英語教育の嚆矢、福沢諭吉 夜学会130
2019年7月8日
福沢諭吉は、中津藩が嫌で安政元年(1854年)21歳の時、長崎に遊学しオランダ語に接する。翌年、大阪の緒方洪庵塾に入り2年後24歳で塾頭になった。よほど語学に精通していたのだ。医学だけでなくファラデーの電気法則まで学んでいたというから驚きだ。
安政5年(1858年)江戸に出て、築地鉄砲洲の奥平中屋敷の長屋で蘭学塾を開くが、翌年横浜を訪ねてオランダ語がまったく通用しないことを知り、衝撃を受けて英語を学び始める。
ペリーが来航したのは嘉永6年(1853年)のことだから、福沢諭吉がオランド語を学び始めたのはその翌年ということになる。黒船来航は日本中を揺るがした事件だから福沢諭吉も知っていたはずである。
日本に帰国していたジョン万次郎が土佐から幕府に召し出されたのはまさにその年である。オランダ語が分かる幕臣は大勢いたが、英語を解する日本人はたった一人しかいなかった。 福沢諭吉は江戸で英語を学ぼうと友人を誘うが、ほとんどの人に拒絶される。福沢諭吉はたった一人、独学で英語と格闘することになった。
おかげで1860年に幕府が咸臨丸をアメリカに派遣する使節団に潜り込むことができたのだった。英語を学び始めてまだ1年もたっていなかった。
福沢諭吉が蘭学塾の先生から一躍時代の寵児に飛躍するきっかけは、時代の変化を読み取り、オランダ語から英語の時代を感じ取ったことだった。直観力という。 当時も一から新たな言語を学ぶことはやはり大変だった。オランダ語を習得するだけで相当の禄をはむことができたからいまさら英語を学ぶ必要を感じなかったのだろう。
幕末、幕府はフランスに傾倒し、薩摩はイギリスになびいていた。いずれにしてもオランダを相手にする時代は終わっていた。にも関わらず多くの知識人はオランダ語に安住していたのだから、日本という国家は当時、羅針盤を欠いていたといってもいい。
福沢諭吉のすごさは時代の変わり目を敏感に感じ取って、生業の道をオランダ語から英語に舵を切ったということであろう。鉄砲洲にあった蘭学塾で塾生に英語を学ばせ、慶応4年つまり明治元年、慶應義塾に生まれ変わった。英語で西洋の法律や経済を教える学校はなかったから、全国から有為の若者が集まる学問府となる。 外国人を教師として招聘するだけの財力もなかったから、英語の教科書を片手に塾生が先生となり、次に世代を教えるという手法を取らざるをえなかった。
慶應義塾の先生たちはやがて高知にやってきて、今度は高知の若者に学問を教えることになる。立志社学舎である。後に大日本国国憲按を書くことになる植木枝盛もその生徒の一人で、植木が西洋の民主主義に精通していた背景もここにある。
福沢諭吉が1859年安政6年に英語に転じていなければ、その後の日本は大いに違った道を歩んでいたかもしれない。そう考えるだけで福沢諭吉は近代日本にとって偉大な存在だったと言わざるを得ない。
2019年6月、神田の古本屋で「福翁自伝」(岩波新書)を購入して熟読した感想である。