人間往来30 日中の扉を開いた李徳全
李徳全(?‐1970)モンゴル族の貧しい家に育ち、クリスチャン・ゼネラルとして名を馳せた軍閥馮玉祥に嫁ぎ、社会保障などなかった時代に貧困層の生活や教育に尽くした。新中国成立後、共産党員ではなかったが女性として初の衛生部長、中国紅十字総会会長を兼任。戦後初の中国代表団を率いて戦犯1000人の日本人を無事帰国させたことで日中史に名を遺した。
ビートルズ並みの歓迎
1954年、羽田空港は中国要人を迎える日本人で埋め尽くされていた。60年代のビートルズ来日に匹敵する3000人が集まったという。一団は中国紅十字総会訪日団。団長は李徳全という女性だった。副団長はその後の日中関係を率いた廖承志だった。もちろん新聞各紙は一面トップに掲載し連日その動向を追った。
日本と中華民国(台湾)はサンフランシスコ条約の翌年、国交を回復していたが、中国共産党率いる中華人民共和国との交流は途絶したままだった。国内では1950年に日中友好協会が設立され、大陸との交流再開を目指していたが、周恩来首相からの熱い思いがこの訪日団に込められていた。特筆すべきは李徳全が携行した中国に残る1000人のBC級戦犯の名簿だった。行方知らずだった戦犯の名簿が新聞紙面に公表されるとその関係者たちから大きな安堵の声が上がった。
日中の新たな架け橋のリーダーとなる李徳全の名はそれまで日本ではほとんど知られていなかった。共産党員でもなくクリスチャンだった女性が閣僚となった経緯など人物紹介に目を見張った。
1950年代前半の中国はまだ共産党独裁が確立されておらず思想的にも多面性があったのだが、日本としてはアメリカとの関係から中国と新たな関係構築は望めない状況だった。そんな不自然な日中関係への国民の不満が李徳全らを歓迎する世論に示されたともいえる。
島津忠承と接触せよ
1950年10月、モナコで世界赤十字総会が開催され、占領下にあった日本からは皇族につながる島津忠承日本赤十字社長が送り込まれた。同じ総会には中国から李徳全が派遣された。李徳全は周恩来首相からは「島津忠承と接触せよ」との指示が伝えられた。民間団体同士の交流から日本との関係改善を目指そうとする周首相の強い意思が込められていた。アメリカの占領下にあるとはいえ、成立まもない中国人民共和国の存在を示すには日本との友好関係が不可欠だという認識だったに違いない。
李徳全は島津忠承との会見の場で、中国に残る日本人3万人とBC級戦犯の帰国を約束した。そのニュースは国内に伝えられ、大きな反響を生んだ。
終戦時の蒋介石主席の国民に向けた「徳を以って恨みに報いる」という声明は今もなお日本人の心に伝えられる。戦争を行ったのは一部の軍国主義者であり、そのことをもって一般の日本人に危害を加えてはならないという強い気持ちは国民党にも共産党にもあった。戦犯を含めて中国に残留していた日本人は国民党が台湾に移った後は共産党の保護下にあった。
その中国残留日本人が帰国できるというニュースは好感をもって全国に伝えられ、日本人居留民の帰国について双方の赤十字が協議することが決まった。1953年1月、日本側の代表団が北京を訪問、3月5日、居留民引き上げに関する日中の共同コミュニケに署名した。その3月下旬、日本が派遣した興安丸などによって3万2000人に及ぶ居留民帰国が始まったのである。
その恩に報いるために実現したのが、李徳全一行の訪日だった。
この訪日を契機に相互交流は経済面でも一気に拡大した。日中間は1951年から日中民間貿易協定の下でほそぼそと続いていたが、1955年3月、中華総労働組合代表団が訪日、4月には中国国際貿易促進会貿易代表団が訪日、10月、東京と大阪で中国商品展覧会が開催された。さらに12月には郭沫若率いる中国文化学術代表団、翌5月、梅蘭芳率いる京劇団訪日など交流は文化面にまで拡大した。
後の廖承志と高碕達之助の名前のアルファベットをとったLT貿易の人的接触も李徳全訪日が引き金となったことを考えると、戦後、日中交流の扉を開いた大きなエポックであったといっても過言ではない。
貧困子弟の教育
李徳全は貧しいモンゴル族の家に生まれたとされる。生年月日は不明。両親は内蒙古の飢饉から逃れるため北京に移り、生活を始めたとされる。一家を救ったのはキリスト教宣教師たちだった。本来、高等教育とは無縁だったはずの彼女は北京の教会付属学校で小学校を終え、ブリッジマン女子校に進み、頭角を現した。そして中国で初めて女性のために設立された華北協和女子大学(燕京大学の前身)に進み、社会に出た。宣教師たちのミッションは貧困家庭の救済だった。特に教育を受けられない子どもたちの救済に力が注がれていた。李徳全もまた、ブリッジマン女子校に戻り教壇に立つとともにそうした社会運動の一角を担って活動を始めた。
やがてその名前は当時、北京を支配していた馮玉祥に入った。先妻をなくした馮将軍との交流が始まり、29歳で結婚することになった。
李徳全は馮将軍の支配地でただちに児童保育や衛生、教育など社会福祉事業をスタートさせた。1928年、求地中学とその付属小学校を設立し、無料で貧しい家庭の子女に教育を受けさせた。1932年には山東省泰山でも小学校15校を設立、1937年には宋慶齢とともに南京で中国戦時児童保育会を創設するなど各地で慈善事業を行った。
馮将軍は中華人民共和国の成立を見ることなく滞在先のソ連・オデッサで船舶火事に遭遇し客死したが、新政府はその未亡人を衛生部長に任命した。
新国家成立後、大臣になった李徳全に関する逸話が残っている。国家の基底で大臣として公用車があてがわれたが、彼女はこれに乗ることはほとんどなく、子どもたちにも使わせなかった。公用車は車庫でほこりをかぶっていたのである。彼女はいつも職場の食堂で食事をし、出張の際も一般幹部と同じ普通席を利用し、普通の宿泊所に泊まった。通勤も徒歩で冬でもコートを着ることはなかったとされる。知り合いに出会うと親しげに話をして、いつも普通の人の生活を気にかけていた。「平民部長」と言われるいわれである。
クリスチャン・ゼネラル
馮玉祥は安徽省巣湖市が故郷。李鴻章率いる淮軍の下級将校の子として生まれ、15歳で軍に入り、清朝軍内で頭角を現し、辛亥革命では灤州で挙兵して北方軍政府を樹立するなど革命側に軸足を置いた。清朝滅亡後に直隷省で募兵し群雄割拠に自ら名乗りを挙げた。
軍閥の合従連衡が繰り返される中、蒋介石の北伐時には西北軍を指揮し、中国最大の軍閥として30万人の軍事力を保持していた時期もあった。
アメリカ。タイムズ誌は「クリスチャン・ゼネラル」と題してトップ記事に掲載したこともある。タイム誌は「聖書を手にあるいポケットに持つ敬虔なキリスト教徒であり、射撃の名手であり、世界最大の私設軍隊の持ち主である。このような人物こそ中国一の強者、それが馮玉祥将軍である」と書いた。
北伐の成功後、当時の首都、南京で中華民国行政院副院長、軍政部長に就任したが、普通の兵士と同じ制服を着て麦藁帽をかぶって勤務した。そしてキリスト教精神をもって賭博場や遊郭を厳しく制限した。兵士たちに聖書を配り、キリストの教えを支配地に伝えたこともある。蒋介石なかりせば、中国全土を支配したかもしれない実力者だった。
そんな馮将軍にとって李徳全は最良の伴侶だったに違いない。馮将軍は蒋介石と協力、反発を繰り返しながら、最終的には延安にあった共産党側に傾斜していった。キリスト教と共産党とは相いれないと思われがちだが、貧しい側につくという点においては一致している。目指していたものが貧困からの脱却だったからである。
馮将軍がある時、李徳全になぜ私と結婚したのか、聞いたことがある。李徳全は「あなたが悪いことをしないように、神が私を遣わせたのです」と答えたという。
新日中時代の幕開け
神近市子は著書な中で、中国の要職についている鄧頴超や宋慶齢など著名な女性の中で李徳全だけは素性が分からないことに疑問を呈し「本当は牧師の子女」ではなかったかと書いている。
ノンフィクション作家の石川好氏が李徳全のことを知ったのは最近のことである。日中交流に尽くしたこの人物について「日中交流の扉を開く」と題した読売新聞のコラムに書いたところ大きな反響があり、李徳全に関する再検証が始まった。北京大学日本センターの程麻と林振江の二人の研究者が中心になって、その検証作業が始まり、『日本難忘李徳全』というドキュメンタリーが中国語で上梓された。この本は同時に日本語訳され『李徳全-「黄金のくさび」を打ち込んだ中国人女性』として出版された。
この本を監修した石川好氏は「この本を一番読んでほしい人は安倍晋三首相と習近平主席だ」と話す。新しい日中時代を切り拓くために、架け橋となった李徳全の功績を今一度思い起こさせてくれたことに感謝したい。(萬晩報主宰 伴武澄)