春雨の中の一期一会
三月の週末、中年男三人が山形・上山温泉で遊んだ。行く先の山形県は決まっていたが、格安パックの申し込みが遅れ、山形県では「かみのやま温泉」のあずま屋しか残っていなかった。そんな場当たり的な旅もけっこう楽しかった。
上山市は城下町とはいえ、江戸時代は三万石足らずの山間の藩。町には温泉以外に見るべきものはない。江戸時代の初期、大徳寺の沢庵和尚が住んだという 「春雨庵」があるのみ。歴史に詳しいとはいえない三人の湯浴み客は二日目、その春雨庵を訪れ、茶室で中年の女主人にお茶をたててもらいながら、沢庵和尚の うんちくを聞くこととなった。
古風な茶室にはいくつもの門をくぐらないと入れない。二人は障子を開けて茶室に入ったが、前夜、宿で浴衣の特大を注文した巨漢は頭をぶつけながら無理やりにじり口から入ろうとした。「頭が高い」のである。
大徳寺といえば茶道を通じて戦国時代に権勢を誇った京都の名刹。僧侶は朝廷から紫衣の着用を許されてきたのに、徳川政権は「まかりならぬ」という禁中並 公家諸法度を出した。それに反発したのが沢庵和尚らだった。「紫衣事件」というらしい。結果、沢庵和尚は土岐頼行が藩主だった出羽国上山に流された。
文字にすれば、それがどうしたとなるが、狭い茶室で拝聴する日本の歴史は含蓄に富む。三人は「ほほー」とうなずくばかりだった。
話は明智光秀にまで及んだ。
「本能寺の変の直前に愛宕神社で開いた歌会で光秀がうたった『時は今、雨が下しる五月哉』という歌をご存知ですか」
「………」
「時は土岐に通じます。実は光秀は岐阜の土岐氏の出でした。雨は天(あめ)です。土岐である光秀が天下を取ると暗にうたったのだと後世いわれるようになったのです」
「………」
「光秀は天下取りには失敗しましたが、本能寺の変がなければ秀吉の天下も家康の全国平定もなかった。そういう意味で徳川は土岐氏を大切にします。沢庵和尚がこの地に配流されたのは土岐氏に預けておけば間違いないということだったのでしょう」
まだ二十二歳だった上山藩主の土岐頼行は流されてきた沢庵和尚を大切にし、藩政の助言を得て領民に慕われる名君となった。三年後、徳川秀忠が世を去り、 沢庵和尚は放免となった。幕府は放免としただけではない。やがて沢庵和尚の名声を聞いた三代将軍家光は江戸に呼んで召し抱えた。
上山で領民に伝えた冬の保存食としての大根の漬け物を家光に献上したところ「これはうまい」と喜び、「タクアン漬け」と呼ぶことになったそうだ。名付け 親は家光である。沢庵和尚の郷里の出石(兵庫県)では「たくわえ漬け」と呼んでいたそうだ。もちろん異説もあろうが、これは松平の血をひく女主人の話であ る。
沢庵和尚が配流とならなかったら、家光に召し抱えられることもなかっただろうし、タクアンの名も人口に膾炙されることもなかったと考えればおもしろい。
茶席が終わるころ春雨が小ぶりの雨にかわり、三人は傘を広げて庵を辞した。
誰かが「あー、僕も配流されてみたい」とつぶやいた。
徳島賢人は「春の雨、禅師の庵のお薄かな」と一句詠んだ。
巨漢はただ満足そうだった。
春雨の中での一期一会だった。(紫竹庵人)