ウクライナに見る国境 夜学会229
NATOはソ連に対抗する欧米の軍事協定だった。ソ連崩壊後もロシアへの対抗措置として存続、1999年、反ロシアのポーランド、ハンガリー、チェコを陣営に組み入れた。そもそも冷戦末期の90年、当時のベーカー米国務長官とゴルバチョフ大統領の間で、ドイツ統一をソ連が許容する代わりにNATOが東方に「1インチ」も拡大することはしないという合意がされた。しかし合意を文章化する前にソ連が崩壊した。その後も旧東欧諸国のNATO入りが相次ぎ、ロシアからすれば、NATOは約束を破り続けたことになる。
ウクライナは、黒海の北域に位置し、古くは遊牧民スキタイが本拠とし、ギリシャ・ローマとの交易による先進地であった。8世紀ごろ、東スラブ族の国、ルーシがキエフを中心に栄えたが、ヴァイキングに征服され、キエフ大公国となった。13世紀にはモンゴル族の征西軍に蹂躙され、さらにポーランドとリトアニアに分割された。リトアニアはルーシ族を保護したが、西部地区はポーランド化が進んだ。他民族の支配の後に東西分断が始まったといわれる。15世紀、南部にクリミア汗国が立ち上がり、東部は新興のモスクワ公国の版図となった。軍事組織コサックが自治を行った時期もあったが、ウクライナはロシアやポーランド、オーストリアの属領が続いた。ロシア革命時に独立したが、ソ連邦の一員となり、第二次大戦ではドイツが進攻し、大激戦地となった。
1991年の「独立」後は親ロシア政権が続き、2004年、オレンジ革命で欧米より政権が樹立されるもエネルギー面で圧倒的にロシアへの依存率が高く、決してNATOやEUへの接近だけを模索してきたわけではない。現在、ウクライナはNATO加盟国とロシアとそれぞれ国境を有する。共和国主権宣言以来、中立・軍事ブロックの外に立つことを標榜しており、この二つの勢力の間でウクライナがとる安全保障政策は、NATOとロシアの両者にとって極めて重要な意味を持つ。
近年、ウクライナは、NATOの東方拡大を「ヨーロッパにおける安全と安定を強化し民主主義と自由を確立するもの」として歓迎している。実際、NATOが提唱した「平和のためのパートナーシップ構想(PfP)」に対してウクライナは独立国家共同体(CIS)諸国の中でもっとも早く参加を表明し、NATOへの将来の加盟を示唆するなど、NATOに対する積極的な姿勢を見せている。ウクライナは独自の安全保障圏構想をヨーロッパ諸国に提起し、PfPに不快感を表明したことさえある。強国ロシアに国境を接するウクライナにとって簡単に二者択一できる政治情勢にはない。
ウクライナは、11世紀ごろのキエフを中心とした地域の呼称。周辺国による統治により、20世紀になるまで国名とはならなかった。クラーイという単語に「地域」「隅」「境」「端」などの複数の意味があり、接頭辞としての「ウ」は「の中」という意味で国境の中とでもいえばいいのか、そんな意味があるそうだ。