人物往来 スバス・チャンドラ・ボース

 1897年、カルカッタ(現コルカタ)郊外の裕福な家庭に生まれる。ガンジー、ネルーのインド国民会議派と袂を分かって急進的な独立運動を展開、第二次大戦ではインド国民軍を率いて日本軍とともにインパール作戦を闘った。終戦直後に台北で飛行機事故のため不慮の死を遂げるが、英国が報復のため行った国民軍裁判でボースは逆に国民的英雄となった。この裁判でインド中が騒然となり、英印軍までもが反旗を翻したため、英国がインドを放棄するきっかけとなったのだ。
 アジアの歴史を描くことは難しい。欧州の史観で書かれることはないにしても独立後、抹殺されてきた人物や出来事があまりにも多い。ボースの場合、インド会議派の議長に二年連続して選ばれたが、ガンジーと対峙したことによって復権には時間がかかった。一方、出身地のベンガルでは「ボースはまだ死んでいない」と信じる人々がいるほど人気が高い。
 特に日本と連携したという事実によって日本の歴史でボースの成し遂げたインド独立への貢献がほとんど軽視されてきたことは残念である。
 カルカッタの大学を卒業後、ケンブリッジで学びインドの高等文官試験に合格したが、官吏への道を蹴ってインド独立運動にまい進した。自治法のもとでカルカッタ市長に選ばれたこともあるが、投獄暦はインド国民会議派の逸材の中でも長い。
 独立の機が熟した時に運動の展開をやめてしまうガンジーの政治手法に反発。1939年、欧州で第二次大戦が勃発すると会議派内にフォワード・ブロックを形成し、武力闘争に着手するが、逮捕される。断食を敢行して自宅軟禁に変わると、カルカッタを脱出し、アフガニスタン、ソ連を経由してドイツに亡命。1941年、日本の参戦で今度はアジアに登場し、投降したインド兵でインド国民軍を組織し、自由インド仮政府をシンガポールに樹立した。
 インパールでの闘いでは三個連隊が参戦、モイランに初めて自由インドの国旗が立った。日本軍の撤兵にあたって、「国民軍がインドの地を踏めば、戦いの形勢は一度に逆転する」と強固に進軍を主張した。
 インパール作戦時の国民軍将兵に与えた演説「Give Me Blood! I Promise You Freedom!!」はインドではあまりにも有名。遺骨は東京都杉並区の蓮光寺に安置されており、命日の8月18日には慰霊祭が続けられている。(萬晩報主宰 伴武澄)

伴武澄 について

新聞記者を定年退職後、高知市へ帰り、旧鏡村でシイタケとクレソンを栽培しながら、はりまや橋商店街で毎週金曜日に露天を商い、その夜に「夜学会」を開催するスーパーおじいさん。
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