9月29日は日中国交50年の記念日だった。半世紀前に首相に就任したばかりの田中角栄氏が電撃訪中し、5日間の北京滞在で国交樹立を成し遂げた。それまで台湾の蒋介石政権が「中国」だった。当時の中国は文化大革命の終盤期。経済はおそろしく停滞していた。中国の唯一の輸出品は大慶の原油だった。日中貿易の大半がその原油を収益源としていた。それから半世紀、中国の経済発展は目覚ましく、GDPベースではもはや日本の3.5倍。自動車市場は7倍である。変わらないものがある。共産党独裁政権である。中国に民主主義はないが、経済だけは市場経済を驀進している。

日中間の最大の懸案はたぶん尖閣諸島である。領有権問題は国交当時もあったが、「将来の英知」に委ねられた。日本は戦後賠償を放棄した中国に対して、80年代から巨額のODA資金を供与した。欧米が中国市場にまったく関心を示さなかった時代である。日本のODA資金が中国経済を支え続けたといっても過言でない。だから感謝せよと言っているのではない。

僕が東京外大中国語学科に入学したのは、1972年4月。国交樹立の直前だった。世の中にそんな兆候もなかった。周りの人から先見の明があると言われたが、中国語を選んだのは、そこそこ英語はできたので、西洋の言語には関心がなかっただけのこと。大学に入ると、先輩たちが毛沢東語録を掲げて授業をじゃまにしに来ていた。教科書と言えば、ほとんどが中国から輸入された教材で「日本鬼」など反日教育そのものだった。中国語に関心を失うのに時間はかからなかった。戦前、中国で教育を受けた長谷川という主任教授はおもしろいことを言っていた。「お前ら、中国、中国というが、10億人がパンツをつくったら世界中の人たちが中国製のパンツをはくことになるのが、分からないのか」「中国の女性が毛皮のコートを欲しがれば、世界中の毛皮はなくなる」。そんな長谷川先生の言葉が50年後に現実になっている。

当時、日本人だけは中国に対して大いなるシンパシーを感じていた。今とは真逆である。若者たちは共産主義に対してある種のあこがれを持っていたことは確かである。大人たちには戦争に対する反省も大いにあった。それは経済人や政治家にもあった。中国もまた日本に対して大きな期待を抱いていた。上海宝山製鉄所は新日鉄主導で技術的にほとんど無償のような形で完成した。松下幸之助は北京にブラウン管工場をつくり、資生堂やワコールもまた中国に進出した。鄧小平が来日してから、日中蜜月は一段と加速した。

多くの人が中国の経済が発展して貧困がなくなれば、中国の反日はなくなると考えていた。アメリカや欧州諸国の人々も同じように考えていた。香港返還に際して、鄧小平が「一国二制度」を持ち出した時、半世紀もたてば、中国のものの考え方も懐柔されて西側の国々と仲良くなれるのだと信じていたと思う。

だが、中国が経済的にも軍事的にも大きくなるにつれ、逆に日欧米の中国に対する警戒心が強まった。特にアメリカはトランプ政権から中国経済に対して敵対的となった。特に先端技術の面で中国企業を排除する動きが強まっている。世界の覇権を維持したいアメリカと新たな覇権国となった中国との亀裂は深まるばかりである。

安倍政権以来、中国との距離感はどんどん広がっている。本来、安全保障面でアメリカの依存せざるを得ない日本ではあるが、かつてのアジア外交ではアジアへの共感もあった。もちろん中国へのアプロ―チもそうだった。あの天安門事件においても当時の三塚外務大臣は「アジアの鼓動が聞こえる」と称して西側で唯一、経済制裁に動かなかった。逆に安倍政権はアジアで中国抜きの協力関係を模索してきた。TTPはまさに中国抜きの経済体制である。クアッドも中国を包囲する安全保障体制である。いつのまにか中国包囲網的な世界秩序が生まれている。中国は当面、そんな世界に妥協するはずはない。中国との関係を重視してきた僕としては非常に困る。そんな気持ちで国交50周年を心から祝う気持ちにはなれない。