ファン・ボイチャウの日本に学べ運動
11月5日、早稲田大学の大隈講堂でシンポジウム「日本・ベトナム新時代」が開かれ、100年前に日本に亡命して、日本に学ぼうとベトナムから多くの留学生を送り込んだ「東遊運動(ドンズー)を展開したファン・ボイチャウと日本との関係をテーマに専門化が意見を闘わした。
シンポジウムでは当時、小田原で医院を開業していた浅羽佐喜太郎が私財を投げ出してまで、ファン・ボイチャウを支援したことが、その後の日本とベトナムとの関係を築いたことが強調された。
100年前、短い期間だったが、日本がアジアの見本であり、アジアの目が日本にフォーカスした時代があった。帝国主義時代の初め、日本が西欧の強国ロシアを打ち破った時代、日本はまだ侵略される側にあった。
歴史にもしは許されないが、日露戦争なかりせば、アジアは日本を含めて西洋勢力に席巻されていたことは間違いない。だが戦争に勝利することでアジアの兄貴分としての日本が生まれた。日露戦争はアジアの独立を目指す志士たちを鼓舞したことは間違いない。
だが、戦争の結果として強い立場に立った日本は今度はアジアを侵略する側に回った。悲しいかな、そのことも事実である。
歴史的にいったん、強者になった国家が弱者を救済する側に回ったことはない。
戦後、奇跡的に復興を遂げた日本は、再び強者の立場になったが、平和憲法のお陰で地球規模の戦乱に巻き込まれずに済んだ。強者になった日本に対してアメリカ初め、「応分の負担」を求めるようになった。その契機は1991年の湾岸危機だった。石油王国のクウエートをイラクに侵攻されたことを先進諸国の国々は危機と受け止めた。大きな石油資源を「ならず者」に掠め取られたことは先進諸国にとっては危機だったに違いない。
だが、20世紀のすべての戦争がそうだったように、石油を中心とした資源への権益をめぐる争奪戦だった。先進国企業が開発した権益の維持こそが、先進諸国の最大の橋頭堡だった。
日本は戦前も戦後も有色人種唯一の先進国だった。アジアと西洋諸国の間に挟まれて揺れる特別の国情をを持たざるを得ない宿命にあった。
ヨーロッパは18世紀から約200年間、国境をめぐって戦争に明け暮れた。国境のない世界である欧州連合のたどり着くまで200年もかかったということである。アジアはヨーロッパの愚を再びおかすのであろうか。
夢であろうが、東アジア共同体という発想は間違いではない。中国もインドも韓国も経済的にテイクオフし、20世紀の弱者ではなくなった。日本が強者となる中国や韓国と角を付き合わせれば合わせるほど、ヨーロッパやアメリカにとって都合のいいことはない。
日本の政治家や識者たちは「民主主義という価値観を共有する」というフレーズがお好みのようだが、霞ヶ関の官僚たちに支配されるこの国家は果たして民主主義国家といえるのか、僕は怪しいと思う。最終的にアメリカの意思を決定するのは本当はアメリカ人民ではなく、もっとどこかにあることは誰も感ずいていることではないだろうか。
日本はもう一度、西洋諸国に飲み込まれる寸前だった幕末の日本の思考を取り戻す必要がある。
ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠、1867 – 1940年)
ホーチミンと並ぶベトナム独立の父。日露戦争の日本勝利に刺激を受けて、百年前のルック・イーストともいえる東遊運動(トンズイ)運動を起こし、祖国独立を目指した越南光復会を率いて植民地支配に抵抗を続けた。
十八世紀のベトナムは南北二つの王朝に分かれていた。一八〇〇年代初頭、阮福映がユエに統一王朝を築いたが、統一の際にフランスの力を借りたところから、フランスに浸食を許し、百年もたたずにベトナムはフランスの保護国となった。『ベトナム亡国史』でファンは「ベトナムの財産をただ取りするために、五大州の文明国は悪知恵の全部を集めたところで、思いつくことのできないようなあくどい方法でフランスは苛斂誅求をかさねた」と書いている。
ファンはベトナム北部のゲアン地方に読書人の家庭に生まれ、地域の科挙に首席で卒業するほどの秀才だった。一九〇三年、ユエの王室の王子、彊柢(クオン・デ)侯を越南光復会の党首に仰いで、独立運動に入った。
一九〇五年、国禁を犯してた日本に渡航、多くのアジア主義者の支援を得て、武力闘争より人材育成の必要性を痛感した。ファンは『勧遊学文』を書いて、青年たちに日本への遊学を勧めた。東遊運動である。ファンはまずクオン・デ侯に先頭に立つよう要請し、侯は船の火夫に身をやつし、石炭の中に身を潜めて日本に到着した。侯の日本密航は多くのベトナム青年や知識人を鼓舞した。一九〇五年に始まった遊学は〇八年までに二五〇人を超えた。すべて当時のフランスの警戒網をくぐり抜けた密航である。
彼らは振武学校や東京同文書院などで学ぶ、中には後のホーチミンの側近の一人となるグエン・ハイタンらもいた。クオン・デ侯とファンは犬養毅や頭山満、大隈重信、後藤新平、近衛篤麿ら有力者と精力的に接触しただけでなく、当時、日本を拠点としていた中国の革命家たちとも深く交わり、期待を膨らませた。
しかし、留学生たちの期待とは裏腹に日本政府はアジアの革命家に冷たく、一九〇七年には孫文らとともにファンらは国外追放されてしまい、東遊運動は短期間で終わってしまう。
二人はその後、広東や香港を中心に独立運動を続けるが、ファンは一九二五年、上海でフランス官憲に逮捕、ベトナムに連行され、終身刑を言い渡された。クオン・デ侯は後に日本に再び亡命、流転の日々を送り、再びベトナムに帰ることはなかった。
昨年五月、ファンが、潜伏先の中国から犬養毅元首相の盟友に宛てた未公開の書簡が成田市で見つかった。