資生堂の元社長、福原義春さんが亡くなった。1986年だったと思う、共同通信社経済部の連載企画で「役員の趣味」というコラムがあった。当時、専務だった福原さんの趣味がランの栽培と知ってインタビューを申し入れた。逗子市内にある自宅に早朝うかがい、話を記事にした。僕の記事によって、福原さんのランのことが知れ渡り、数年後に開かれた世界ラン博覧会の実行委員長に指名された。ランの話を書かなければ、福原さんと昵懇になることはなかった。

90年ごろ、日本がバブルにわいていたころ、福原さんはすでに社長になっていて、経団連のフィランソロピー委員長に選ばれた。この人しかいないという人事だった。アメリカでは多くに企業が社会貢献を社是として打ち出し、芸術などの分野でアーティストや文化団体を支援する歴史を持っていた。バブル経済に浮かれて、社会貢献などという視点はほとんどなかったが、資生堂にはすでに経営の中に「文化」を育てるという因子が組み込まれていた。福原さんは一躍有名人になった。

次に福原さんが注目されたのは、店頭での価格維持のため値引き販売を禁止していた大手化粧品会社がやり玉にあがり、公正取引委員会が動き出した。下町の樋口商店という安売り店が訴えたのが引き金だった。当時の日本は、円高によっても消費者物価が下がらないことが社会問題となっていた。当初、資生堂は「闘う姿勢」を見せていたが、時代の変革を先取りしていた福原さんは、社内の反対を押し切って、小売店に対する値引き販売を認める方針を打ち出したのだった。メディアの矢面に立たされた資生堂は日経新聞と共同通信に対してだけ、社長インタビューを行った。もちろん、僕が取材に当たった。秘書室の会議室には多くの幹部が並んでいて、福原さんはなかなか本音を打ち出せないでいた。取材が終わって、福原さんは僕とエレベーターまで送ってくれた。ようやく二人きりになった福原さんが言った「見ての通り、社長であっても言えないことが少なくないのです。僕は伴さんを信用していますので、思う存分書いてください」。インタビュー記事の内容は忘れてしまったが、エレベーター前の光景だけは忘れられない。

しばらくして、秘書室から「木を植えた人」という本が送られてきた。フランスのプロバンス地方が一人の木こりのお陰で緑を取り戻したというファンタジー的実話をジャン・ジオノが物語にし、各国語に翻訳されてベストセラーとなっていた。福原さんはその本を読んで感動し、社員全員に配り、直筆の手紙も添えた。社員に対して「社会に貢献する人物になってほしい」という思いが込められていた。

晩年、福原さんは精力的に執筆活動に励んだ。多くの本を世に出した。経営論、文化論さまざまだった。京セラの稲盛和夫さんには多くの人が経営を学んだが、福原さんの場合は文化という膨らみがあったように思う。(伴武澄)