献身100年から学ぶもの(対談、2011.7.14)
賀川豊彦の「献身〇〇年」というフレーズは実は、「献身二十年」からはじまっています。しかし献身二十年の企画自体は最終的には行われませんでした。戦前の話です。献身五十年のときに神戸に記念館が作られました。「生誕〇〇年」というよりも、「献身〇〇年」というものを大切にしてきた歴史があります。それは、イエス団であり雲柱社であり、イエス友の会などキリスト教の方々が大切にしてきた考えです。ですから「献身一〇〇年」というのは自明のことでした。
孫の督明さんに聞くと、1988年の生誕一〇〇年祭のときには、賀川純基氏が事務局を務めたが、「こうした記念事業は打ち上げ花火で終ってはならない。もっと活動として、運動として、広がりのあるものであるべきではなかったのか」としきりに悔んだそうです。
2004年に亡くなった純基氏の遺言は「献身一〇〇年はお前たちの世代が新たな献身を起こさなければならない。そのスタートの年にしてほしい」でした。
献身一〇〇年記念事業はイエス団と雲柱社が中心となって企画されました。神戸ではイエス団常務理事村山盛嗣(当時)、東京では松沢資料館館長加山久夫の両氏が中心になって進められました。神戸プロジェクトではコープこうべが大変積極的に関わり推進力がつきました。今井重鎮、高村勣の両氏の協力もありましたが、コープこうべ顧問の西義人さんが事務局に加わったことが大きかった。
ワクワク感
一連の活動を支えたのは参加者のワクワク感でした。日本生活協同組合連合会(日生協)の渉外広報の市川智弘さんはこう話しています。
「日生協がこの記念事業に参加するにあたって、業務で関わりはじめたものですが、それだけではなくて、この記念事業は私的な部分にも大きな影響を与えました。明治学院出身で、まったく関係ないというわけではないが、自分の中でもう一度原点に戻っているという気がした。だから献身一〇〇年は公的だけではなく私的にもすごく影響が大きいものだった」。
特徴的だったのはキリスト教と関係のない大学が当初から高い関心を示しました。東京では千葉大学の公共哲学センター、神戸では神戸大学の教育学部です。
千葉大学ではプロジェクトがスタートする1年以上も前から賀川豊彦へのアプローチが始まりました。神戸出身の女性の大学院生が賀川をテーマで発表をしたのがきっかけです。ゼミの一環でしたので、通常はそれほど準備をするわけではないのですが、公共哲学やコミュニティー論などへの関心が高く、神戸の賀川記念館や松沢資料館、本所賀川記念館などを訪ねるなど大変な準備を行った上で発表がされました。
賀川の「事業展開図」が示されると、参加者がみな驚き、公共的な活動・実践という点で賀川豊彦に注目することになり、松沢資料館との交流が始まりました。千葉大学哲学センターは計3回のシンポジウムを開催しました。
私自身は、松沢資料館の加山さんから財団法人国際平和協会会長として参加しませんかという誘いがあり、マスコミの人間で広報に詳しいということで広報委員長になってしまいました。
「グランドデザイナーとしての賀川豊彦」というキャッチフレーズは鳴門市賀川豊彦記念館の田辺館長が言い出したものです。神戸は、2009年をキックオフにして一〇〇年シンポジウムを開催するということを言い出し、東京では何をするべきか、いろいろと考えた末にまずニューズレターを作ろうということになりました。結果的に12号まで出ましたし、近江兄弟社学園の池田健夫理事長やアフラック創業者で最高顧問の大竹美喜さんなど、多彩な面々から寄稿いただくことができました。広報委員会というのはお互いに刺激を与えあい、ガソリンをつぎ込むような場であったというものだったと思います。ワクワク感を共有する場でした。
「共に生きる」というキーワードもよく使われました。賀川督明さんが前面に押し出したものです。督明さんに言わせると「平和・人権・共生というフレーズはちょっと古い。「共に生きる」もよく使われるものだが、多くの人たちに訴えかけるために響きの優しさがある」ということです。
友愛公共フォーラムの誕生
献身事業は当初、東京と神戸でシンポジウムを2回ずつという形でスタートしました。結果的には徳島でもシンポジウム(県民フォーラム)が開催さ、千葉大学での2回の賀川豊彦シンポジウム、鈴木寛文部科学副大臣も講演した友愛公共フォーラムの設立に関わるシンポジウムが開かれるなどどんどんイベントが増えていきました。特に2010年2月には友愛公共フォーラムが正式に発足したことは大きかった。鳩山政権誕生のおかげですが、政治との接点が生まれたのもそのときでした。
面白いのは、準備期間からはじまって献身一〇〇年記念事業が行われている間に社会が大きく変化してきたということです。徳島新聞のコラムニストは「時代が賀川を呼んだ」というフレーズのコラムを書きました。また2009年9月に毎日新聞が「賀川豊彦が2度ノーベル文学賞候補に」というタイムリーな特ダネ記事を掲載して話題を呼びました。想定していなかった勢いが社会の方から投げかけられてきたのです。
日生協の山下俊史会長は、多くの場で賀川について語り始めました。2000万人の生協組織に与えた影響は決して小さなものではありません。日生協の初代会長ですのでずっと昔から知ってはいたのでしょうが、賀川豊彦に帰れという主張を生協運動の代表的存在が語ることは、これまでそう見られるものではありませんでした。
社会情勢の変化という点でいいますと、2008年末から2009年にかけての年越し派遣村なども賀川豊彦を再考するにあたって大きな事件ではなかったかと思います。私も現場を見に行きました。年末冬の寒い中に解雇され、生活の場も同時に追われるような状況ははたして許されるものであるのか、そういった責任は誰にあるのか。我々にとってもそうですが、山下会長にとってこういった「現代の貧困」という問題、社会的不正義の問題も賀川豊彦を再検証しなければならないという思いに繋がったのではないかと思います。
今後、豊彦から何を学ぶのか、そのコンテンツが大事になってくると思います。現代において豊彦から何を学ぶのか、面白い動きになるかもしれません。
出版ラッシュ
献身一〇〇年の開始前には多くの賀川の著作が絶版になっていて、容易に手に入れることができない状態でした。これをどうにかしようというのも献身一〇〇年記念事業の目的のひとつでしたが、予想を上回る形で10冊もの本が出版される結果になりました。
最初の1冊は、三河(賀川豊彦『一粒の麦』を再版する会)で自費出版として再刊された『一粒の麦』だと思います。その頃、松沢資料館の杉浦さんも『死線を越えて』を復刊できないかとPHPに出版の話をもちかけ、何度も足を運んでおりました。実は最初ボツにされていたのですが、もう一度チャレンジしたところ、会議で刊行が決定しました。なぜかといいますと、社会情勢の変化が大きいということでした。時代が「貧困」や金融資本主義の暴走と崩壊など、賀川豊彦の問題意識と重なる形に変化してきたということです。典型的なものですと、若者たちの間で流行した『蟹工船』ブームも大きく影響しています。こうした流れの変化の中で、賀川豊彦関連書籍の再刊にも火がついたのだと考えています。太田出版の雑誌『at』でも賀川豊彦特集が組まれました。これもそうした時代状況が賀川の言葉への関心を生んだのだと思います。
『劇画死線を越えてー賀川豊彦がめざした愛と協同の社会』は評判となりました。シナリオをそれぞれの団体が作るという共同作品でした。農民運動の部分については農協が、生協運動については生協に携わる人が書く、自分たちの歴史を検証していくという学びの中で個々のシナリオができてきたのです。賀川豊彦の生涯を振り返りながら、それぞれの団体がどう関わり、どのような位置づけにあるのか時代背景も含めて意識しながらシナリオの作成に関わっていきましたところが面白い。
神戸イエス団の高田裕之さんのご苦労は大変なものだったろうと思います。コープ出版の『友愛の政治経済学』は世界25カ国で出版された名著ですが。日本語訳だけがなかったのです。キリスト教的記述が多いということで出版社探しに苦労したのですが、「資本主義でも社会主義でもない第三の道」というフレーズは野尻武敏神戸大学名誉教授が各地の講演で宣伝してくれました。
歴史的人物の何々年でこれほどの出版ができたことはないのではないかと思います。
友愛って何
賀川が掲げた「友愛」は鳩山内閣が「友愛外交」などのキャッチフレーズを使うようになりメディアでもよく目にするようになりました。面白かったのは、毎日新聞の記事に「友愛って何?」という特集がありました。焼き鳥屋さんや友愛書店のほか、友愛労働歴史館が採り上げられておりました。私自身は当初『友愛の政治経済学』というタイトルに決まったときには「友愛」という言葉には親近感をもてなかったのですが、鳩山内閣のキーワードとして語られることが多くなったこともあり、てらいもなく「友愛」を語れる時代に入った、これも大きいと思います。・・・彦は扱われていました。館長の山本さんから献身一〇〇年記念事業でコラボレーションしませんかというお話をいただき、お互いのニーズが上手く合致したのだと思います。また学芸員の義根益美さんの『空中征服』研究は素晴らしいもので、当時の社会状況や文壇の相関図と照らし合わせた、新たな視座を提供してくれました。その論文は賀川豊彦学会でも発表されました。
神戸文学館で講演された山折哲雄さんは神戸文学館のほか、徳島でも話されていますし、神戸文学館の企画をきっかけに繋がった関係もたくさんあると思います。
伊丹 賀川豊彦の文学という点では、濱田陽さん(帝京大学准教授)の徳島県民フォーラムでの発表も好評でした。賀川の詩的な情緒的な力が少年時代を過ごした徳島の自然によって培われたことを論じられ、会場は拍手喝采でした。多方面にわたる賀川の活動の根幹、基軸となるものをキリスト教信仰から考える見方が多い中、新しい賀川解釈・賀川像を提示された濱田さんの議論は、毎日新聞の報道などで再び注目されている「賀川豊彦と文学」というテーマを考えていく上で非常に重要なポイントを提示されていると思います。
伴 今年2010年の10月には東京の世田谷文学館で「賀川豊彦と文学」というテーマのシンポジウムが開催される予定です。献身一〇〇年はこういった形で、実はまだ続いているのです。督明 忘れてはいけないのは、東京プロジェクト副委員長の雨宮栄一さんのことです。賀川豊彦三部作(新教出版社より刊行されている『青春の賀川豊彦』『貧しい人々と賀川豊彦』『暗い谷間の賀川豊彦』のこと)を出されていますよね。雨宮さんはキリスト教界において、ドイツの神学者カール・バルトの研究やドイツの神学闘争史研究の重鎮です。もちろん、
東駒形教会にいらっしゃったからというきっかけもあるのでしょうが、なぜ雨宮氏が賀川豊彦に注目するに至ったのか、キリスト教界ではまだ理解されていないようです。
この三部作は、いままで豊彦周辺の歴史が、『死線を越えて』というフィクションや伝記と、史実が混同されてきたことを正した、といっても過言ではありません。献身一〇〇年記念事業が始まる前に、私たちがこの一〇〇年の歴史をどのように受け止めていくかの土台を創っていただいたと思います。
伴 宗教学者である山折哲雄さん、経済学者の野尻武敏さんなども賀川豊彦についてたくさん講演を行われ、語られております。松沢資料館館長の加山久夫さんと合わせてこの3名が献身一〇〇年記念事業でもっとも多くの講演をされたのではないでしょうか。特に、山折さんの場合は朝日新聞や日本経済新聞などいろいろなメディアで賀川豊彦について発言されています。
督明 山折さんの場合は、キリスト教界に対して宗教学者の立場から賀川再評価・再検証の発言を投げかけているのだと思います。80年代に起こった賀川の差別問題など、これまでの長い経緯もありますのでなかなかレスポンスが得られないのもしょうがないのだとは思いますが、検証の必要性については彼らも意識しはじめているのではないかと思います。
伴 ネット上においても、記事やブログの書き込みなどこの1年の間、賀川豊彦に対する言及がたくさんありました。実は、賀川豊彦の言説をめぐる差別問題についても一番盛り上がったのはネット上でのことでした。献身一〇〇年記念事業での企画に参加してどのように思ったのか、ダイレクトに
声が聞けるようになり、情報化のすごさを改めて思い知りました。
(休憩)
伴 キーワードの話を少ししましょうか。先ほど、「グランドデザイナー」というキーワードに言及しましたが、督明さんが語りはじめたキーワードもいくつかありました。「共に生きる」や「コーワーカー」や「痛みに寄り添う」など、思いつくだけでも複数あります。その中で、「ひとりは万人のためには理解しやすいが、万人がひとりのためにはその実践が困難なのではないか。どういうイメージで実践すればいいのか?」という疑問の投げかけも督明さんの発言です。この点については、賀川豊彦の活動を学ぶ上でも大切だと思いますのでご説明いただけませんか。
督明 ひとりがひとりに寄り添うというのは、ケースワーカーが代表的なように福祉の世界ではずっと言われてきました。しかし、現在、みんながひとりを支えるということはほんとに少なくなってきている気がするのです。時たま、海外での臓器移植などの呼びかけなどで、「みんながひとりを支える」モデルを見ることはできますが、日常ではあまり見かけません。家族の中でもそういった倫理が喪失してきているように思います。みんなでひとりのひとを大切にする感覚が失われてきている一方で、標語としては多用されている、インフレ気味になっている。このバランスの悪さが気になっていました。
伴「万人がひとりのために」というものは、戦後の日本が忘れてきた重要なキーワードなのではないでしょうか?耳触りがよくスラスラと読めてしまう一方で、まとまりの意識が欠如していることは明らかです。
督明 稲垣久和さんが最近『公共福祉という試み—福祉国家から福祉社会へ』(中央法規)という本を今年出されました。市民の連帯という角度から福祉について考察しようという新しい試みだと思います。
私は山折哲雄さんから「大和言葉で表現すること」というメッセージを受けましたので、キーワードは大和言葉でつくるように注意しています。「痛みに寄り添う」や「わかちあう」などのほか、最近は「万人」という言葉は使わないで「みんなはひとりのために・・・」という使い方をしようとしています。
「みんなはひとりのために」は、痛んでいるという事実性に立脚した行為を惹起させます。本当に目の前にあるものにコミットしていくというものなのです。分かったつもりになって語っているキーワードを利用するのは危険だと思います。コミュニケーションの中では、お互いに共有されている言葉からはじめていくことがこれから必要になってくると思います。言葉だけで流されてしまわないようにしなければいけません。この一〇〇年の歴史の中で、豊彦たちから何より学ぶべきメッセージは、「実際に事を為している」ということです。
これは本当に大切にしなければなりません。
伴 話は変わりますが、2009年3月7日~9日にかけて行われた神戸大学のシンポジウムに3日間すべて参加させていただきました。ムハマド・ユヌス氏をお招きしたという以外に、学生自身が企画に携わり、長い時間を掛けて進めてきた成果を発表するという、多くの方が一緒に組み立てたこのシンポジウムの形は大変めずらしいものだと思います。
実際に運営にかかわった督明さんはどう感じたのでしょうか。督明 学生たちの研究はもちろん、やはり神戸大学の松岡広路教授をはじめとする先生たちが、皆さん自分の問題として真正面から賀川豊彦という存在について検討してきた、ここが大切だったと思います。
伴 実は、このシンポジウム、ムハマド・ユヌス氏の口からは「賀川豊彦」の名前が出ることはほとんどありませんでした。しかし、国や時代こそ違え、彼の取組・実践を聴いていると賀川の活動がオーバーラップする思いでした。そういう中で学ぶことができた学生はうらやましいなあと本当に思いました。ESDと賀川豊彦、マイクロクレジット、ムハマド・ユヌスという4本柱で学生が学習グループを作って進めていったのですが、賀川の名前がでなくてもいずれの柱にも賀川豊彦の影響を見ることができるものでした。僕が一番感動したのは、ソーシャル・ビジネスという理念を知ったことでした。
今日、ますます日本でも活発になってきているのを耳にしています。ユヌス氏のグラミン銀行とダノンとの提携は有名ですが、今年は、日本でもユニクロのファーストリテーリングとの提携が発表されました。寄付は一回で使い切ってしまうが、ソーシャル・ビジネスは関係を継続させる中で貧困を克服し、豊かさを実現させていく、こういった信念に立って展開される事業には目を醒まされる思いでした。利息はないけど、預けたお金の利息を社会的分配の形で社会に還元していくのがソーシャル・ビジネスです。
協同組合の「協同」はコーポラティヴの意味ですが、ユヌス氏のソーシャル・ビジネスとこの「コーポラティヴ」とは精神としてそれほど遠いものではない、方向性はまったく同じだと思っています。戦後、福祉国家型国家モデルの発展によって、所得再配分や産業育成を目的とした補助金のほか、最近は投資資金まで支援してくれるような時代になってきました。
しかし、一〇〇年前はそういったものはありませんでしたし、だからこそ自助、自分たちで協力していかなければ物事が進まなかったのです。国家への依存心が高まっている一方
で、新自由主義の流行でこれまでに比して国からの支援は先細りしております。今必要なのは、こうした依存心からの脱却、あらためて「協同」の理念を再興していくことが今後の日本にとっても大切になってくるのではないか、そのことを3日間のシンポジウムで学びました。
督明 うれしい感想をいただきましたが、一方で、神戸大学のシンポジウムはあくまでスタートなんです。今振り返ってみると、賀川の一連の運動は「ひとづくり」すなわち教育だったと思うのです。労働運動では労働学校を設立しました、農民運動では農民福音学校を作りました、協同組合運動でも同じように協同学校を作りました。すべてひとづくりなんです。
これはコーワーカーの話と繋がりますが、いろいろな働き手が次々に出てきました。みんなが自立していくための学び、それがESDなんだ、そういった繋がりを意識できるようになったのは実は神戸のシンポジウムが終わってからのことです。
あの場で何ができたのかというのではなく、シンポジウムや研究会はそれを積み重ねていくことで学んでいく、それがESDであり一〇〇年シンポジウムの理念なんだと思います。半年以上準備を重ねてきましたが、神戸の最初のプログラムとしてあのシンポジウムは大変意味がありました。これがあったからこそ、同じく2009年夏に開催しましたプラティープさんを招いたシンポジウムにも繋がっていったのだと思います。
伴 東京で行われた献身一〇〇年記念事業のキックオフと神戸プロジェクトのフィナーレとなる賀川豊彦献身一〇〇年祈念式典の両方に日野原重明さん(聖路加国際病院理事長)が講演されました。
御尊父が賀川豊彦の友人で、最後に賀川をみとったのは日野原さんでした。講演では、医者を志し京都大学に入学したときに一番喜んでくれたのは豊彦だったとお話されました。東京プロジェクトの実行委員長である阿部志郎さん(神奈川県立保健福祉大学名誉学長)、神戸プロジェクト実行委員長の今井重鎮さん(神戸YMCA顧問)も大変なエネルギーで今回の記念事業に取り組まれました。
督明 阿部志郎さんは福祉の領域で長年実践活動を重ねつつも、一方でロジカルに語り明確な指針を示せる方という点で稀有な存在だと思います。阿部志郎さん、今井重鎮さん、日野原重明さん、そして野尻武敏さん、こうした先輩たちの活躍が際立っていたと思います。高齢化社会の中で、老いが疎まれ、狭い領域におしやられている、そうした状況は憂うべきことであり、今日の社会を築いてきた先人たちの言葉に耳を傾ける機会が多くもたれたことは、今回の企画に参加した方々にとっても特に大切なメッセージになったのではないでしょうか。
伴 そうですね。神戸プロジェクトのクロージングでは日野原、今井、野尻の三氏による鼎談「賀川豊彦の何を継承し発展させるか」が行われました。あれはすごい人選でしたね。85歳の野尻武敏氏が、「最若手の僕から」と話し始めるところなど、すごく耳目を惹きつける導入でした(笑)。
督明 変な意味ではなく「遺言」を、後身に送る言葉を、わたしたちは受けとめたいんだということを、神戸大学のシンポジウムにおけるユヌス氏との対談で阿部志郎さんにお願いしましたし、クロージングの御三方にもそうお伝えしました。こういう社会になってほしいという強い願いをもって生きてこられた先輩に伝えてほしい、そういうことを強く思いました。
伴 神戸プロジェクトで羨ましく思ったのは、シンポジウムなどが開催されると必ず知事や市長など自治体の首長が参加されるということです。東京ではそういうことは想像できませんでした。東京は政府のニュースがメインです。ですから自治体や地域のニュースはどうしても翳んでしまいます。一方で神戸のメディアはローカルなニュースを紙面に大々的に登場する。同じことは徳島でも言えます。地域のニュースが埋没する東京よりも、こうした地方都市のほうが何かプロジェクトを立ち上げる際にはやりやすいんじゃないか。東京でやれば、東京に集まればいいというのは大間違いであり、東京から発信すると全国・世界に情報が共有されるというのは勘違いなんだなと実感しました。この1年で神戸において賀川が大切にされている、神戸市民さらには地方行政官の頭の中に賀川の実践が記憶されている、これが東京と神戸との違いなんじゃないでしょうか。
督明 神戸で感じたのは、同じ人が違う領域に多重的に帰属している。いくつもの領域に足場を持っている。学校の理事や福祉の理事など、本来は別々の団体において同じ知人と出会う。東京ではそういったことはない。みんなスペシャリストばかりだという印象を受けます。神戸ではそれぞれの団体に参画している人はより大きなヴィジョン、地域のまちづくりといったようなヴィジョンから各団体の取り組みを発想している。
学校だってそうです。学校も学校教育だけではなく地域を念頭においた形で将来を描こうとする。関西学院大学などよい例です。震災のときに彼らは地域の再生に尽力しました。これは大学の役割を学校教育という機能に限定するようなスペシャリティを設定しないからこそできることです。こうした多重的な帰属があるからこそお互いが顔見知りになる、良く知っている。だからこそ、市役所や県庁の職員から首長までそれぞれ意識をもっているのだと思います。神戸に根づいているそういった特徴はもっと認識されていいものだと思います。
伴 神戸で生まれ、青年として新川の活動に身を投じた賀川豊彦、その事業や足跡への神戸市民の関心の高さはこちらにきてひしひしと感じました。
督明 コープこうべは「豊彦は生協の父」というフレーズに続き「母は組合員」とする、そういったマインドが醸成されているのです。このことが世界最大の単一生協を生みだした土壌なのだと思います。
伴 今回のプロジェクトの中で、もっとも都道府県を横断する取組を行ったのは日生協だと思います。実際にはどのような広がりがあったのでしょうか。
市川 講演会やシンポジウム、上映会、パネル展など多くの記念事業を行いましたが、参加総数は全国でのべ3万人ほどになります。都道府県別でいいますと、現在42都道府県で川豊彦の講演会などを開催しております。2009年は終わりましたが、現在も各地域からのニーズがありますので、引き続き賀川豊彦の活動を紹介する企画を予定しております。
督明 それほど多くはありませんでしたが、今回の記念事業に複数の企業が参画されたということも見逃せません。オリジン電気商事会長の山口政紀さんの御尊父は大阪共益社の出身で、豊彦の実践とともに歩んでこられました。豊彦の運動を支えたひとりであるオリジン電気創業者の後藤安太郎氏と意気投合し、ハンセン氏病患者のために働きました。豊彦たちの事業は豊彦の印税収入だけではなくこうした有志の企業家たちが運動全体を支えていたのだという歴史を押さえておかなければなりません。リズム時計もそうです。今回のプロジェクトでもそうした企業が参画してくれたことが大きな支えとなったことは言っておかなければなりません。話が逸れてしまいますが、今思いついたので言っておきます。外からあったインパクトの話です。先ほど出た賀川のノーベル文学賞候補のニュース以上に私にとって衝撃的だったのは、2012年を「国際協同組合年」とするという昨年12月に行われた国連総会の決議です。この話はほんとうに記念事業のプロジェクトを未来に繋げていく可能性が大きく広がった、この記念事業が意味あるものだという確信を感じさせ
るものでした。
市川 2011年はコープこうべの創立90周年、日生協の創立60周年の年にあたります。再来年の国連協同組合年に向けて継続的にステップアップすることができれば理想的だなと思います。
督明 コープこうべは世界からも注目されています。特に組織を女性たちが作っている協同組合の代表的存在は日本の生協であり、コープこうべなのです。コープこうべは140万人の組合員からなる組織ですが、1000人いる総代の99%が年1回の総代会に出席します。毎年ですよ。こうした協同組合運動におけるコープこうべの特質は世界に広げていく価値のあるものだと思います。形だけのものにならず、つねにエキサイティングな総代会が行われる、こういった文化があるからこそ職員もいいかげんなことはできないのです。「みんなで作っていく組織」というのが、口先だけではなく実際に運営されている、それがコープこうべなのです。
そういった意味では、協同組合運動だけではなく、千葉大学の公共哲学センターが言っているように、「公共社会」というものをみんなで考えていく大きな枠組みのひとつとして協同組合が存在すると考えるべきではないか。それが、国連が「国際協同組合年」を制定した大きな理由なのではないでしょうか。
この記念事業がなかったら、2012年の迎え方も全然違っていたでしょう。2009年は本当の意味で力強いキックオフになったといえるでしょう。
市川 この間、他の協同組合関連団体の方とお話したのですが、世の中全体、そして協同組合も含めて商売に走りすぎたんじゃないか、金融危機の大きな破綻などといった近年の社会情勢の変化もあり、改めて理想や理念を語らなければならないんだということにようやくみんなが気づいてきたんじゃないか。それが、この献身一〇〇年と絶妙なタイミングでマッチした、献身一〇〇年と出会った、だからこそ大きなうねりになったのではないかと考えています。
伴 では、献身一〇〇年記念事業をうけて2012年の国際協同組合年に繋げていくためには、どういったメッセージを出せばいいんでしょうかね。
督明 私がいま思っているのは、「みんなはひとりのために、ひとりはみんなのために」というフレーズ、これを国際協同組合年に伝えていきたい。それと「公共」ということ、みんなで考えていくということ。記念事業では、いろんなキーワードが使われましたが、「考える」という事柄に関して言えば、神戸大学の「ESD」と千葉大学の「公共」というそれぞれの大学が研究教育のテーマとして設定された二つの概念が重要だと思っています。こうしたキーワードを私なりにおきかえてみて使っているのが「みんなはひとりの・・・」です。
伴 いいですね。具体的な企画案としても十分に落としこめるようなキーワードですし、協同組合や企業、大学、市民などがともに考えていく大きな道筋が描けるものになっていると思います。献身一〇〇年を機会に実現できた新しいネットワークをこれで終わらせず、さらに発展させていく。まだ実践は少ないのでしょうが、これからまだまだやるべきことは多くあります。たとえば、何かソーシャル・ビジネスを立ち上げたいという者がいた場合には、みんなで知恵を出し合い、協同で新しい世界を切り開いていく、そういったネットワークがこれからの日本社会にとって大切なものになってくると思います。
督明 今回の献身一〇〇年記念事業のひとつである「賀川賞」について少し話しましょう。12月の記念式典で、7団体と8人の個人に賀川賞が贈呈されました。共栄火災海上保険株式会社の「バレンタイン・チャリティ」は、女性社員有志が「義理チョコをあげたつもり、もらったつもり」でその金額をバレンタイン・チャリティとして募金する活動です。1993年から毎年続けられているもので、17年間の累計で2300万円がNGO団体を通じて西アフリカの自立を促す活動に回されています。同じ趣旨で衣類などを海外の難民キャンプに送る「クリスマス・チャリティ」でも共栄火災海上保険会社は賀川賞を受賞することになりました。病院や老人保健施設などでボランティア活動を行うグループ「もちの木」や、高齢者や障害者などに対し地域での助け合いサポートをおこなっている「神戸助け合いネットワーク」、長年にわたる地域の隣保館としての役割を担いつつ、行政を動かすという先駆的な実績をあげた「愛隣館研修センター」などが受賞されました。
こうした小さな「ともしび」が社会全体を明るくすることが賀川賞の希望です。多くのひとが賀川賞を受賞してほしいのです。賀川賞は献身記念事業で創設されましたが、今年だけのものではありません。先ほどもお話しましたように神戸では「一〇〇年シンポジウム」という掛け声の下、毎年なにかを積み重ねていきたいと考えております。これに合わせて賀川賞の贈呈も続けていく予定です。献身一〇〇年のように規模の大きなシンポジウムを毎年開くことはできませんが、小規模でも継続していくことが大切です。幸い、2009年の後半から、あるいは2010年になってから関係が強くなったグループがいくつもあります。こうした新しい力とも協力しあいながら今後も取組を続けていきたいと思います。
督明 話はかわりますが、これまで記念事業に関わる取組をとりあげてきましたが、なんといってもThink KAGAWAを中心としたネット上での活動、広報を含めた意味でのこうした活動が盛り上げを大きく支えたと思います。
伴 ありがとうございます。Think KAGAWAを運営している者として気恥ずかしいのですが、何人かの人は毎日クリックされているので、そういった重複を考えてもおそらく数万の人がサイトにアクセスしてくれていると思います。手前みそになってしまいますが、あれは個人のブログだということが大事なんです。私の主観で書いていますから、思い入れというのが前面に出ます。一般に公式サイトというのは角がとれてまんまるになってしまいます。しかし、シンポジウムにせよ講演会にせよ、私が訪れ実際に感じたことをそのまま反映できる、間違いがあっても生の声が届くことが読者を増やしたのではないかと思います。また、大変でしたが毎日書くことも大きかったです。シンポジウムの翌日には概要や感想などをアップする、そうした速報性が個々の記念事業に参加できなかった方にも臨場感を共有してもらえるような作りになっているのだと思います。
海外についての話もしましょう。2009年の4月11日、ロサンゼルスのアームストロング劇場で映画『死線を越えてー賀川豊彦物語』の上映会が行われました。古屋安雄氏の講演が同時に行われ、海の向こうの多くの方に賀川豊彦の活動を知っていただく機会を作ることができました。250人の定員のところ、すぐに定員に達したということです。この映画に英語版字幕が入っていることも大切です。すでにこのアームストロング劇場での上映以降にもニューヨークの日米協会主催で上映されるなど、アメリカ国内で何度か上映会が開催されているそうですし、字幕付きDVDということですから個人的な上映会運動も行われていると聞きます。韓国で10月27日、ソウル市の青於藍(チョンオラム)アカデミーで開催された「賀川豊彦牧師社会宣教献身100周年韓国シンポジウム」も大成功でした。これは、林啓介『賀川豊彦ー時代を超えた思想家』(阿波銀行)の韓国語版翻訳出版を記念して行われたものです。韓国生協の元運動家の金在一(キム・ジェイル)牧師が翻訳されました。韓国のメディアでの採り上げられ方もすごかったと思います。多くの新聞社がこのシンポジウムの記事を配信しています。連合通信という韓国の通信社は会場から速報し、まだシンポジウムが続いているのにすでに配信されていたりしました。韓国国内はもちろん、日本語でも配信されているのです。賀川豊彦の本を検索すると、『死線を越えて』からはじまって、ハングル語で読める本もたくさん出ています。今回は、林啓介氏の本と、さらに『友愛の政治経済学』が新たにハングル語版で出版され読めるようになりました。賀川の『キリスト教入門』も訳されているようです。また、上海にある復旦大学の劉先生?がシルジェンの『賀川豊彦―愛と社会正義を追い求めた生涯』(邦題名)を中国語に翻訳されました。
市川 私個人として感動的だった企画に東京プロジェクトによる記念事業の一環として、共栄火災海上保険株式会社、社団法人全国労働金庫協会、全国共済農業協同組合連合会、全国労働者共済生活協同組合連合会、日本コープ共済生活協同組合連合会、日本生活協同組合連合の6団体で11月28日に開催されたシンポジウム「賀川豊彦とともに明日の日本と協同組合を考える」があります。多くの方に参加いただきました。
伴 講演いただきました木山啓子さんが事務局長を務められているJENというNGO団体は本当にすごい活動をされているようですね。アフガニスタンやイラクといった世界各地で難民や被災者に対する緊急支援や生活インフラの再構築を行っています。JENの年間予算は6億にも達すると聞いています。日本でこれほどの規模の国際NGOはあまり聞きません。
督明 4月29日、明治学院大学で行われた東京プロジェクト主催のシンポジウム「賀川豊彦と友愛社会の未来」に登壇された荒川朋子さんが副校長をされているアジア学院の活動もすごい。アジア学院は賀川豊彦がはじめた農民福音学校とも関係のある農村伝道神学校からはじまっています。アジア・アフリカなどの農村地域から農村開発従事者を学生として招き、自国のコミュニティーの自立を共に目指す指導者を養成しています。1973年の創立以来、この学院を卒業した学生は52カ国1095名にのぼります。
伴 松沢資料館の杉浦学芸員が来られましたので、最初に出た出版の話についてなど、色々と裏話も含め、詳しいところをお話してもらいましょう。
杉浦 最初は5年くらい前の話になります。学生時代からの友人であったPHP出版編集部の前田さんとたまたまお話する機会があり、私が牧師になった話や、現在、賀川豊彦記念・松沢資料館でも働いているという話をしたところ、彼の出身が淡路島で賀川豊彦について良く知っており、大変話が盛り上がりました。その後、専任の学芸員になった時に挨拶に伺いましたら賀川豊彦の主要著作までもが絶版でみんな手にとることができないという話をしましたら、価値のあるものだからぜひ出版の企画を考えようという話になりました。
最初は、70年代にPHPから出ていた賀川豊彦の伝記「あゆもう・・・と一緒に」という児童向け書籍の再販というもので考えていたのですが、やはり代表作である『死線を越えて』、これを出すべきではないか、多くの人に目にしてもらうべきではないか、という話になりました。この提案はこちらではなくてPHP側からいただいたものです。非常に嬉しくなりました。実は企画の採用は難航していたのですが、『蟹工船』ブームやリーマン・ショックなど、世相の変化が出版への後押しとなりました。
実は、出版にあたっては督明さんの貢献もありました。もともと、『賀川豊彦全集』を底本とする予定でしたが、督明さんから、徳島の鳴門市賀川豊彦記念館が自費出版の形で刊行した最新版の『死線を越えて』を底本とされるのがいいというアドバイスをいただき、仲介の労をとっていただきました。この鳴門記念館の版は、国文学者でもある田辺健二氏(鳴門市賀川豊彦記念館館長)が編集し、完成度の高いものとなっていました。様々な方に協力いただいた結果が結実してPHPからの出版になったのです。
督明 PHPから出版されたときには賀川豊彦の作品には著作権がありました(著作権は通常作者の没後50年保護される。2010年は賀川豊彦没後50年にあたる)。一般的に、著作権は排他的になるものですが、今回、鳴門は鳴門で刊行しているのですから、普通に考えると作ってほしくないという気持ちが生まれるはずです。しかし、今回の出版に鳴門市賀川豊彦記念館はよろこんで協力してくれました。こうした関係性や意識の共有が献身一〇〇年記念事業の盛り上がりを支えたのだと思います。
伴 『乳と蜜の流るゝ郷』についても、杉浦さん、経緯をお話しいただけますか。
杉浦 舞台となった福島県のJAに『乳と蜜の流るゝ郷』出版の話が届き、旧版当時の協同組合運動の精神をあらためて学ぼうということになったそうです。そして、11月に開催された大会で、地元ラジオ局のアナウンサーに『乳と蜜の流るゝ郷』を朗読してもらったところ、出席者は深い感銘を受け、自分たちでできることを考えました。
あるJAでは、協同組合の学習会を支店ごとに開き、『乳と蜜の流るゝ郷』をテキストにして意見交換をしたそうです。700名の役職員全員がです。さらに地元新聞とタイアップして『乳と蜜の流るゝ郷』の読書感想文を募集したところ、20代から70代までの幅広い層からの応募があり、その内容の多様さに選考委員は大変悩んだと聞いています。
実は今回だけではないんです。1988年の生誕一〇〇年記念事業でもたしか演劇でしたか(すみません記憶があいまいで)その時にも福島の人たちは精力的に活動されたそうです。
同じ家の光協会から出版されている『劇画死線を越えてー賀川豊彦がめざした愛と協同の社会』の制作過程もすごいんですよ。作画を担当された藤生ゴオさんは、とにかく完成度の高い作品を描かれる方で、一度に二つの仕事を引き受けるということはないそうです。今回の劇画の執筆期間、この仕事だけに集中され、時代考証も含め賀川豊彦本人や関連する文献を厖大に読み込まれてから書かれています。松沢資料館に来られたときは、「賀川服」の実物を見たいということで加山館長が実際に着用してポーズをとったこともあるんですよ。伴 ロサンゼルスの上映会についてはどういう経緯だったのでしょうか。
杉浦 ロサンゼルスでの上映会開催を実現させるにあたって有元美佐子・ヘンソンさん(芝浦工業大学創立者有元史郎氏の三女)の御尽力がありました。ヘンソンさんはもともと映画『死線を越えて』を制作した山田火砂子さん(映画監督・現代ぷろだくしょん代表取締役)とお知り合いで、山田監督の『筆子その愛ー天使のピアノ』(知的障害者の福祉施設・滝乃川学園の初代園長石井亮一の妻、石井筆子の伝記映画)のアメリカでの上映にあたって協力された方です。今回の献身一〇〇年記念事業にあたって山田監督が賀川豊彦の映画も上映してもらえないかとヘンソンさんに打診されたそうです。その後、ヘンソンさんが来日された時に、日系人で活躍された、くすもとろくろうという方の資料を集めているということで、時代的に賀川豊彦と近かったこともあり、何か関連資料はないのかと松沢資料館に来館されました。その時代ですと古屋安雄さんの御尊父である古屋孫次郎牧師が当時ロサンゼルスに居たかもしれないという話でその場でお電話しましたら、よく御存じだということで、ヘンソンさんと古屋安雄さんの交流がはじまりました。
そうした関係の中で、映画『死線を越えて』の上映会の企画がまとまり、500名収容のホールで2回、計1000人が来場されました。さらにもう1箇所サンフランシスコでも2回、計4回上映していただくことになりました。古屋さんはこの上映に際し、渡米し記念講演を行っています。ヘンソンさんはその後も各地の教会に向けた上映の呼びかけを行ってくれています。短縮版DVD100本をあちらに送っておりますので、これから思わぬ反響が出てくるかもしれません。
督明 2009年の献身一〇〇年記念事業も一区切りがついて杉浦さんとしてはどういうお気持ちですか。どういった感想をお持ちでしょうかいうのが事実なのですが、私としては、松沢資料館学芸員という光栄な職、天職と考えておりますから、使命感をもって取り組めたというのがやはり一番大きかったと思います。これまでいろいろと難しい問題もあったかもしれませんが、これから時代を考えながら賀川豊彦の名前を思い起こし、あるいは新しく知ることで、もう一度「たすけあい」や「本来の人間性」に気づく機会になればなあと考えております。私としても賀川豊彦をひとりでも多くの人に知っていただき、それに感化された人が新しい時代の社会作りのヒントにしていただければ、そういう気持ちです。
また、今回は人材が豊富だったということもあります。この間加山館長と話しておりましたら、1988年の生誕一〇〇年祭と比べた盛り上がりが話題になりました。前回は、キリスト教界の方々が中心になって行われましたが、今回は情熱や求心力など、多くの、多様な団体が参加して取り組みが進められた。今回の記念事業が開始されるまでは、ここまで多岐にわたる人びとが関わる、これほどの広がりをもつ結果になるとは想像できませんでした。
督明 杉浦さんの仰る通りだと思います。賀川豊彦の再評価、賀川豊彦再考の動きがこれからの時代のキリスト教界にも新しい風を吹き込むでしょう。
献身一〇〇年記念事業全体を振り返ると、キリスト教界だけではなく、所属や年齢、地域もふくめ、さまざまな、多様な人びとが参加し、広がりをもった運動になったわけですから、そこから生まれた対話や実践のなかで新しい価値、新しい理念が生まれてくる可能性があるのではないか。そう思います。
最後に、日に陰に2009年の賀川豊彦献身一〇〇年記念事業に携わっていただいた方々、記念事業に興味をもたれて各種イベントに参加していただいた方々に感謝をしたいと思います。同時に、あくまで2009年で終わるのではなく、継続していく、これからに繋げていくということが大切です。せっかく広がったネットワークですからこれからも皆さんで新しい企画や対話を進めていきましょう。
2012年、国際協同組合年という取り組みが私たちを待っているのですから。