は「小さなサインを見逃してはいけ ない」と先生に警告したが、ドイツのモビングでこんな発言がされたら、中学生を小学校低学年生扱いしてはいけないという声があがる。次に、先生は授業だけ で忙しく「小さなサイン」に注意を払うことなど容易でない。そのために、発言が学校教育の現実についての無知な証拠と見なされるかもしれない。

 ■自殺にすすみにくい要因
 ドイツの学校では複数の先生が生徒から投票で選ばれて個人的な悩みについての相談にのることになっている。またいじめ(=モビング)については学校の外 にも相談所がある。生徒たちは「小さなサイン」を出すより、このような可能性を活用することが期待されている。それでも、ドイツで現場の先生や心理学者か ら話を聞くと、いじめは厄介な問題といわれる。いじめられた子どもたちがなかなか話してくれない。またいじめが判明しても加害者と被害者を仲介することが むずかしくて、その結果いじめられた生徒の転校で終わることが多いといわれる。
 それでは、ドイツでも子どもがいじめにあって自殺することがあるのであろうか。たくさんのいじめ被害者がいて、思春期にある多数の生徒が自殺する以上、 そのような例があっても不思議でない。ところが、いじめが原因で自殺したというメディアの報道を見つけるのはむずかしい。また学校ならびに心理学関係者に たずねると、多くの自殺でいじめがあってもそれが唯一の原因と考えられないことがその理由として挙げられる。またいじめで自殺したケースが二年前報道され たが、職業学校の生徒で20歳を超えているので日本のいじめ被害者とくらべることができない。
 ドイツの子どもたちが暮らす環境にいじめられてから自殺にまで簡単にすすませないような要因があるのではないのだろうか。誰にでもすぐ思い浮かぶのは、 この国に地域住民(大人も子ども)が参加する団体やコミュニティーがたくさんあることだ。それはサッカーをはじめスポーツやまた音楽などの文化活動のクラブだけでない。町の消防団など公的利益を追求するボランタリー団体もある。
 学校は通学生徒にとって重要なコミュニティーである。とはいっても多くの子どもたちはこのような地域の団体やコミュニティーに参加し、そこで他学校の、 また別の年齢層の子どもや、また大人と接触する機会がある。こうして学校が唯一の世界でないために、そこでいじめにあってもその体験を相対化することがで きて、両親やその他の人々に相談しやすいのではないのか。ドイツでもいじめにあった子どもたちは自殺を考えるそうであるが、実行されないのはこのような要 因があるからである。

 ■自殺へすすむ土壌
 このようなドイツの子どもたちの環境とくらべると日本ではいじめから自殺へすすむ過程に歯止めがあまりないような印象をうける。私たちの学校観にしたが うと、学校は学習するところであるが、同時に校長を先頭に教員によって指導されて、子どもたちが「子どもらしく」ふるまう場所である。この「子どもの世 界」は「おとなの世界」の正反対のものとみなされている以上、学校は隔絶された自己完結的な閉鎖空間である。
 子どもたちは、ドイツの子どものように地域の集団やコミュニティーに所属しないで、学校でクラブ活動をする。また授業が午前中しかないドイツと異なり、 日本の子どもたちは長時間学校にいる。その結果、学校こそ子どもたちの大多数にとって所属する唯一の世界であり、同時に一番重要世界でもある。学校生活が 生活の大きな部分を占めているという点で、日本の学校は全寮制学校に接近する。親のほうも私たちの学校観にしたがってこの「子どもの世界」で自分の子ども が「子どもらしく」ふるまうことをねがっている。
 このような境遇こそ、いじめから自殺へとすすむ土壌である。子どもたちはこの土壌の上で自分が体験したいじめを相対化すこともできない。その結果誰かに 相談したり、また抵抗したりすることができないまま孤立して、けっきょく学校という「子どもの世界」に自分の居場所をうしなうことになる。
 すでに述べたが、いじめで自殺になるたびに、皆でがんばっていじめをなくして「子どもの世界」を守ろうという合唱になる。でもいじめで自殺する日本の子 どもたちの問題は、「人はなぜ暴力をふるうのか」(梓出版社)という本の中で共著者の哲学者・海老澤善一氏が分析されているように、人間の共同性と関連す る複雑な問題で、「がんばろう」だけではじゅうぶんでないかもしれない。同氏は20年前にいじめで自殺した少年の遺書を引用されている。
《、、、だけどこのままじゃ「生きジゴク」になっちゃうよ。ただ俺が死んだからって他のヤツが犠牲になったんじゃ意味ないじゃないか。だからもう君達もバカな事をするのはやめてくれ、最後のお願いだ》
 この引用を読んで私たちは奇妙なことに気がつかないか。というのは、「子どもの世界」に自分の居場所をうしなったと思っている少年が「バカな事」からこ の「子どもの世界」を守ろうとするために自殺をすることになるからである。ところが、「子どもの世界」といった学校観こそ、この少年にいじめ体験の相対化 を困難にして自殺を容易にした土壌である。この土壌をゆたかにするために、少年は自殺し、残された大人たちも「子どもの世界」を守らなければいけないと合 唱し土壌を耕す。私が複雑な気持になるのはこのためである。

 美濃口さんにメールは mailto:Tan.Minoguchi@munich.netsurf.de