7月3日(金)午後7時から

場所:WaterBase

講師:伴武澄

香港返還から23年。中国政府は返還記念日前日の6月30日、「香港国家安全法」を施行した。集会や発言の自由が認められていた香港で「独立」という表現は国家犯罪になる。すでに初日から多くの逮捕者が出た。

中国は1984年、イギリスと香港返還共同宣言を締結するにあたり「1国2制度」を約束した。香港島は阿片戦争の見返りとして1842年、イギリスに割譲された、1860年の天津条約で対岸の九龍地区が割譲地として加えられ、1898年、新界地区が99年の租借地となった。本来、返還が義務付けられていたのは新界地区だけだったが、鄧小平は対英交渉で香港全域の返還を要求、イギリス側もそれに合意した。

80年代の香港はアジアの金融拠点として、目覚ましい発展をしていた。誤解してはいけないのは、香港の主権者はイギリス国王であって、香港市民に一切の政治的権利はなかったことである。サイトの香港総督だったパッテン氏は返還の2年前に民選市議会を設けて、中国側の反発を買った。行政長官は今も昔も市民による選挙で選ばれるわけではない。つまり、香港に集会や発言の自由はあっても「民主主義」が保証されているわけではないということである。

そもそも香港返還は香港人に二つの矛盾した心理的影響を与えた。一つはイギリス統治からの脱却である。植民地支配が終わる喜びは多くの香港人が共有した。片や主権を回復するのは共産党が支配する中国であるという不安も当然ながらあった。イギリス時代に享受していた「自由」と植民地から解放される喜びは二律背反するものであったはずだ。そもそも香港の発展は共産党の支配を恐れ、本土から逃れてきた人々が築いてきたものだったから当然である。

共産党の支配から逃れるため、人々が香港を脱出しては香港の繁栄はありえない。1国2制度はそうしたことから生まれた対応であった。香港の人々に引き続き安心して香港で経済活動を続けてもらうための約束でもあった。決して「国際公約」ではなかった。当時、いわれたことは香港人は政治には関心はなく、お金を稼ぐことのみに興味があるということだったが、20年の年月は人々の考え方を一変させた。彼らが自ら香港人と言うように、新たに政治的自由を求めるようになったのだ。

1997年の香港返還はまずは植民地支配からの脱却であった。今回若者を中心とした動きは中国支配からの脱却という面で新たな動きであるといっていい。20年前、僕が考えたのは「50年もたてば中国自身が豊かになって、自由という考えが広がり、共産党支配がなくなる。つまり中国が香港化する」ということだった。しかし、経済発展で自信をつけた中国共産党は逆に共産党支配を強化し始めている。香港人が今の動きを拡大すれば、多くの少数民族を抱える国家が崩壊しかねない。貧しい時代ならともかく、豊かさを享受するようになれば当然ながら自由を求める声が高まるはずだ。僕にとって、香港人がこれほど自由のために「戦う」とは考えていなかった。経済的自由さえあれば、政治には関与しない人たちだと考えていた。大きな勘違いだった。