高知県伊野町にある紙博物館を訪れ、故司馬遼太郎氏が龍馬銅像還暦に寄せていたいい文章を見つけた。このメッセージは昭和63年7月、桂浜の龍馬像の前で 銅像建設発起人物故者追悼会が行なわれた際に司馬氏が寄せたものを、故入交好保氏が晩年に大きな屏風に墨書した。入交氏は、早稲田大学在学中の大正15 年夏、土居、朝田、信清氏の3人と坂本龍馬の銅像建立を考え、野村組新聞部の大野氏、高知県青年団を巻き込んで賛同を集めて建立にこぎつけた。桂浜に立つ 龍馬像の除幕式が行なわれたのは昭和3年5月27日であるから、かれこれ3年の年月が経っていた。司馬遼太郎のメッセージをメモしてきたので披露したい。
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 銅像の龍馬さん、おめでとう。
 あなたは、この場所を気に入っておられるようですね。私はここが大好きです。世界中で、あなたが立つ場所はここしかないのではないかと、私はここに来るたびに思うのです。
 あなたもご存知のように、銅像という芸術様式は、ヨーロッパで興って完成しました。銅像の出来具合以上に銅像がおかれる空間が大切なのです。その点、日本の銅像はほとんどが、所を得ていないのです。
 昭和初年、あなたの後輩たちは、あなたを誘って、この桂浜の巌頭に案内して来ました。
 この地が、空間として美しいだけでなく、風景そのものがあなたの精神をことごとく象徴しています。
 大きく弓なりに白線を描く桂浜の砂は、あなたの清らかさをあらわしています。この岬は、地球の骨でできあがっているのですが、あなたの動かざる志をあら わしています。さらに絶えまなく岸うつ波の音は、すぐれた音楽のように律動的だったあなたの精神の調べを物語るかのようです。
 そしてよく言われるように、大きく開かれた水平線は、あなたの限りない大きさを、私どもに教えてくれているのです。
 「遠くを見よ」
 あなたの生涯は、無言に、私どもに、そのことを教えてくれました。いまもそのことを諭すように、あなたは渺茫たる水のかなたと、雲の色をながめているのです。
 あなたをここで仰ぐとき、志半ばで斃れたあなたを、無限に悲しみます。
 あなたがここではじめて立ったとき、あなたの生前を知っていた老婦人が、高知の町から一里の道を歩いてあなたのそばまで来て、
 「これは龍馬さんぢゃ」
 とつぶやいたといいます。彼女は、まぎれもないあなたを、もう一度見たのでした。
 私は三十年前、ここへ来て、はじめてあなたに会ったとき、名状しがたい悲しみに襲われました。そのときすでに、私はあなたの文章を通じて、精神の肉声を知っていましただけに、そこにあなたが立ちあらわれたような思いをもちました。
 「全霊をあげて、あなたの心を書く」
 と、つぶやいたことを、私はきのうのように憶えています。
 それよりすこし前、まだ中国との国交がひらかれていなかった時期、中国の代表団がここにきたそうですね。
 十九世紀以来の中国は、ほとんど国の体をなさないほどに混乱し、各国から食いあらされて、死体のようになっていました。その中国をみずから救うには、風 圧のつよい思想が必要だったのです。自国の文明について自信のつよい中国人が、そういう借り衣で満足していたはずはないのですが、ともかくもその思想で もって、中国人は、みずからの国を滅亡から救いだそうとしました。ですから、この場所であなたに会ったひとびとは、そういう歴史の水と火をくぐってきた人 だったのでせう。
 その中の一人の女性代表が、あなたを仰いで泣いたといわれています。あなたの風貌と容姿を見て、あなたのすべてと、あなたの志、さらには人の生涯の尊さというものがわかったのです。
 殷という中国におけるはるかな古代、殷のひとびとの信仰の中に、旅人の死を悼む風習があったといわれています。旅人はいずれの場合でも行き先という目的をもったひとびとです。死せる旅人は、そこへゆくことなく、地上に心を残した人であります。
 殷のひとびとは、そういう旅人の魂を厚く祀りました。この古代信仰は、日本も古くから共有していて、たとえば「残念様信仰」というかたちで、むかしからいまにいたるまで、私どもの心に棲んでいます。
 ふつう、旅人の目的は、その人個人の目的でしかありませんが、それでも、かれらは、残念、念を残すのです。
 あなたの目的は、あなた個人のものでなく、私ども日本人、もしくはアジア人、さらにいえば、人類のたれもに、共通する志というものでした。
 あなたは、そういう私どものために、志をもちました。そして、途半ばにして天に昇ったのです。その無念さが、あなたの大きさに覆われている私どもの心を打ち、かつ慄させ、そしてここに立たせるのです。
 さらに私どもがここに立つもう一つのわけは、あなたを悼むとともに、あなたが、世界中の青春をたえまなく鼓舞しつづけていることに、よろこびをおぼえるからでもあります。
 「志を持て」
 たとえ中道で斃れようとも、志をもつことがいかにすばらしいことかを、あなたは、世界中の若者に、ここに立ちつづけることによって、無言で諭しつづけているのです。
 今日ここに集った人々は百年後には、もう地上にいないでせう。あなただけはここにいます。百年後の青春たちへも、どうかよろしく、というのが、今日ここに集っているひとびとの願いなのです。私の願いでもあります。
 最後にささやかなことを祈ります。この場所のことです。あなたをとりまく桂浜の松も、松をわたる松藾(しょうらい)の音も、あるいは岸うつ波の音も、人類とともに永遠でありますことを。