御手洗知らずして討幕語るなかれ
穂高健一著「広島藩の志士」を読んだ。これまでの幕末史を覆す数々のエピソードが盛り込まれている。そもそも討幕史に広島藩など出てこない。薩摩と長州の接点もまた芸州御手洗にあったのだ。
古来、帆船の時代から九州と京阪をつなぐ交通路は瀬戸内海だった。江戸時代になって北前船の航路が発達し、大坂は北陸と北海道ともつながった。幕末には各藩が競って機帆船や蒸気船を輸入し、瀬戸内海航路には商船の航行が栄え、武士や商人の乗客が増えた。特に討幕を目指した薩摩や長州藩の武士たちは京都との行き来に頻繁に瀬戸内海航路を利用した。その商船の最大の寄港地が大崎下島の御手洗港だった。当然ながら脱藩した浪人たちも御手洗に上陸して遊郭や料亭で情報交換した。京都は会津藩や新選組など公儀の目が光る。御手洗港の方が安全だった。機帆船を利用して志士たちは集まりやすく、密会に適した港だった。そんな時代背景から御手洗には遊郭や料理店がことのほか発達した。『御手洗を知らずして討幕を語るなかれ』とさえいわれた。瀬戸の灘はどこも潮流が速く、帆船のみならず、蒸気船すらも、潮待ちを必要としていた。御手洗は三方に小島が浮かび、流れのはやい潮流を遮断する天然の良港であった。
御手洗には船越寿左衛門という御用商人がいた。芸州広島藩の勘定吟味役を勤めていた。藩の年貢米は御手洗と宮島に集められ、尾道や大崎上島の海運業者によって大坂の蔵屋敷に運び込まれた。その年貢米は鴻池を通じて相場で換金された。船越は芸州のみならず、長州など他藩の米も安く仕入れ大坂でさばいた。船越が有数の御用商人に上り詰めたのも御手洗あってのことだった。そして鴻池もまた御手洗との貿易を通じて商圏を拡大した。土佐の中岡慎太郎もまた頻繁に御手洗に立ち寄り、船越と昵懇の中だったとされる。中岡の仲介で大和十津川藩の志士に小銃50丁と金1500両を寄贈しているそうだ。
驚くべきことに、御手洗は薩摩の密貿易の拠点でもあった。常時、藩士が脇屋という船宿に陣取り、五代才助がその密貿易の責任者だった。明治になって五代が大阪経済の重鎮となる背景には御手洗を通じた鴻池とのつながりがあったからだった。文久2年(1862)からイギリス、フランス、オランダの船を密航させて、武器弾薬を荷揚げした。慶應3年(1867)、坂本龍馬が土佐藩のために1000丁の最新銃を購入したのも御手洗だった。文久年間、幕府が貿易を認めていたのは長崎、函館、下田の三港だけだったが、どういうわけか御手洗には列強の船が集まっていた。薩摩の島津斉彬公と芸州10代藩主浅野慶熾(よしてる)が取り決めた「密約」とされるが、幕府に知られたら御家取り潰しは必至。逆に幕府が知らないはずない「密貿易」が続いていたということは、それほど幕府の威信が低下していたという証左かもしれない。
幕末期、薩摩は蒸気船を17隻も保有していた。幕府は9隻だった。薩摩は日本最大の蒸気船保有藩だった。その原資は御手洗での密貿易だったという。アメリカが南北戦争に突入し、世界の綿糸価格が高騰した時、薩摩藩は全国の綿花を買い漁り、御手洗からヨーロッパに輸出し、その莫大な利益で軍艦や大砲、最新式銃を大量に購入した。そして、その旗振り役が五代才助だったというわけである。
薩長のつながりもまた、この御手洗にあった。もちろん芸州広島藩を通じた貿易である。広島からみれば、長薩芸三角貿易ともいえる関係である。