被爆したラザク氏とルック・イースト
一九八二年、マレーシアのマハティール首相がルック・イースト政策を打ち上げ、日本へ派遣する研修生のためマラ工科大学で日本語予備教育が始まった。そのプログラムの責任者として抜擢されたのは、マレー語講師だったがアブドゥル・ラザク氏だった。戦前に南方特別留学生として日本に学んだ経歴が評価された。マレーシアは人口当たりの日本語学習者が世界で最も多かった時期があり、毎年数百人の若者が日本に送り込まれた。
留学生に抜擢
ラザク氏は一九二五年、マラッカで生まれた。家庭の事情でクアラルンプールに移り、中学卒業後、一五歳で教師見習いとなった。教師を天職と決めたラザク青年の人生を変えたのは第二次大戦だった。一九四一年一二月八日、日本軍は真珠湾攻撃と同時にマレー半島の上陸し、破竹の勢いで半島を南下した。翌年二月一五日、イギリス軍は日本軍に降伏し、イギリスのアジア支配が終わった。
軍政下に日本はマラヤでの教育を再開したが、日本語教育が必須となったラザク青年は五月、西警備隊日語学校に入学し、三カ月の過程を終えた。過程終了後、ラザク青年はセランゴール州文教科の日本語担当に任命された。イギリスの統治との違いに「心の底から言い知れぬ喜びが沸き上がって来る気持ちだった」(オスマン・プティ著「わが心のヒロシマ」)という。それから三カ月、今度はマラッカにできた馬来興亜訓練所の訓練生に抜擢された。一年の日本語研修の後、いったんクアラルンプールに戻り、セランゴール州文教科で日本語教育監督官となった。三か月後さらにマラッカの訓練所の帰り、日本への留学生に選ばれたのである。マラヤからの南方特別留学生第二陣の四人の一人となった。
一九四四年六月、四人は汽車でシンガポールまで行き、戦艦で門司港に着いた。数日後、汽車で東京に到着、ラザク青年の外国生活の第一歩が始まった。大都会東京の第一印象は「大きい」「戦争の中にいるという印象はなかった」(同)というものだった。
彼らは目黒にあった国際学友会の宿舎に入り、他のアジアからの留学生と合流した。アメリカ軍による空襲はまだなく、留学生たちは特別待遇だったから、食糧に困ることもなかったようだ。生活習慣の全く違う日本で彼らは順応し、将来の国づくりに働くという大きな夢を胸に学業に励んだ。
東京空襲
東京での平和な日々は長くは続かなかった。翌年、アメリカ軍が沖縄に上陸し、沖縄が陥落すると、B29による東京空襲が始まった。空襲警報が頻繁にしかも夜中に鳴るようになり、やがて昼間にも爆撃機が編隊を組んで東京の空を覆った。寮の食事も一変した。ご飯に大豆が交じり、留学生たちが庭に栽培したカボチャやジャガイモが食卓に乗り始めた。授業は警報のサイレンが鳴る度に中断され、平和な学業の空間は完全に失われた。アメリカ軍の爆撃に呼応して高射砲が打たれるが、空中ではじけるばかりだった。
ある時、ラザク青年らは、ゼロ戦が次々と飛び立っていく光景を目にした。B29の編隊に突撃するゼロ戦を見て人々は「カミカゼ」と叫んでいた。自爆攻撃である。ラザク青年はささやいた。「何と勇敢なんだろう」「その任務が死を意味することを知っていながら」。そしていつの間にか「万歳」と周りの人たちに唱和していた。
アジアからの留学生たちにとって、自分たちの上空に爆撃機が飛来して次々と町を破壊する状況は想像を絶していた。イギリスの統治下でも経験したことのない恐怖であったと思う。ラザク青年にとっても、イギリスをマラヤ半島から駆逐した「勇ましさ」は見聞きしたはずだが、それをはるかに上回るアメリカの圧倒的な軍事力を目の当たりにしたに違いない。それでも彼らの学業への意欲は盛んで、不思議なことに最後まで日本が敗戦するとまでは考えていなかったようである。
広島行き
一九四五年三月、留学生は国際学友会日本語課程を修了し、それぞれ目的の大学や陸軍士官学校などに進学した。ラザク青年は広島文理科大学教育学部を専攻することになった。一九歳だった。広島へはブルネイのパンゲラン・ユソフ、スマトラのアリフィン・ベイ、ジャワのハサン・ラハヤも派遣された。空爆は激しさを増す東京から離れることに誰もが喜んだ。
広島に到着した四人は市内大手町の興南寮で、第一陣の留学生五人に迎えられた。広島市は平和な町だった。それまで一度もアメリカ軍の空襲を受けていなかった。空襲警報は鳴るものの、B29の編隊はただ上空を通過するだけだった。
留学生の間でなぜアメリカは広島を空爆しないか議論があった。「アメリカ人の親戚が多く、彼らを被災させるわけにはいかない」「広島は美しい町なので、日本を占領後、自ら楽しむため残しておく」。留学生たちに確固たる情報があったはずはない。どれも日本人が話していた受け売りである。原爆投下の標的とするアメリカの作戦の一つだったことは後に分かることになる。
原爆
一九四五年八月六日午前八時すぎ、エラノ・ゲイが広島市上空に現れ原爆を投下した。ラザク青年は、授業のため寮を出て、広島文理科大学の教室にいた。鮮烈な記録を「わが心のヒロシマ」から記したい。
「その瞬間、目もくらむ閃光が、ピカーッと走った。その光は異常だった」。続いて、「それまで聞いたことのない強烈な爆発が続いた。地震のように地面は振動し、木造校舎の床が揺れ動き、壁がばきばきとすさまじい音をたてたかと思うとごうっと崩れ落ちた。建物全体が一瞬にして倒壊してしまった」
がれきの下にいたラザク青年と友人のパンゲラン・ユソフはかろうじて助かった。寮に戻ると建物はなかった。がれきの中からサイド・オマールとアディール・サガラを助け出した。隣の会社の女性事務員も助けた。
救出を続けていると次にやってきたのは巨大な炎だった。「突如、雷のうなるような轟音が聞こえてきた」。元安川の向こうを見ると「火柱が渦を巻いてやって来るではないか」「炎は凄い勢いで迫り、手当たり次第に襲いかかり、なめつくしていく」
留学生たちはたまたま川につながれていた筏に乗って命を永らえた。しかし、原爆は爆風で広島の建物という建物をなぎ倒し、火事が生き残った人々を死に追いやった。そして彼らは放射能による凄惨な被害を目の当たりにすることになる。
彼らは長崎でも原爆が落とされたことを知り、八月十五日の終戦を迎える。イギリス軍の捕虜となり、なぜ敵国に味方したのか尋問された。「僕らはただ、勉強するためだけに派遣された」と答えた。彼らにとって日本での二年間、「自分の祖国と国民を裏切るために訓練を受けたことは一度もなかった」という確信があったという。クアラルンプールの母はラザク青年は亡くなったと考えていたが、終戦から三カ月後、無事に帰還した。
「わが心のヒロシマ」は外国人による数少ないドキュメンタリーともいえる。一九八七年、ラザクさんの体験談をもとにした物語としてマレーシア語で出版された。当時、広島には多くの外国人がいた。南方特別留学生だけではない。アメリカ軍捕虜、朝鮮人、中国人、亡命ロシア人などの被害の全体像は今も正確に把握されていない。ラザク青年もユソフとオマールという同胞を失った。
戦後
帰国したラザクはスルタン・イドリス師範学校で学び、中学教師、師範学校講師、テレビのジャウィ教育番組の講師等を経て、一九七八年にマラ工科大学のマレー語及び日本語の講師となる。マハティール首相が提唱したルック・イースト政策の一環である産業技術研修生の予備教育が一九八二年に同大学で開始されると、そのプログラムの責任者に抜擢される。以後、一九九八年に同大学を退職するまで、日本語教育者として、また日マの架け橋として活躍した。
国際交流基金クアラルンプール事務所に勤務した伴美喜子氏が書いたブログ「Mikiko talks on Malaysia」のラザク氏に関する記事を引用させてもらう。「時代、仕事上でのおつきあいが深かったので、何度も先生の希有な経験について、直接話を聞くチャンスがあった」「先生は、日本語は美しく、音の響きがよくて、繊細さのある言語だという。帰国後は暫く日本との距離を置かざるを得なかったが、クアラルンプールに日本大使館が開設されると、館員向けに自らマレー語教師を買って出たり、自宅で夫人が館員の奥様向けにマレー料理教室を開いてその通訳をするなど、日本語に触れる機会を作る努力を続けたという。だから、マラ工科大学の日本語講師になった時、三〇年以上のブランクがあっても、教えることができたのだそうだ」。そしてラザク氏は「馬来興亜訓練所や日本留学で学んだことが、その後の生き方に積極的な影響をもたらし、『負けずに頑張る精神、困難に挫けない精神』は一生を通じての生活信条ともなった。国歌の斉唱や国旗掲揚を通じて、国を愛することも、日本から学んだ大切な価値だ」と述べているという。(伴武澄。霞山会季刊誌「ThinkAsia」2023 Autumn-winter」