戦後外交の最大級の課題だった中国との国交回復から20年。日中間をめぐる国際環境は大きく変わり、中国自身も市場経済を導入するなど国家のあり方を大きく旋回させてきました。アジア経済は、20年前には想像もできなかった「豊かさ」を享受し始めています。政治的自由への道のりはまだ険しいものがありますが、中国も必死になってその潮流に乗ろうとしています。
 日中関係は蜜月時代と冷却期間を交互に繰り返しながら年々拡大しています。交流が深まれば水面下にあった問題も浮上してきます。関係改善に伴い、教科書問題や難民、尖閣諸島、慰安婦問題など、ややこしい課題が表面化することも避けられません、過去の戦争の傷痕を引きずった問題も少なくありません。東シナ海を隔てた政治大国と経済大国であるがゆえの摩擦も生じてきています。冷戦構造を脱却、経済活性化の時代を迎えたアジアのなかで日中関係が及ぼす影響はますます強まっています。
 20年を振り返りながら今後の両国間のありかたを考えたいと思います。
 中国の国際社会復帰の第一歩
 日中国交の樹立は、中国にとっては国際社会へ復帰する大きなステップとなりました。一方、日本にとっては中華民国(台湾)との断交という傷みを伴いました。
 当時の国際社会が認めていた中国政府は台湾にある国民党政権で、中国大陸を実効支配する共産党政権を承認する国家はイギリスなど少数でした。1971年秋の国連総会はそうした認識を一変させ、中華民国に代わって中華人民共和国を加盟させました。
 ニクソン米大統領が日本の頭越しに北京を功問、毛沢束と握手したことは日本国民にとって衝撃的事件となりました。アメリカはベトナム戦争終結のため、どうしても中国との関係改善が必要でした。中国としてもアメリカに接近、対立していたソ連を牽制する戦略を決断したのです。
 日中国交は日本外交の積年の課題でしたが、一方でそうした世界政治の大きなうねりに日本もまた巻き込まれていったという側面も否定できません。しかしながら戦後、日本外交が初めて自ら歯車を回したトピックでもありました。
 72年という時期は中国内政にとっても重要な転換点でした。中ソ対立が激化する一方で、深刻な経済的破綻をもたらした文化人革命の後遺症からの建て直しが急務で、西側の支援を必要としていました、しかし西側の本格支援が出動するまでには毛沢束の死、江青ら四人組の追放を待たねばなりませんでした。
 鄧小平が復活、77年秋の中国共産党大会が経済の改革開放路線を打ち出すのに合わせるかのように、日本の対中経済協力もスタートしました。中国の改革開放路線にとって日本からの資金はなくてはならないものとなっています。
 中国が世界から受け入れている政府開発援助(ODA)の実に半分以上を日本が供与しています。十数年間で、すでに1兆円近い金額の円借款が中国の港湾や鉄道姓設:電力供給といったインフラ整備計画に流れ、このほかにも日本輸出人銀行や民間金融機関を通じて大規模な融資が実施されています。
 中国に対する民間投資では、東南アジアの華僑が件数や金額では日本を上回っていますが、やはり西側ではアメリカとほば枯抗、とくに国営企業の近代化に日本企業の果たした役割は小さくありません。とりわけ亡くなった胡耀邦が総書記だった80年代中ごろには日中間はまさに蜜月時代を築きました。
 日本とすれば中国の経済的安定こそがアジアの安定につながり、ひいては日本の安全保障となるという考え方でした。まず第一に、国民の間に中国に対する素朴な親近感があったことも確かです。しかし。日中国交で中国が第二次人戦の賠償を放棄したことや、戦争中、日本軍が大陸で起こした蛮行に対する後ろめたさがなかったかといえば、これも政策決定の過程や世論形成でまったく影響を与えなかったとはいえないでしょう。
 残る戦争のわだかまり
 中国側にとって日中国交の後も過去の戦争のわだかまりは消えていません。短期間で国交樹立にこぎつけたため、日本の戦争責任を追及する間もなく20年間が過ぎ去ったという思いがあるかもしれません。教科書問題では中国が過敏に反応しましたし、尖閣諸島の領有権をめぐる問題では「来世紀に決着」ということで棚上げになっていますが。大陸棚の石油開発が活発化すれば再燃の可能性もあります。従軍慰安婦問題は韓国だけでなく、中国からも責任問題が問われています。台湾問題は日本政府が「二つの中国は認めない」と
いう中国側の主張を認めていますが、かりに台湾独立ということにでもなれば日本の立場は微妙になりましょう。
 ここ数年では深刻さをましているのは、中国沿岸部からの難民問題や急増する就学生問題です。とくに旧ソ連の消滅による冷戦構造の崩壊に伴い、中国は国際的政治力を相対的に強めてきており、日中間の関係もかつてのように、友好第一だけでは済まされない状況になってきています。今秋の天皇訪中ではまさに戦争責任への言及が焦点となります。
 中国の人権問題は中国のアキレス腱ともなりつつあります 天安門事件ではアメリカを中心に中国に対する批判が高まりました。鄧小平による中国の長期戦略は、経済の改革開放を進展させながら政治的自由も徐々に開放していくという考え方です。旧ソ連や東欧が一気に自由化を進めた方式は選択肢にはありませんから、国際社会との意識のギャップがますます問題となりましよう。
 しかし中国国内の実態はそう簡単ではありません、旧ソ連をみるまでもなく政治的自由を開放すれば、内モンゴル、新彊ウイグル自治区、チベットといった地域が中国から離れることは火をみるより明らかです。しかも97年の香港返還を成功させて、台湾の統合も早期に仕上げる考え方を棄ててはいません。ここらに中国の抱えるジレンマを垣間見ることかできましょう。
 アジア諸国では。政治的自由を享受している国の方が少ないのが実情です。経済的に成功した新興工業国・地域(NIES)でさえ、韓国と台湾が一党独政体制と訣別したのは最近のこと。香港は植民地、シンガポールにいたっては実質上の政治的独裁が続いています。
 にもかかわらず天安門事件以降3年たったいまでも、欧米は中国に対して疑心を棄ててはいません。そうした中で、日本が中国よりの姿勢を取れば欧米から批判の的になりますし、アメリカよりの立場に立てば、中国の国際的孤立化を進めることになります。過去数年間、日本は中国とアメリカとの板ばさみになってきたことも事実です。
 天安門事件の際、当時の三塚外相は「日本には中国の鼓動が聞こえる」といって日米首脳会談に臨み、「行き過ぎた制故措置で中国を国際的孤児にしてはならない」ことを強調しました。一方で中国は、南シナ海の南沙諸島で軍事行動を起こすなどアジアで強硬ともいえる行動に出ています。アジアでも日本外交は指導力が求められています。(共同通信 伴武澄)