日中友好協会の機関誌「日本と中国」に日本各地に伝わる徐福伝説が連載されている。2022年4月1日号に高知県日中友好協会理事の故田村信雄さんが13回目を投稿している。田村さんは長年、同協会の活動に積極的に参画し、ここ数年、コロナで困難に直面する中国人留学生に対して親身になって世話をしていた。昨年末、ガンで亡くなった。この原稿が末筆となった。以下、機関誌から転載する。

 本連載開始から半年が過ぎたある日、本紙広報部に一本の電話がかかってきた。連載に触発され、地元高知県の徐福伝説をまとめたという。この思いがけない展開も、徐福が日本各地で大切にされてきた証しと言えよう。

 高知県の徐福伝説については、高岡郡佐川町斗賀野の郷土史家・明神健太郎(1906-1985)編著「高吾北文化史』第二巻「郷土の自然と伝説・実話」の”虚空蔵山鉾ケ峯”で、次のように述べられている。

 秦の始皇帝は神仙思想を信じ、扶桑国(日本)には「蓬莱」「方丈」「瀛洲」の三山があり、仙人が不老不死の霊薬を作っているという。そこえで重臣方士・徐福や張郎らに命じて扶桑国へ出発させたのは今から2200年前。一行は童男童女ら数百名と金銀、珠玉、五穀、器具など財宝を山積みにした船団を連ねて「煙台」から出帆した。

 最初に着船したのは肥前国(佐賀県)有明湾の寺井津であったが、再び出帆、土佐沖(高知県)で大シケに遭遇し須崎浦ノ内に漂着。一行は、あれが蓬莱山だと浦ノ内の漁師たちに教えられ、仙人が住むという高山にのぼった。漸く山頂に着くも日は没し、柴を折り敷いてシトネとした。「柴折り峠」の名前の由来となる。夜が明け、水天万里の故国の空をのぞみ、望郷の念やるかたなく腰の鉾を高くかざし、抱き合って号泣した。「鉾ケ峯」(虚空蔵山)の名前の由来となる。

 一行は山上を彷ったが、仙人に逢うことも仙薬を見つけることもできず、財宝を山上に埋めて山を下りた。その後、張郎は帰国の途に着き、徐福一行は土佐浦をあとにして紀伊(和歌山県)の熊野浦に漂着。農耕、水産や捕鯨の術を教えた。民は徐福を神としてまつり尊敬し、熊野には徐福の社、墓、楼門などがある。

 「鉾ケ峯」は標高675メートルで、佐川町斗賀野より車で虚空蔵山、わんぱく広場、山崎記念天文台広場方面へ上り、頂上へも車で行ける。天文台広場前には、徐福に関する立派な石碑がある。少し上り、峠より土佐市永野方面へ約200メートル下ると「鉾ケ峯寺」に至る。

 頂上にはテレビ塔が林立する。佐川町斗賀野、須崎市吾桑、土佐市永野地区の交差する地点で、見下ろせば左手に土佐市宇佐港、右手に須崎湾、はては土佐湾、太平洋が望め、「土佐十景」のひとつである。

 また頂上には、室戸岬の最御崎寺にまつられる虚空蔵菩薩の見向いとして弘法大師が虚空蔵菩薩を安置したと伝えられ、その石像がまつられている。石像の右後方には高知県出身の文豪・大町桂月の胸像を句碑がある。大正7年8月、土佐市永野方面より徐福が辿ったであろうと思いながら、桂月さんも頂上への道をのぼったのではあるまいか。

 JR佐川駅より須崎方面へ約2キロ、線路の左手に五位山緑地公園がある。小高い丘の斜面に子供の遊具があり、約10分で展望台に着く。展望台には1990年に佐川町が徐福伝説を記した石碑があり、その後方の山並みの右端、テレビ塔が林立するのが鉾ケ峯(虚空蔵山)である。

 一行が探し求めた不老不死の仙薬は、一説によれば古木の根元に生える「霊芝」(サルノコシカケ)と言われる。ここで、梅の古木に自生した貴重な「霊芝」を紹介しよう。産は仁淀川町で2021年9月のものである。(写真)

 始皇帝の命を受けた一行が出発したのは、司馬遷(紀元前145-前86)が書いた第一級の歴史書「史記」によれば、紀元前219年。徐福については1982年6月、中国の歴史学者によって、江蘇省出身で実在の人と発表されている。

 時代は下って室町時代。高知市五台山吸江で隠遁生活を送った禅宗無窓派・無窓疎石の高弟で、臨済宗の高僧であり、五山文学の双璧の一人といわれる土佐出身の絶海中津が明に渡り、(1366年入明-1376帰朝)、皇帝朱元璋(洪武帝)に謁見。徐福について問答をかわし、一行を懐かしんだという。高知市五台山吸江寺(吸江庵)の開山は夢窓疎石であり、三世が絶海中津である。吸江寺には、ともに室町時代作の夢窓疎石と日中文化交流の先達である絶海中津の木像が、大切に安置されている。(文と写真、高知県日中友好協会理事、田村信雄)