17世紀、コサックを率いて独立を目指したフメリニツキー

 1991年8月、ウクライナはついに真の独立を勝ち取った。正確に言えば、ソ連邦の憲法にはソ連邦から離脱条項があり、ソ連からの離脱を図ったのだった。戦争は必要なく、手続きだけですんだ。ウクライナ以前にバルト三国は離脱していたが、ロシア共和国に次ぐ大国ウクライナの離脱によって、中央アジアの共和国も相次いで連邦を離脱し、ソ連は「解体」した。
 ソ連邦解体の道をつくったのは皮肉にも1985年書記長に就任したゴルバチョフだった。ゴルバチョフはソ連というシステムを存続するために、二つの改革を行った。グラスチノス(情報公開)とペレストロイカ(経済再建)である。本願はペレストロイカだったが、既得権益の抵抗にあってなかなか進まなかった。先行したのはグラスチノスだった。
 ウクライナでソ連に対する不信が高まったのは1986年4月の原発事故だった。事故そのものの公表が2日も遅れるなど対応が遅れ、多くの人命が失われた。
 グラスチノスの浸透によって、1930年代の大飢饉が白日のもとにさらされ、保安警察によって虐殺された人々の大規模な墓場が発見された。ソ連邦に対する市民の反発はさらに高まった。ウクライナ語が復権し、国語となった。青と黄の民族国旗が現れ、人々はウクライナ国歌「ウクライナはいまだ死なず」を歌えるようになった。禁止されていたユニエイト教会、ウクライナ独立正教会も合法化された。またウクライナ正教会がモスクワから完全独立した。
 1989年9月、民族主義を長く抑圧してきたシェルビツキー第一書記を解任されたのを機に、ペレストロイアのためのウクライナ国民運動(ルーフ)が結成され、詩人イヴアン・ドラチが議長となり、多くの市民に支持されながら、公開の集会が相次いで開かれた。
 1990年3月、最高議会の選挙で、ルーフが議席の4分の1を占めた。反対党が初めて選挙に立候補できるようになったのだ。それまで飾り物だった共産党に代わって議会がウクライナの政治を牛耳るようになり、7月には連邦内での主権宣言を行った。
 独立を決定的にしたのはモスクワでのクーデター事件だった。1991年8月、ロシアの保守派が非常事態を宣言し、クルミアにいたゴルバチョフを拘束した。クーデターはエリツィン最高会議議長の勇敢な抵抗で失敗に終わった。その直後の8月24日、ウクライナ議会は独立宣言を採択した。国名はウクライナとなった。12月に国民投票を行い、90%以上が独立に賛成した。ロシア人の多い東部各州でも過半数が賛成に回った。大統領選ではクラフチューク議会議長がトップ当選した。
 ウクライナの独立宣言は20世紀に入ってから6回目だった。1918年1月、キエフの中央ラーダが「ウクライナ国民共和国」、同年11月、リヴィウで「西ウクライナ国民共和国」、1919年1月、キエフでディレィクトリア政府と西ウクライナ国民共和国が合併した「ウクライナ国民共和国」、1939年3月、フストでの「カルバト・西ウクライナ共和国」、そして1941年6月、リヴォウでのOUNによるウクライナ独立宣言があったが、長続きせず国際的にも広く承認されなかった。1991年の独立はフメリニツキーの夢が350年を経て現実化したといえる。「物語 ウクライナの歴史」の筆者、黒川祐次は「ソ連が自ら崩壊していく過程で棚ぼた的でもなったから、獨ちる運動を象徴するような人物もいない」を評している。