賀川豊彦(1888-1960)明治末期、日本最大と言われた神戸のスラムに入り、貧しい人々と共に暮らしながら社会変革を目指したクリスチャン。辛口の評論家、大宅壮一は「政治運動、社会運動、農民運動、協同組合運動など、およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると云っても、決して云いすぎではない」と語っている。

 神戸の回船問屋の二男として生まれたが、4歳の時、両親を亡くし、父親の故郷の徳島県で育てられた。キリスト教との出会いから牧師を目指したが、神戸神学校時代に肺結核を患い、余命数カ月を宣告された。短い余生を貧しい人々のために捧げることを決意してスラムに入り、人々の自立を支援するため労働運動や協同組合を立ち上げる。自らの半生を描いた小説「死線を越えて」がミリオンセラーとなり、時代の寵児となった。スラムでの献身活動は欧米の宣教師の手で世界中に知れ渡り、ガンジー、シュバイツアーとともに20世紀の3大聖人と称されるにいたった。

 1923年の関東大震災に際しては、東京市が手をこまねいている間に、被害が甚大だった本所地区を拠点に大規模な救済活動を展開した。その活動の中から、生活物資を共同購入する購買組合や生活資金を貸し出す質庫信用組合を設立。悲願だった協同組合による病院まで生み出した。ボランティアという言葉さえなかった時代、全国から仲間が集まって賀川の活動を支援した。

 賀川豊彦の名をさらに高めたのが1935年、アメリカの大学で行った「Brotherhood Economics」と題した講演。当時のアメリカは大恐慌から立ち直ることができず、困難に直面していた。賀川は共産主義でも資本主義でもない第三の道として協同組合主義経済を提唱し、ニューヨークで出版された著書は十数か国語に翻訳されたという。

 賀川は生涯、キリスト教徒と協同組合の理念を掲げて社会活動を推進した。アジアでの活動で満州事変以来の日本軍の中国侵略について、「謝罪」したことから、蒋介石政権からも評価され、宋美齢夫人は「日本を憎み切れないのは賀川先生がいるからだ」と語ったとされる。一方、訪英時にはマクドナルド首相と会見し、欧米によるアジア侵略に対しても厳しい批判の言葉を投げかけている。

 1941年、日米間の和平工作が困難を極めた時期、外務省の要請で訪米し、宗教関係者を中心に開戦を回避する工作を行い、ルーズベルト大統領に対して近衛首相との首脳会談を持ち掛け、合意間際に至ったが、日本軍による南部仏印進駐によって決裂したという裏話もある。日米開戦間際、反戦を掲げる賀川は渋谷の憲兵隊によって逮捕されたが、当時の外相、松岡洋介が「賀川先生を逮捕するなら俺を代わりに逮捕しろ」と圧力をかけたため、賀川は難を逃れた。

 戦後は東久邇内閣の参与として、平和国家建設に携わった。政財界人に呼びかけて国際平和協会を設立、世界連邦運動にまい進した。1949年には世界連邦アジア会議を広島で開催、まだ独立国の少なかった時代、アジアの有力者を集め、1955年のバンドン、アジア・アフリカ会議の礎となったとされる。10年ほど前、ノーベル平和賞候補に4回、文学賞に2回推挙されていたことが明らかになった。亡くなった1960年4月、病床にその知らせが届いていた。残念なことに受賞者決定の時期まで永らえることはなかったが、ワシントン大聖堂には世界の偉人として日本人唯一の彫像が掲げられている。(萬晩報主宰 伴武澄)