終戦の日が過ぎた。再び、自由民権を語りたい。高知県の歴史家、公文豪氏の「植木枝盛憲法草案と日本国憲法」と題した自由民権記念館友の会ブックレットに、植木枝盛の憲法思想が戦後の日本国憲法に盛り込まれた経緯が克明に描かれてある。植木は自由民権運動の最中、25歳で「東洋大日本国国憲按」を書き上げたが、明治政府が国会開設の詔を出したため、当時、日の目を見ることはなかった。この国憲按は明治期の重要文献として一応、伝えられていたが、長く誰が執筆したのか明らかでなかった。

 昭和11年、鈴木安蔵という若き憲法学者が、憲法発布50年のころ、自由民権運動の資料を探しに高知にやってきたことから物語が始まる。鈴木は植木枝盛の自叙伝草稿など重要分権を発掘し、新聞にも大々的に報道された。鈴木が帰京後、植木の遺族から「日本憲法」と題する自筆の憲法草案が県立図書館に届けられ、内容的に国憲按とぴったり附合したことから、植木枝盛の作であることが明らかになった。当時の都新聞は「明治民衆が叫んだ自由の草案現る 闘士植木枝盛の筆」と報じた。鈴木が高知に資料探しに来なかったら、植木枝盛の名前も歴史に埋没していたかもしれない。

 日本が太平洋戦争で敗れ、憲法改正が不可避となったとき、民間で多くの素案が発表された。中でも政府内で起案された改正案が毎日新聞のスクープで明らかになるが、明治憲法とほとんど変わらない内容だった。これを見たGHQは「これではだめだ」と自ら憲法草案に乗り出した。GHQは日本で出ていた草案のほとんどを無視したが、唯一、憲法研究会の出した草案に注目したとされた。この研究会は元東大教授の高野岩三郎ら民間人のグループで、メンバーの中に鈴木安蔵がいて、植木枝盛の国憲按を参考にしたことが明らかになっている。昭和32年に政府が憲法調査会を設け、ほぼ7年かけて日本国憲法の成立過程を調査した報告書にもその経緯が書かれている。

 植木が書いた国憲按は国民に革命権を認めるなど当時としては革新的すぎる内容だった。故安倍晋三元首相は、日本国憲法をGHQがつくったものだと揶揄したが、歴史に埋もれていた植木の国憲按が70年後に、日本国憲法の基本的人権として日の目をみたのだとしたらすごいことではないか。