1923年9月、関東大震災の報に接した賀川豊彦は東京中がスラム化することを恐れ、被害が一番ひどかった本所に活動の拠点を移し、まずテント村を建設した。炊き出しから始め、人々が生活を再開するためのノウハウを総動員した。神戸からは数人の弟子たちが参加したが、幸いなことに東京で多くの協働者を見出した。神田のYMCA、霊南坂教会などの協力も得た。

 イエスの友会の機関誌『雲の柱』によると、賀川は①宗教部②教育部③調査部④社会事業部➄救済部を設け、無料診療所を開設した。宗教部はキリスト教伝道に併せて天幕児童保育を行った。働く親のために子どもたちを預かった。教育部では編み物、裁縫、刺繍などのほか英語も教えた。社会事業部では、職業紹介、法律相談、バラック経営を行った。救済部では、衣類や毛布・布団を提供した。東京市から委託を受けて牛乳配給も行った。

 こうした一連の事業を行う施設をキリスト教国ではセツルメントと呼んだ。行政も地震被害に手をこまねいていた時に、賀川は一早くセツルメントを本所に設営していたのだった。震災からの復興は時間のかかるものばかりだった。

 資金は募金が中心だった。賀川は神戸で多くの講演をこなし募金を募った。賀川の印税も活動を支えた。『死線を越えて』の出版ですでに作家として有名だったが賀川は自らのペンが資金を生み出すことを知っていた。本所セツルメントのすごみは、ボランティアの献身的働きと賀川の声と指先が生み出したことだった。

 賀川は震災被害者の生活支援のため消費協同組合を結成し、低金利で日銭を貸す質屋は中之郷信用組合として法人化された。無料診療所は後に中野総合病院として協同組合経営となった。保育事業は光の国幼稚園となり、教育部は家政専修学校に発展するなど恒久的教育機関として生き残った。自然発生的に始めまったボランティア活動の中から時代を先取りする改革策が相次いで生まれたことも特筆すべきことだと思う。

 新型コロナウイルスの世界的感染危機に際して僕たちができることのヒントは100年前の関東大震災に際して賀川が始めたセツルメント活動の中に多くあるのではないだろうか。