事務次官会議なくなっても不都合ない不思議さ
民主党政権誕生から一カ月。霞ヶ関をめぐる風景は様変わりなのだという。まず週2回の事務次官会議がなくなった。事務次官会議は翌日の閣議にかける案件を決める会議で、会議が終わると事務次官は自分の省庁に帰って会見を行った。昼飯後の会見で記事になるような発言があったためしはない。筆者が官庁取材を最後にしたのが1995年だから古い話になる。
選挙中に民主党が「政権をとったら事務次官会議を廃止する」と言い出し、大きな話題となった。「そんなものやめれるはずがない」というのが大方の見方で、官僚たちも「なくなることなど想定外」だった。
民主党が政権をとって本当に事務次官会議がなくなり、不都合なことはなにもないことが分かった。では事務次官会議ってなんだったのかという検証が必要だが、どこからもそんな議論は出てこない。先日、元官僚の話を聞く機会があり、現役記者時代に不思議に思いながらも「そんなものか」とやし過ごしてきた自らの体験を反省させられた。。
事務次官会議は月曜日と木曜日に開催し。昼飯を食べた後、閣議に上げる案件をそれぞれの事務次官が読み上げるだけで実は何もしていない。マスコミは閣議が空洞化していると報道してきたが、実は事務次官会議もずっと昔から空洞化した会議だったのだ。案件は会議前にすでに調整済みだから次官は何もしなくてよかったのだ。
それでは事務次官会議は何のためにあったのか。縦割り行政の中でお互いの領域を侵していないか調整するのが目的で、いわば「縄張り争いの調整機関」だったといっていい。役人の頭を交錯するのは「領域を守りたい」とか「他省庁の領域を犯したい」とかそんなことになる。
省庁間の縄張り争いで問題は「裁定者」が存在しないことである。本来は大臣の仕事なのだが、自民党時代、大臣が省庁間の争いに乗り出したという話は聞いたことはなかった。
縄張り争いでの最大の官僚の武器は「事務次官会議で手を上がるぞ」と言って相手を脅すことだった。官僚同士の暗闘の象徴が事務次官会議だったのである。