1943年、スバス・チャンドラ・ボースは自由インド仮政府を樹立した。日本だけでなく、ドイツ、イタリアの枢軸国に加え、タイ、満州国、ビルマ、フィリピン、汪精衛政権が「国家」として承認した。ボースが政権を樹立できたのは、日本軍がつくったインド国民軍(INA)を継承したからだった。当時、東南アジアには数百万人のインド人が生活しており、仮政府の財政はインド人たちからの寄付と日本からの借款で成り立っていた。ボースの主眼はINAを正規軍として育成することにあり、多くの青年が日本に送り込まれ、陸軍士官学校や航空士官学校などで勉学に励んだ。戦後はインドだけでなく東南アジアなどでそれぞれの分野で活躍した点で南方特別留学生と共通している。多くの留学生は日本を第二の故郷と考えた。

 インド国民軍の誕生

 第二次大戦で東南アジアを守っていたのはイギリスの英印軍だった。英印軍の下級士官と兵士のほとんどはインド人だった。東条英機首相は戦争の目的として大東亜共栄圏を掲げた。日本軍によるマラヤ電撃的進攻は主に英印軍の自壊、つまりインド人将兵の投降によって支えられていたといっても過言でない。シンガポール陥落前にINAが編成され、日本側は戦後のインド独立を約束した。

 チャンドラ・ボースは第二次大戦が始まると、イギリスとの徹底抗戦を唱え、インド国民会議派から離脱し、ベンガルにフォーワード。ブロックを形成した。その影響力を恐れたイギリスはチャンドラ・ボースをカルカッタの自宅に軟禁した。秘密裏に自宅を脱出したチャンドラ・ボースは陸路カブールに逃れ、ソ連を経由してドイツに向かった。ベルリンからイギリスとの戦いを開始したが、インドはあまりにも遠く、ヒットラーとの会見ではインド独立に向けた明確な支援の約束すら得られなかった。

チャンドラ・ボースが光明を見出したのは日本の参戦だった。緒戦で真珠湾でアメリカ太平洋艦隊を撃破、東南アジアでも電撃的にイギリス、オランダ勢を一掃したからだ。ベルリンの日本大使館と頻繁に接触し、日本行きを要請した。空路による移動は不可能とされ、ドイツの潜水艦Uボートで大西洋を南下し、喜望峰を回って日本に向かうことが決まった。

 1943年4月、ベルリンにいたチャンドラ・ボースが日独の潜水艦に乗り継いでアジアに現れた。5月、東京でインド人工作のトップにあったラス・ベハリ・ボースから全権を委譲され、約1万5000人のINAの統帥権を引き継いた。そして10月、シンガポールで自由インド仮政府を成立させた。チャンドラ・ボースは組織の再編に着手し、志願兵の訓練に力を入れ、マラヤだけでなくビルマにも数多くの訓練所を設けた。チャンドラ・ボースは、INAがインドの地に進攻すれば、インド全体が湧き立ち、イギリスをインドから追い出すことが可能だと考えた。そのため、INA将兵の訓練の中心は情報戦つまりプロパガンダに置かれた。

 カデットの東京派遣

 チャンドラ・ボースはイギリスと戦うためには、さらに高度な軍事訓練の必要があるとも考え、士官候補生(カデット)の日本での教育を決断した。1943年9月には厳格な試験が行われ、候補生46人が選ばれ、第一期生として35人、第二期生として10人が翌年2月から東京に順次送り込まれた。第二期生が乗った輸送艦はアメリカ海軍の潜水艦に撃沈され、不幸にも留学生の1人が命を失った。

 留学生たちは東京・上北沢の弘通学院を宿舎とした。士官学校に入るため特別訓練が行われ、日本語、数学、化学、歴史を学んだ。チャンドラ・ボースは航空と海軍の訓練を希望したが、35人が陸軍士官学校、10人が陸軍航空士官学校に入り、アジアの他国の留学生とともに訓練を受けた。

チャンドラ・ボースの留学生に対する期待は大きかった。戦地から常に「息子たち」と呼びかける手紙を送り、留学生たちもチャンドラ・ボースに書簡を送った。「諸君は自由インドの代表である。日本の文化と文明の最高のものを摂取してほしい」と期待感を示した。気候や文化の違いを乗り越え、彼らは厳しい訓練に耐えた。

しかし訓練は不幸にも敗戦により終わりを告げた。留学生を待ち受けていたのは敗戦だけではなかった。チャンドラ・ボースが8月18日、台北上空で不慮の死を遂げたというニュースに接した。彼らのショックは想像に絶するものだったが、そのショックを和らげたのは一人の日本人女性だった。

 日本の母、

 当時、江守喜久子という女性が東京・青山に住んでいた。主人は日活の役員だったから東京でも裕福な家庭だった。戦前の青山から神宮外苑にかけては陸軍の演習所があり、多くの兵隊がそこから戦地に向かった。喜久子さんはそんな兵隊さんたちに紅茶のサービスを始めていた。「1944年のある日、一人の軍人が頼みを持って訪ねて来た。インドから来た45人の若者たちに紅茶を御馳走してやってほしいと頼んだ」。その日をきっかけに喜久子さんとインドの若者たちの交流が始まった。

敗戦の時、喜久子さんは学徒出陣で四国にいた長男を訪ねていた。東京へ戻ると青山の自宅は焼け落ちていた。その焼け跡へドットという名のインド人留学生がきた。国から持ってきて大事にしていた白い靴下二足を差し出した。

「紅茶ありがとうございました。おばさんがこんな風になってしまってお気の毒です。僕は何もしてあげられないけど、せめてこの靴下を受け取ってください。ボクのあげられるものはこれしかないんです」

ドットの訪問がきっかけとなって、喜久子さんの家には、インドだけではなく、各国からの留学生が集まるようになった。敗戦によって自由インド仮政府は後ろ盾を失い給付金もなくなったからだ。病気の青年には医療費を負担し、学費がなくなると身銭を切って助けた。

喜久子さんが亡くなった1978年、朝日新聞の天声人語は江守喜久子さんのことを書いた。

「生涯、アジアの留学生たちの面倒を見続けた人だった」「江守家から巣立った留学生は三百五十、六十人にのぼるという」「留学生に料理をつくらせる。皿洗いをさせる。洗濯物まで押しつける」「そのかわり江守さんはとことんまで居候留学生の世話をした」

それだけではない。東京都杉並区の蓮光寺にあるチャンドラ・ボースの遺骨を長年守り続け、誕生日と命日には慰霊祭を行った。娘の松島和子さんも母親の意思を継いで、資材を投じて関係者の証言集「ネタジと日本人」を編纂、同寺にチャンドラ・ボースの胸像を建立した。蓮光寺で何度か慰霊祭に足を運んだが、インドと日本の関係では必ず、江守喜久子さんの話が出た。インド人留学生にとって喜久子さんは日本の母同然だった。喜久子さんもまた留学生たちを生涯、子ども同様に接した。

留学生たちの戦後

インド人留学生は戦後、江守喜久子さんらに助けられた。11月になって、米軍は留学生をマニラに移送し、さらにイギリス当局に引き渡された。イギリスは彼らを香港スタンレー刑務所に移し管理下に置いた。抑留期間はほぼ1カ月だったが、対応は過酷で食事もろくに与えられなかったという。12月、留学生は船でインドのマドラスに連れていかれ、よく46年2月、釈放された。

当時、インドではINA将兵に対する裁判が始まっていた。デリーのレッド・フォートに裁判所が置かれたことからレッド・フォート裁判とも呼ばれる。英印軍を離脱したうえ、イギリス国王に反逆したことが罪とされた。戦争中、チャンドラ・ボースに懐疑的だったインド国民会議派は弁護団を結成し、「隷属されたる民は闘う権利がある」と徹底抗戦した。

留学生たちは当初、自分たちも罪に問われるのではないかと恐れたが、それはなかった。無罪放免の後、チャンドラ・ボースの兄、サラト・ボースの計らいでジャダルプール工科大学で学び、エンジニアになった人も少なくなく、インド陸軍で将校に上り詰めた人、インド航空のパイロットとなった人もいる。残りはマレーシアやシンガポール、アメリカ、イギリスなどで実業家となるなど多くが人生で成功を収めている。そして多くは終生、江守喜久子さんを日本の母と慕った。

1956年、チャンドラ・ボースに關係した軍人・軍属らでスバス・チャンドラ・ボース・アカデミーが設立され、1959年、チャンドラ・ボース記念館が設立されるに際して、江守喜久子さんはカルカッタを訪れ、留学生たちと旧交を温めた。そしてアカデミー発行の「ネタジ」に書いた。

「敗戦とともに、祖国独立の夢も破れ、連合国の日本占領によって、罪のない留学生たちが銃殺刑に処せられるという噂が広がった。私は驚いて、さっそく官庁を奔走し、嘆願運動を続け、インド留学生を、家の近くのアパートに収容してお世話をすることにしたのです。45人の異国の青少年のお世話をすることは、食糧事情の困難な折とて、並大抵のことではなかった。民族を越えての人間愛というか、一途の信念であったという気もする」

1987年、留学生らの招待でカルカッタでのインターナショナル・ネタジ・セミナーに参加した元陸軍大尉、梅田実氏は偕行社の機関誌「偕行」に「空港には主催者もボース博士直々の出迎えを受け、VIP扱いで税関もフリーパス」と書き、インドの中にある日本人に対する親愛の情は「40年前の大東亜戦争によって培われたインド国民軍と日本軍との間に生まれた戦友愛である」と書き残している。(伴武澄)