三宅廉さんの「いと小さき者と賀川豊彦」
きのうに続いて『賀川豊彦から見た現代』の中から医師の三宅廉さんの「いと小さき者と賀川豊彦」を読みたい。三宅さんもまた賀川のコーワーカーの一人である。
賀川の書いた『涙の二等分』という詩集については多く書かれているが、賀川の幼児教育についてはこれまであまり言及されていないと思う。東京の社会福祉法人・学校法人雲柱社、神戸の同イエス団はそれぞれ賀川の活動の中心となっていた組織である。いまは保育園や幼稚園、老人施設、障害者施設を数多く経営していて、施設数はそれぞれ100カ所前後、職員も1000人内外抱える。たぶん日本一の保育園・幼稚園団体だと思っている。賀川の本当の思いが継承されているはずの団体である。コープこうべは知られているが、幼児教育はやはり地味な世界なのだろうか。
賀川豊彦献身100年記念事業オフィシャルページでこのところ更新が続いている「お宝シリーズ」では武内祐一氏のアルバムでは子供たちの写真があふれている。
http://www.kagawa100.com/otakara/
厚労省では保育園といわず、保育所と呼んでいる。賀川はあえて保育園と呼んだ。保育園の命名者ではないかともいわれている。そもそも100年前にに賀川が新川のスラムに住み込んだ100年前に保育園などはなかった。
三宅さんは「賀川が幼児教育に力を入れたのは、悪い環境で赤ちゃんを育てることがいかに難しいことを体験したから」という。「それはそうでしょう。これはもう難事業です。空気が悪いし、光線がはいらない。そしてまた、お父さんが酒は呑む、煙草は吸う、飲んだくれるでしょう、そして子供は蹴られたり、叩かれたり、こういうところでは幼児教育はできないと考えたわけです」。
賀川が保育園を多くつくった理由をこう述べているのだ。保育園は子供たちだけのためでもなかった。働くお母さんたちが安心して子供たちを預ける施設も必要だったのである。
三宅さんは『涙の二等分』の中に書かれている貰い子殺しについても多くを語っている。生まれたばかりの子供たちが多く死んでいるだけでない。日本では婦人科で中絶手術がなんとも気軽に行われていることに頭を悩ます。「マザー・テレサは日本は世界で一番心に冷たい国だといったのです」と話す。
産婦人科と小児科が別々にあるから子供たちの問題が解決されないのだと考えて、両方の面倒をみるパルモア病院を神戸に開設する。世界にもあまり例のない経営だ。昭和26年だから賀川はまだ生きていた時代である。そして昭和45年には同じく神戸保育専門学校を設立された時、三宅さんは学校で幼児教育の心理学の講義を受け持つことになる。賀川がいたらどれだけ喜んだかわからないとこの専門学校の開設を評価している。
三宅さんは賀川の幼児教育について「まず自然を教えること。自然に触れること」と話している。自然という聖書を感覚によって教えるのだ。つぎは「ままごと」だったそうだ。「自然にあるものを料理して食べて、みんな喜んで食べるようなことを悟らせるにはままごとがいい」。最後に「祈ること」だった。特に母の祈りが子供に通じるのだという。ちなみに賀川の毎日の家庭礼拝の祈りは「困っている人のために」と「世界の平和のために」だっとそうだ。
三宅さんのことは中平邦彦著『パルモア病院日記 三宅廉と二万人の赤ん坊たち』に詳しいということで早速、AMAZONで注文した。(伴 武澄)