達磨宰相、高橋是清
2.26事件で暗殺された高橋是清の最大の功績は日露戦争時、日銀副総裁としてロンドンで戦費調達に成功したことだ。「達磨宰相、高橋是清」を読んでまず驚いたのはその出生だった。生まれたのは1854年、なんと父親は幕府御用絵師・川村庄右衛門で、江戸芝中門前町に生まれた。母親は川村家に行儀見習いに来ていた魚屋の娘・きん。言ってみれば私生児だったが、持って生まれた楽天的生き方が、内外に是清ファンをつくり、首相まで上り詰める。
生まれが生まれだけに、生後まもなく仙台藩の足軽高橋覚治の養子になる。 横浜のヘボン塾に通って英語力を身に着け、藩命でアメリカに留学する。しかし、渡航費などは着服され、滞在先の夫婦に騙され、年季奉公にさせられる。帰国後は英語教師などをし、1873年に帰国後、森有礼の仲介で文部省に入省、特許庁に転じて頭角を現す。1889年、ペルーへ銀山開発に向かうが、失敗。1892年、高知市出身の川田小一郎に見出され、日銀に入行、とんとん拍子で出世し、1899年には副総裁にのし上がる。戦費調達のためロンドンに渡り、たまたまレストランで出会ったアメリカのクーン商会のヤコブ・シフに認められ巨額の資金調達に成功する。その後、1911年に日銀総裁に就任し、1913年には初めての大蔵大臣となる。
政友会に入って政治家となり、1921年、原敬暗殺後の内閣総理大臣に就任する。日本の歴史史上、日銀総裁、大蔵大臣、そして首相になったのは高橋是清ただ一人である。その後、大蔵大臣を6回経験し、戦中間のデフレ経済を克服するが、2.26事件で暗殺される。つまり、大正・昭和初期の四半世紀の約4分の1は高橋是清が財政を仕切っていたことになる。亡くなったのは81歳。壮絶な人生を送ったことを知った。学歴はヘボン塾のみ。どこで財政金融の知識を得たのか、不思議である。
一番驚いたのは、昭和恐慌時、犬養内閣の大蔵大臣として、時局匡救事業(大規模公共事業)を行い、財源としての国債を大量に発行、日銀に直接引き受けさせたことである。これによって世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた。アメリカがニューディール政策を行ったのとほぼ同時期だった。